最終章

 卒業式を間近に控え、進学する学校も初めに希望していたところよりも一つ上の学校に進学することになった新吾達家族は、四月から別の土地で暮らすことになった。

 あらかた引越しの荷物をまとめ終え、受験という時間的拘束から解き放たれた新吾は年明けからずっと考えていた償いの方法を再び模索していた。

 しかし命の償いなどできるはずもないというのが、三ヶ月考え抜いて導き出された結論だったが、それでもそんな結論は新吾自身が許せなかった。

「新吾、何ぼうっとしているのよ。早く準備しなさい」

 突然信子が部屋の扉を開けたことに新吾は少し驚いたが、右手を上げてそれに応えた。

「早くしてよね」

 信子が念を押してから扉を閉めると、新吾はゆっくりと立ち上がり、椅子の背もたれに吊るした小さな肩掛け鞄を手に取った。

 大きさの割に重さのあるそれをしっかりと携えると、厚手の上着を着込み、腕時計を嵌め、母の待つ居間へと向かった。

 新吾達の新居は二つ隣の県にあり、掃除をしたり、送った家具を並べたりと、引越しの準備は着々と進んでいた。

 新吾は自分を取り巻く環境が変わっていってしまうことに危機感を覚えていた。

 指切り様のお化けビルは取り壊しが決まり、異例の速さで解体が始まった。

 しかし、謎の事故や機材の故障が相次ぎ、作業は難航していて、まだ殆どその形を残したままになっている。とはいえ、いつかはお化けビルもすっかり取り壊され、更地になるのか、何か別の建物が建つのか新吾には分からなかったが、ビルがなくなることによって自分の罪の意識も風化して少しずつ記憶から削り取られ、消えてしまうのではないかと新吾は危惧していた。

 だからこそ、と新吾は考えていた。

「今日、俺は向こうには行かないよ」

 居間の襖を開けるなり、開口一番、新吾は化粧をしていた信子に言い放った。信子は虚を突かれ、暫くぽかんとしていた。

「今日は他に行くところがあるから」

「え? ちょっと待ちなさい。昨日はそんなこと言ってなかったじゃない。それに、動かしたい家具だってあるのに、お母さん一人じゃ無理よ」

「とにかく今日は行かないから!」

 新吾は引き止める信子を置き去りにして居間から離れると、そのまま外へと飛び出した。

 少し走ってから後ろを振り返ると信子が追いかけてくる様子は見られなかった。新吾はそこで走ることを止め、自分の腕時計に目を落とした。

 時計を五分早めることはしていない。

「……バスは無いか」

 新吾は苦笑いを浮かべ、バスを諦めて徒歩で目的地へと向かい歩き始めた。

 一昨日、冬に逆戻りしたかのように降った大雪が除雪され、道のあちこちに集められて盛り塩のようになっている。

 唐突に吹く北風に身を縮こませながら、時折肩に掛けた鞄の位置を直し、その度に新吾は鞄の中身の存在感にある種の畏怖を覚えながら黙々と歩みを進めた。

 三十分程歩き、新吾は夏祭りに訪れた神社までやって来た。

 これからすることは前田と最初に会ったこの場所で決行することが一番相応しいのではないだろうかと、新吾はいつからか考えるようになっていた。

 石段を上り終えると新吾は鳥居をくぐり、境内に足を踏み入れた。

 境内に参拝客の姿は無く、しんと静まり返り、冷えた空気と相まって、そこはかとなく荘厳な雰囲気がそこかしこから醸し出されていた。

 新吾はこれから自分のやろうとしていることが酷く罰当たりなような気がして、一瞬決意が揺らぎかけたが、頭を振って弱気を振り払うように歩みを続けた。

 本殿に続く石畳の道を進み、新吾は雪掻きのされていない、本殿の脇の林の中へと入って行く。

 夏に来た時は林の奥に続く獣道のようなものがはっきりと見えていたが、今は雪に埋もれてしまい、あの日はここから入ったのだろうかと新吾は少し心配になりながらも、目的地は大きく開けた場所だったことを思い出し、どこから進んでもきっと辿り着けるだろうと、構わず林の中に分け入った。

 ある程度の雪ならば慣れているつもりの新吾だったが、家を飛び出してきたせいで無意識に履き慣れた運動靴を選んでしまい、まだ誰も踏み入れていない雪道を進むには困難を要した。

