1-4

 何日もそうは泣いてすごした。


 部屋の電気はけなかった。ベッドのそばにエナジージェルとラン用のボトルを置いて、腹が空き、のどが渇いたら口をつけた。1日に必要なカロリーは1500kcalくらいだったと記憶しているが、動かないせいか、ジェル数本だけで生きていられた。


 ベッドの中にいると、両親の思い出が蘇ってくる。彼はそれでまた泣いた。思い出はふたりに関するものに限らず、町全体にひろがった。あの夜、彼が亡くしたのは両親だけではなかった。彼は町を亡くした。


 役所のスピーカーが、この町が避難区域に指定されたことをくりかえしアナウンスしていた。彼はそれをベッドに横たわったまま聞いた。


 玄関のチャイムを鳴らす者があった。蒼が出ないでいると、「どなたかいらっしゃいませんか」と呼びかけてドアを叩いた。蒼は動かなかった。


 自分は病気で死ぬものと思っていた。いまでも夜になると熱が出る。金属のやりは出ないが、体に砂がつく。いつ両親のようになってもおかしくないはずだった。


 だが彼は生きている。死なない、と体がいっている。


 ある日、階下におりてトイレに入った。尿にょうは真っ黄色だった。水分が不足しているらしい。


 水を飲もうと台所に向かったとき、何かの声を聞いた気がした。


 蒼は立ちどまり、耳を澄ました。


 また声がする。外からだ。


 玄関でスニーカーを履き、外に出た。足がふらつく。夕空に山々が巨大な影となっていた。また声が聞こえる。


 犬だ。となりのあの馬鹿犬がえている。


 隣人の和田わだ夫妻には小さい頃、世話になった。母の帰りが遅いとき、家にあげてもらっておやつなど食べさせてもらった。小学校を卒業した頃からは疎遠になっている。息子さんが就職して家を出て、犬を飼いはじめたのはそのあとだという話を母から聞いた。


 蒼は表の門から入った。車が2台停まっている。広い家庭菜園があって、そのそばの犬小屋から茶色の柴犬が出てきた。蒼を見て吠えるが、いつもより声に力がない。


「おまえ、ずっとここにいたのか」


 蒼は声をかけた。犬はくさりでつながれている。地面に置かれた皿はからだ。


「待ってろ。食い物と水を持ってきてやる」


 蒼は皿を拾いあげた。玄関に向かいかけ、足を止める。


「やっぱおまえも来い」


 犬の鎖をはずしてやる。他人の家にひとりで勝手に入るより、に同行してもらった方がいい。


 玄関の鍵はかかっていなかった。「お邪魔します」と声をかけ、靴を脱いであがる。よその家だが、何だか懐かしい匂いがした。


 しばらく来ていなかったが、間取りは記憶していた。迷わず台所までたどりつける。


 流しの下にいろいろしまってあったことを思いだし、戸を開けると、缶詰などがある。カップラーメンも見つけた。無性に食べたくなる。温かいもの、固形のものはしばらく口にしていない。


 ドッグフードは2種類あった。どちらも封が開いている。


「おい、どっちがいいんだ」


 呼びかけるが、返事はない。蒼は廊下にもどった。


 犬が前足でトイレのドアをひっかいている。


「何だよ。何かあるのか」


 蒼が引きあけると、妙に重かった。何かが倒れてきて、床に叩きつけられる。


「うわっ」


 彼は悲鳴をあげ、逃げようとして壁にぶつかって転んだ。


 和田のおじさんが床に転がった。ほおを床につけ、口はだらしなく開けている。目から涙とはちがう、茶色く澄んだ汁を流していた。もんゆがむ表情はまるで蒼を責めているかのようだ。


 蒼の知る彼は黒髪だったが、いまは真っ白になっている。生え際の頭皮が水っぽくれて、触れると弾けそうだった。


 季節はずれのふとったはえがうなるような羽音を立てて飛んだ。


「ああクソッ……クソックソッ」


 蒼はこぶしで床を叩いた。いまわしい記憶がまた蘇る――あの夜の体育館。


 背負うのは両親の死だけで精一杯だ。他の死体は荷が重すぎる。


 仰向けになり、手で顔を覆った。吐き気と涙がまた襲ってくる。背中に当たる床のフローリングがよそよそしく冷たい。


 犬が鼻を鳴らしていた。蒼は顔をあげた。


 飼い主の顔に犬は鼻を近づけ、目頭から垂れる汁をめとった。


「おい、何やってんだ。やめろ」


 蒼は立ちあがり、首輪をつかんだ。「行儀よくしてろ」


 そのまま台所にひっぱっていく。ドッグフードの袋を見せると跳びついて食いやぶろうとするので、奪いとる。蒼はすこし考えて、カップラーメンを手に取った。缶詰を適当に取り、スウェットパンツのポケットに詰める。ドッグフードは脇に抱えた。


