第五章 5
学校の再開は週明けの月曜からだった。
この日から冬休みに入るまで児童達は保護者と同伴での登下校が義務付けられ、新吾も毎日信子と並んで登校するようになり、そして一週間が経った。
事件後の登下校時、学校の周りには毎日取材の記者達が待ち構え、記者達はこの例を見ない猟奇的な殺人事件と一つの学校で一年もしないうちに三人もの児童が亡くなっている事を大々的に取り上げ、憶測と共に連日一面を賑わわせていた。
学校側が保護者の同伴を義務付けたのは不審者の危険から児童の安全を確保すると共に、こういった記者達を追い返すためという、二点の役割を担っていた。
騒ぎの発端となった前田の葬式は親族のみで行われ、通夜なども開かれなかった。
新吾は通夜に参列しなくてもよくなったことにどこかホッとした心持ちを覚えていたが、一方で心にある罪悪感を前田の前で打ち明けたいという気持ちもあり、新吾は日に日にその苦しみを心に蓄積させていた。
ある時、新吾はその苦しみに耐え切れなくなり、詰め寄ってきた記者の一人に前田の死について全てをありのまま話したことがあった。
信子は目を丸くし、記者は事細かに死の状況について語る新吾に食いついたが、指切り様の名前が出てきたところで困った表情を見せ、最後は自分が殺したのだと主張する新吾から逃げるように去っていった。
新吾は真実を話しているのに離れていく記者が理解できず、同時に外への気持ちの捌け口を失い、裏切られたような気持ちが心にまた上積みされ、一層暗い気持ちの中へと新吾は沈み、そして家に帰ってからは信子に酷く叱られた。
世間に裏切られたと感じた新吾は、それから事件について誰にも語ることは無く、そして自分の声が届かないならと塞ぎ込むようになり、これをきっかけに新吾は世間を忌み嫌い、記憶や時間の認識が薄く、曖昧になりだした。
加えて、孤独になった新吾にまるで追い打ちをかけるように、新吾は毎晩必ず悪夢をみるようになった。
夢の中の新吾は真っ暗な空間の中にいて、光を求めて歩いていると、どこからともなく前田の最後の悲鳴が聞こえ、怖くなってその場から逃げ出すと何かに躓き、躓いた何かを確認すると、それが前田の死体だったという夢を何度も何度も繰り返しみるようになり、遂に新吾は眠ることもままならなくなった。
眠れなくなった新吾は徐々に体力と気力を擦り減らし、やがて心神耗弱状態に陥り、教室や町中、家にいるときでさえ前田の悲鳴が幻聴として聞こえるようになり、唯一、勉強をしているときだけが前田の悲鳴を聞かずに済む時間だと気が付いた新吾は、取り憑かれたように机に向かうようになった。皮肉にも塾での模擬試験で志望校の合格率が大幅に上がり、それについて信子は新吾を元気付けるためか大袈裟に喜んだが、新吾は微塵も喜ぶことなく、ただ黙々と勉強の世界へと逃避していた。
冬休みを間近に迎えたある日、偶然にも熟睡することができた新吾は、久しぶりに少しだけすっきりとした心持ちでようやく事件について振り返る余裕を取り戻すことができた。
新吾は事件を思い返し、どうしても理解できないことがあった。
それは自分があの場にいたという痕跡が皆無であることと、なぜ指切り様は他者を巻き込んでまで、約束の時間を経過したにも関わらず前田を殺害してしまったのか、という二つの事柄だった。
先の疑問については、学校が再開してからあの夜に通った経路を辿ってみたが、新吾はこれといって自分がそこにいたという証拠を見つけ出すことはできなかった。
最大の証拠となるはずの前田の遺体や、その辺りに拡がっていた血溜まりは当然あるはずもなく、自分に対して警察から何か連絡があるだろうと待っていた時期もあったが、今でも事件に直接関係のある聴取などの要請は新吾の下に届いていなかった。
事件当日の夜、新吾が家に居たと口にした信子に新吾は折をみて何度か確認を取ろうとしたが、事件について信子は頑なに口を閉ざし、何も聞き出すことができずにいた。
新吾自身の事件関与の証拠が抹消され、その痕跡が発見できないとなった新吾はこれ以上真相を追求することができず、残った疑問は指切り様がなぜ二十四時間という制限時間を超えて前田を殺したのかという点だった。