 新吾の耳には鳩や烏、それから知らない鳥の鳴き声と自分の雪を踏み固める音だけが聞こえていた。

 足を挫いたり、転んだりしながらも新吾は確実に前へと歩みを進めた。途中、歩き疲れて見上げた空にはどんよりとした灰色が広がっていて、新吾はそれが曇っているから灰色なのか、自分の心情が反映されて灰色に見えるのか、まだその判断はつかなかった。

 ところどころで休憩を取りながら歩き、木立の間から社が小さく見え、思っていた以上に時間をかけて、新吾はようやく林を抜け出すことができた。

 目的地に着いた新吾は生唾を飲み込んだ。

 新吾は鞄の位置を直すと、かじかみ、重くなった足を一生懸命動かし、やっとの思いで社の下まで辿り着いた。

 新吾は社の軒下の雪の無い場所に腰を降ろすと、肩で息をしながら自分が歩いてきた道を振り返った。そこには新吾の歩いた足跡だけがしっかりと雪の上に刻まれていた。

 新吾は目を閉じ、キンと冷えた空気を鼻から大きく吸い込み、口から吐き出した。

 瞼の裏に浮かぶのは、この場所で前田に会った、あの夏の夜のことだった。

 あまりに鮮明に浮かぶものだから、新吾は目を開けたら前田がそこにいるのではないかと思って目を開けたが、前田の姿があるはずも無く、灰色の現実が変わらずそこにあるだけだった。

 新吾は自分でも馬鹿なことをしたと気を落としながら、肩に掛けた鞄を自分の膝の上に乗せた。

 新吾はこれからすることが償いになるとは欠片も思ってはいなかった。新吾はただ忘れたり、風化したりすることがないように刻み付けようとしていた。

 たとえ誰にも認められない罪だとしても、叱責されないことに甘んじることなく、償うのではなく、背負うことで自身を罰し、そしてここから新たに長い人生を歩んでいく。それが、この事件の全てを理解した新吾の導き出した答えだった。

 新吾は鞄の中にゆっくりと手を入れ、そして祖父母の家の物置から黙って持ってきた鉈を取り出した。

 刃を包んでいた紙を取り除くと、年季の入った柄とは対照的に錆びや曇りが一切ない鋭利な刃が現れた。

 祖父に償う方法を探せと言われたあの夜に、一番初めに思い付いた方法だったが、正直なところ怖くもあり、将来的にも不利益しか生まない行為であるなど、様々な葛藤を抱えたが、しかしそれでもやらなければならないと決意したのは、新しい家を見て、卒業を控え、お化けビルが取り壊されるところを目の当たりにし、自分は新しく変わっていく環境を新しい自分で迎えなければならないと感じたからだった。

 これから行うことは逃避の思考ではなく、背負う決意の証だった。

 これからの人生、理不尽に思うことや上手くいかないことがあったとしても、自分の力ではない他の強大な間違った力を借りることなく、自らの力だけで解決すると誓いを立てるために、新吾は自らの小指を切り落とすことを決意した。

 鉈の柄を握り、新吾は適当な段差を見つけるとそこに小指を乗せた。

 小指に刃をそえると皮膚越しに骨と刃が当たり、行動の先の結末が目に浮かび、全身に緊張が走った。

恐怖を追いやり、狙いを定め、ゆっくりと腕を振り上げる。

しかし、なかなか振り下ろすことができず、次第に腕を上げているのが辛くなって、新吾は一旦腕を下げた。

 そんな行為を何度も繰り返し、自分の意思の弱さに憤りと情けなさを覚え、新吾の目にはうっすらと涙が滲んだ。

 涙で視界を歪めながら、新吾はもう一度刃を小指にあてがい、狙いを定めた。

 そのとき、風が吹いた。

 冬の乾いた風ではなく、夏特有の湿気を含んだまとわりつくようなあの風が、新吾の体を吹き抜けていった。

例えその風が錯覚だったとしても、少なくとも新吾は間違いなく、そう感じた。

 瞬間的に新吾はあの夏の夜に立ち戻り、前田と対峙していた。

「前田!」

 前田の顔に恨みの色は無く、ただ無表情に新吾の姿を見据えていた。

 新吾は言えなかった謝罪の言葉を伝えようとしたが、新吾が言葉を発するよりも先に景色は現実へと戻っていた。

白昼夢から醒めたと同時に、新吾は自分の小指に狙いを定めて高らかに腕を振り上げると、雄叫びを上げながら勢い良く鉈を振り下ろした。

                                   (完)

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指切り 國澤 史 @kunisawa

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