 廊下は狭くて、死体で塞がれていた。仕方なくまたいでとおる。


「おじちゃん、こいつ連れてくから」


 彼は足元で尻尾を振る犬を見おろした。「あと、食い物もらってく。こいつと俺の分」


 小さい頃、この家にいておじさんが仕事から帰ってくるとすこし緊張した。別に怖い人ではなかったのに、なぜそのように思ったのだろう。いまとなっては不思議だ。


 玄関に食料を置き、彼は寝室に向かった。


 押入のふすまを開ける。そこにおばさんの死体が入っていることも覚悟していたが、幸いそれはなかった。


 彼は毛布をひっぱりだした。廊下にもどり、おじさんの体にかける。フリースジャケットを着ている彼の首筋に黒い金属がのぞいている。背中が大きく膨れてこぶのようだ。


「おじちゃん、ごめん。何もしてあげられなくて」


 顔までおおって蒼は家を出た。外は川の、すこし青くさい香りがした。夕方のこの時間にはいつも漂って町を包む。


 彼の家の方に駆けていった犬がまたもどってきて、彼をかす。


 隣家では庭で飼われていた犬だが、彼は中に入れた。


 台所の床に皿を置き、ドッグフードをあける。


「ん? ちょっと多すぎたか」


 適量を知るためパッケージの文字を読んでいると、犬は飛びついて食べはじめた。あまりに勢いがいいので、多すぎる分を袋にもどすこともできない。もうひとつの皿に水を入れてやる。


 電気ケトルでお湯をかす。


 沸騰したお湯をカップラーメンに注ぐと、ふわっとうまそうな匂いが立ちのぼった。3分待つようふたには書かれているが、蒼は我慢できず、はしをつっこんだ。


 まだめんがお湯を吸っておらず、シュレッダーにかけられた紙を濡らして食べているような舌触りだった。だがうまい。温かくてしょっぱくて、このところ飲んでいたジェルとは大ちがいだ。蒼は大きくため息をついて湯気を吹きちらした。


 口の中が火傷やけどするのも構わず彼はむさぼり食った。半分だけ開けた蓋が邪魔になり、がして捨てる。カップに口をつけ、細かい麺の切れ端まですすった。残ったスープを飲む。もう大分冷めているかと思ったが、意に反して喉の奥まで流れこんできたのは熱くて、むせかえる。


 見ると、床の上で犬が彼を見あげている。


「何だ。もう食いおわったのか」


 犬は心なしか、先ほどよりも顔つきが穏やかになったように映る。蒼はスープを飲みほすと、コップに水をんで飲んだ。ボトルに入れて部屋に置いておいたのとはちがって冷たい。口や喉に残っているラーメンの余韻が洗い流されて、しっかり腹に収まったという感じがする。


 歯を磨いて蒼は2階にあがった。ついてきた犬が床で乾いた瀉物しゃぶつの臭いを嗅ごうとするので引きはがす。


 ベッドに倒れこむと汗の臭いがした。うつぶせの姿勢がさっきの遺体を思いおこさせて蒼は、寝返りを打って目を閉じた。犬は床で寝ている。自分のとはちがう呼吸音が部屋にあるのは何だか奇妙だったが、そこに意識を集中させると、このところ頭から離れなかった冷たい足や強張った顔たちの映像が浮かんでこなくなった。


 彼はベッドの端に寄り、すこし湿ったような感触の毛を指先で撫でた。




 翌朝、まだ暗い内に起きだした蒼は、シーツをベッドから剥いで風呂場に向かった。着ているものといっしょに洗濯機に放りこむ。スウェットの上下はずっと着たままだったのですこし汗臭くなっていた。