これについては二十四時間を過ぎたら助かるという考え自体が間違っていたのだと結論を出し、指切り様についてこれ以上の情報を誰かに聞いてまでその正否を確認しようとは思わず、そこで考えることをやめた。
どんなにもっともらしい仮定をしたところで前田が生き返るわけではないのだと考えると再び暗い気持ちの中に沈み込む新吾だったが、前田の死の真相は何の前触れも無く、突然もたらされた。
ある朝、眠れずに夜を明かした新吾がうつらうつらと睡魔と戦っていると、信子が新吾の部屋の扉を開けて中に入ってきた。
「新吾、おはよう。……また徹夜で勉強してたの? ちゃんと寝なきゃ駄目でしょ?」
信子は口では叱りながらも新吾の傍まで行くと、そっと新吾の頭を撫でた。
「……切りのいいところまでやろうと思ってたら朝になってた」
新吾は自分の頭の上に乗せられた手をどける気力もなく、されるがままになっていた。
「で、何? 何か用なの?」
撫でることをやめない信子に鬱陶しさを覚えて、新吾は身じろいで信子の手から逃れると、信子の要件について尋ねた。
「あ、そうだった。十時からお爺ちゃんの家に向かうから支度しておいてね」
新吾は信子の言葉を受け、少し考えてから、もうそんな時期なのかと、何か喪失感のようなものを覚え、妙な寂しさが胸中に生じた。
新吾の家は毎年年末になると祥吾の実家に帰省することになっていた。
「……あんまり行きたくないな」
「お爺ちゃんもお婆ちゃんも楽しみにしているんだから、行かなきゃ駄目よ」
新吾は祖父も祖母も大好きだったので、会いたい気持ちは勿論あったが、自分が間接的に人を殺したことを知られるかもしれないと思うと怖くて会いづらかった。
「……分かった。行くよ」
しかし帰省しなければしないで、なぜ帰って来なかったのか、その原因を追求されかねないと考えた新吾は、仕方なく祖父母の家に行くことを決めた。
十時を過ぎ、新吾は両親と三人で祖父母の家へと向かった。長時間電車に揺られ、祖父母の住む町に着く頃にはすっかり日は沈み、車窓からはだいぶ間隔を置いて点々と家の灯りが流れていった。
電車を降り、駅を出てすぐのところに祖父が車を着けていて、新吾達は少しも寒い思いをせずに済んだ。
祖父は寡黙な人間だったので、新吾の口数が少ないことを特別追求されることはなかったが、祖母はおしゃべりが好きな人だったので、新吾は隠し通すことができるのか考えると憂鬱だった。
「いらっしゃい! 寒いでしょう? さあさあ、早く中に入って」
祖母は玄関で待っていたらしく、新吾達が到着するなり、扉を開けて皆を迎え入れた。
「新ちゃん元気なさそうだけど、疲れちゃったかい? 中でお茶でも飲むかい?」
祖母は新吾の荷物を持とうとしたが新吾は祖母を気遣い、さり気なくそれを断り、慣れた足取りで家の中の居間へと向かい、祖母はその後に続いた。
お茶で一服し、その後、荷物を客間に置くとすぐに夕食となった。
食が細くなっていた新吾は殆ど食べ物が喉を通らず、好物ばかりが並んでいたがすぐに箸を置いてしまった。
「新ちゃん、もう食べないのかい?」
祖母は新吾のご飯にお茶をかけるかと勧めてきたが、新吾は首を振って断った。
――こんなに優しくされる資格なんて、俺には無いのに……。
新吾は優しい気持ちを向けられる度に針の筵に座らせられるような気持ちになり、素直に受けられないことが優しくしてくれる人達に申し訳無く、心苦しかった。
「辛いこともあったかもしれないけど、何があったって生きていかなきゃならん。死んだ人間を偲ぶのは大切なことだけど、生きている人間が死んだようになっちゃいけないよ」
祖母は新吾の手の上に自分の手を乗せると、しっかりと握り締めた。
しかし新吾は祖父母も事件のことを知っていることが分かり、サッと握られた手を引いて祖母に背を向けた。
祖母はすぐに何か新吾に戸惑い混じりの言葉をかけ、そんな新吾の態度に信子も注意をしたが、新吾の耳には全く入ってこなかった。
祖父母に知られたことにより受ける同情や憐憫が更に自分を追い詰める要素となり、居た堪れなくなった新吾は居間を飛び出し、そのまま荷物を置いた客間の押入れに逃げ込み、頭から布団を被った。