 シャワーを浴びる。何日ぶりだろう。首筋に砂がついている。犬が戸をひっかくので入りたいのかと思って開けると、みず飛沫しぶきを嫌って逃げだす。


 風呂からあがって、セーターを着、ジーンズを穿いた。


 台所に行き、米をいで炊飯器にセットする。


 洗濯が終わったので2階のベランダに干す。


 スマホを点けようとしたらバッテリー切れだったので充電ケーブルをす。


 廊下の吐瀉物を雑巾ぞうきんで拭きおえたらご飯が炊けた。おかずはさばの缶詰だ。しょうを垂らし、ご飯の上に乗せてかきこむ。寝こんでいる間に落ちてしまった筋肉を取りもどそうと、体中が食べ物を求めている。ご飯をおかわりしていわし蒲焼かばやきで2杯目をたいらげた。犬も鼻を鳴らしてドッグフードをがっついている。


 洗い物を済ませて外に出た。


 犬にひもはつけない。犬が走り、跳ねまわるままにした。


 これまで動物を飼いたいと思ったことはなかった。犬も猫もハムスターも金魚も興味がない。いつも自分のことで手一杯だった。


 それでもこの犬のくるりと巻いた尻尾を振って歩く姿はかわいらしい。ときどきこちらをふりかえって気をこうとする。


 蒼はほほえみ、あごをしゃくった。犬はそれを見てうれしそうに駆けていく。


 犬を追って斜面をおり、川岸に出た。澄んだ水に紅葉が流れていく。濃い色の葉が底に沈んでいる。砂地の川底に波が淡い影を落とした。


 犬が口をつけて水を飲む。蒼も手ですくい、啜った。冷たさにため息が出る。


 幼い頃よく遊んだ川だった。この水に触れるのは何年ぶりだろう。手を合わせてざぶりと掬い、顔を洗った。夜にかいた汗と熱のごりが拭いさられたような気がした。


 彼は靴を脱いで裸足になった。ジーンズのすそをまくって川に足をける。しびれるほど冷たい。砂に交じる小石がとがって足の裏を刺す。人間がおかしなことをはじめたとでもいいたげな目で犬が見る。


 水位は足首のすこし上くらいだった。体温が奪われてこの先にある湖へと流れていく。


 彼は思いたってセーターとその下に着ていたTシャツを脱ぎ、岸に放った。足をジーンズからひっこぬき、ボクサーブリーフも脱ぎすてる。そのまま全裸になって流れの中へと歩いていった。


 一番深いところでも水は膝までしかなかった。川の上は風のとおり道になっていて、体に当たると鳥肌が立った。彼は肌を撫でた。数日間ろくに食べなかったせいで筋肉がしぼんでいる。


 彼はしゃがみ、腰まで水に浸かった。上流の方を向くと、冷たい水が脚の間に流れこんで内腿うちももを撫で、縮こまった性器をもてあそび、肛門をくすぐって去った。


 静かだった。この町の底に響いている音の只中ただなかに彼はいた。道を歩くときも家にいるときも、この音は耳に入っていたはずなのだが、意識の表面にはのぼっていなかった。いま人がいなくなり、空いたところをこの音が満たしている。


 彼は水を掬って顔に叩きつけ、強くこすった。腰を折り、頭から水をかぶる。体のすべてが濡れる。


 彼の中にあった悪いものがすべて洗い流されると思った。あの見たこともない病気は外から来たものだ。それは清めることができる。この体には居着かせない。


 水に浸かったまま彼は周囲を眺めわたした。山の紅葉がきれいだ。じっと見ていると葉の1枚1枚が識別できそうだが、気を抜くと山を覆う1枚のにしきに姿をかえる。


 幼い頃もよくこうして川の真ん中にしゃがんでいた。ずっとここで長い年月をすごしてきたような気がする。


 この町はどうなってしまうのだろう。住人を失い、かわりはててしまった。


 ずっとこの町で暮らすものと思いこんでいた。そうやって生きていくことが夢だったのだ。


 やりたいことや夢を父にきかれて答えられなかった。いまならいえる――聞いてくれる相手はもういないが。


 この町ももう死んだ。


 土地はある。家もある。川も山もある。だがもう町のていを成していない。夢の残骸ざんがいというべき場所でいま彼は生きている。


 彼はもう泣かないと決めた。夢は終わりかけている。涙を流している暇などない。


 すべてを失ったあとで、かわらずにこの町は美しい。だから生きていける。


 彼は川底に手を突き、腕立て伏せのような姿勢で全身を流れに沈めた。押しながそうとする力にあらがい砂をつかむ。肌を撫でる冷たさに砂の粒が交じり、鮮やかな感触を残していった。

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