すぐ後から祖母が押入れの前で何度も新吾に謝っていたが、新吾は布団の中で大声を上げて、その声が自分の耳に届かないようにしていた。
しばらくして押入れの前から人の気配が無くなったが、それでも新吾は天敵から逃れ、巣穴に籠る小動物のように震え続けていた。
どのくらいそうしていたのか分からないが、新吾は尿意を催し、とうとう我慢しきれなくなって、そっと押入れを抜け出すとトイレへと駆け込んだ。
用をたし、新吾が扉を開けると、そこには祖父の姿があった。新吾は驚き、身を固くした。そして、すぐに気不味さを覚え、新吾はできる限り祖父の顔を見ないようにして、その場から立ち去ろうとした。
「さっきは悪かったな。婆さんも無神経だったと反省しておる」
新吾はまたしても返す言葉が見つからなかった。
「とりあえず、あれだ、新吾。風呂にでも入って、さっぱりしてこい」
祖父は新吾に風呂を勧めると、居間へと戻っていった。
事件以来、初めてと言っても良いほど、腫れ物扱いされなかったことが自分の立場も忘れて嬉しくなり、新吾は祖父の勧めは素直に受け入れることができた。
一度客間に戻って寝巻きを手にすると、新吾は風呂へと向かった。
新吾が風呂で体を洗っていると、突然、祖父が扉を開けて中に入ってきた。
「え? ちょっと待って、何?」
新吾が当惑するも祖父は構わず風呂桶を持ってお湯を汲むと体にかけ、そして風呂に浸かると大きく息を吐いた。
「冷えるから、とっとと洗って、こっち来い」
新吾は恥ずかしさを覚えて、風呂から出てしまおうかと思っていたところを先に押さえられてしまい、渋々その言葉に従った。
新吾は仕方なくそのまま全身を洗い、それが終わると湯船へと向かった。新吾が二人で入るには少し狭いかもしれないと思っていると、入れ替わるようにして祖父が湯船から出て、体を洗い始めた。
新吾はお湯に浸かると体育座りをして小さくなり、顎まで湯船に浸けた。二人は言葉を交わすこともなく、新吾はただ祖父の背中を眺めていた。
「……お爺ちゃんはさ、農家やってるでしょ。それって、動いたりしないけど生き物を毎日のように殺しているってことだよね? ……罪悪感とかって、無いの?」
新吾は自分で自分に驚いた。
しかし、思わず口をついた言葉ではあったが、新吾の本心からの疑問であることに間違いなかった。
父でも母でもなく、常に命を奪う側である人間の心構えというものを、新吾はずっと誰かに聞きたかった。
「……俺達は無駄に作物を収穫しているわけじゃねえ。自分達の命を繋ぐために取らせてもらってんだ。弄んでいるわけじゃねえ。新吾が今、何に悩んでいるのかは分からねぇが、何か間違いをやっちまったってんなら、それを償う方法を一生懸命考えるしかねぇんじゃねぇか?」
そう言って祖父はお湯を被ると、風呂場から出て行った。
残された新吾は金槌で頭を打たれたような衝撃を受けていた。そして、自然と笑いが漏れた。
ひとしきり笑い、それが治まると、新吾は体の向きを変えて浴槽一杯に手足を伸ばし、天井を見つめた。
「償い、か……」
祖父の言葉から一縷の光明を見出せたように感じた新吾は、灰色ながら、久しぶりに目に映る景色に焦点が合い、くっきりと自分のこれからすべきことが理解できた。
それから数日が経ち、大晦日を迎え、新年へ刻々と時間が差し迫る中、新吾は両親、祖父母と炬燵に入り、テレビを囲んでその瞬間を待ち構えていた。大人達は去りゆく年の思い出話に花を咲かせ、新吾も不謹慎とは思いつつも、どこか心が浮ついていた。
そして遂に新年まで十秒を切り、テレビは一番の盛り上がりをみせている。そんな中、新吾が何気なく自分の腕時計に目を落とすと、驚愕の事実に思わず絶句した。
新吾の腕時計の針と、テレビの告げる時間は同じ時間を告げていた。
――いったい、いつから同じになっていたんだ……。
新吾の腕時計は五分早めに設定されていた。しかし今は通常と同じ時間を刻んでいる。
それが一体どんな意味を持つのか、新吾は落ち着いて整理を始めた。
――もし……。もし、時計の時間が指切り様との契約の前に直っていたのだとしたら、五分早まっていると思っていた十時丁度が期限じゃなくて、十時五分が本当の期限だったのか……?
賑やかな雰囲気とは対照的に、新吾の心は突然の真実に冷たく震え始めていた。
――だとしたら、誰が時計の時間を直したんだ? やっぱりこれも、指切り様の力なのか?
そして新吾は、ここである出来事を思い出す。
――指切り様と契約する前に、最後にこの時計を触っていたのは……、前田だ……。
新吾は前田が自分の家に遊びに来たときのことを思い出していた。
そして更に思い返せば、前田に裏切られたと思い込み、お化けビルに向かうために乗ったバスも定刻よりも早く発車し、危うく乗り遅れそうになった。あれも五分前行動をしていると思い込んでいたために早く発車したと感じていたが、あの時点で既に五分の余裕は無くなっていたのかもしれないと新吾は考えた。
そして、この考えが正しいのであれば、指切り様が十時を過ぎて前田を殺した行動にも説明がついた。
全ての事象が明らかになった瞬間、新吾が一番恐ろしく感じたことは、前田さえも死の要因に組み込んでいる指切り様の隙の無さだった。
「新ちゃん、どうかしたの?」
新吾は祖母に声をかけられ、体を硬直させて、立て付けの悪い扉のように鈍い動作で祖母の顔を見た。
「……新ちゃん、どうして泣きそうな顔をしているの?」
祖母を初め、全員が新吾に心配の視線を注いでいる。
「え? 嘘……」
新吾は自分の顔を触り、そこで初めて歪んでいることに気が付いた。
「……お腹痛いから、もう寝るね」
新吾は大人達を残し、居間から飛び出した。背後から新吾を心配する声が聞こえたが、新吾はそれを置き去りにして客間に戻ると、布団の中に逃げ込んだ。
様々な感情が浮かんでは消えていく中、新吾は不意に祖父の言葉を思い出し、はたと気が付く。
――時計がどうとか、関係ない……。俺のやることは決まっているはずだ……。
新吾は例え前田が自分で自分の首を絞める行動をしていたとしても、新吾が指切り様に願わなければ前田が死ぬことはなかったという根本を思い出し、新吾はようやく心を落ち着かせることができた。
――……大丈夫、……もう揺るがない。
新吾は決意を新たにすると瞼を閉じた。
その夜、新吾は両親祖父母が寝静まるのを待ち、そっと部屋を抜け出すと、外の農作業道具入れの物置へと向かった。
凍えるほどの寒さに耐えながら、僅かばかりの街灯の灯りを頼りに物置前までやって来ると、錆び付いていて軋む扉をなるべく音を立てないように少しずつ開いていき、全て開放すると新吾はあるものを探し始めた。
去年来たときにそれがあったことは覚えていた新吾は、同じところに置いてあればきっとすぐに見つかるだろうと考えていた。
そしてその考えは当たり、新吾が記憶の中の置き場所に手を伸ばすと、指先に硬い物が当たり、慎重にそれを握ってみるとしっかりとした重量を感じ取ることができた。
「……よし」
新吾は目的の物を回収すると物置の扉を閉め、忍び足で部屋へ戻ると自分の鞄の中に回収した物を詰め込み、そっと寝床に戻った。
戻った直後は少し興奮していたが、どこか背負っていた荷を降ろせたような気がして、心が少しだけ軽くなり、途端に睡魔に襲われた新吾はあっという間に深い眠りに就いた。
この日を境に、新吾はあの悪夢を一切見ることが無くなった。
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