第五章 4

 新吾は目を覚ますと同時に跳ね起きた。そこは学校の廊下ではなく、どういう訳か、自分の部屋だった。新吾はゆっくりと部屋を見回し、そこが間違いなく自分の部屋であると確認し、窓の外に目を向けた。

曇天の空がカーテンの隙間から覗き見える。変わりない、いつもの風景だった。

 ――いったい、どうなっているんだ……?

 新吾は困惑のまま、前田を抱き留めていた手を自分の目の前にかざし、ベッタリと付着していたはずの前田の血がすっかり無くなっていることにも驚いた。

 ――いったい、どうやって帰って来たんだ? あれが夢だった……、なんてことは無いよな……。

 新吾は寝床から出ると自分がちゃんと寝巻きに着替えていることにもまた驚きながら、ひとまず今の日付を確認するために居間へと向かった。

 居間の襖を開けるとそこには信子の姿があり、珍しく朝のニュースに釘付けになっていた。

「……おはよう」

 新吾が起きてきたことにも気付かずテレビを注視し続ける信子に、新吾は違和感を覚えつつ声をかけた。

「あ! 新吾……。起きてきたのね……」

 声をかけられたことで初めて新吾の存在に気付き、慌ててテレビの電源を切ると、信子は罰が悪そうな態度を見せた。

 信子の行動に疑問を抱いたが、信子が何か言いたそうにしているのを経験から察知すると、新吾は前田のことを切り出されるのではないかと体が強ばるのを感じた。

勿論、どうやって家に帰ってきたのか知りたくもあったが、それ以上に聞くことが怖くもあった。

「……もう、体の方は大丈夫なの?」

「え?」

 一瞬、新吾は信子が何を聞いているのか分からなかった。少し考えて、それが昨日の朝、自分が学校で倒れたことを言っているのだと間を置いて理解した。

「……うん、まあ、それは大丈夫……」

 同じ日の出来事なのに朝学校で自分が倒れたことを忘れてしまうくらい、昨夜の出来事は新吾の頭に強く深い出来事として刻み込まれていた。

 昨夜の光景を思い出した途端、急に吐き気を覚え、新吾は急いでトイレに駆け込み、何も入っていない胃の中身を吐き出した。

「新吾! 大丈夫?」

 信子も慌てて新吾の後を追い、心配そうに新吾の背中をさすった。

「まだ良くなっていないのね。また横になってなさい。後で重湯を作ってあげるから、食べられそうなら言ってね」

 新吾が全てを吐ききり、多少の落ち着きを取り戻したのを確認すると、信子は新吾の傍から離れた。

 信子が離れてからも少しトイレに残り、落ち着いたところで新吾は目尻に残った涙を拭いながらトイレを出ると、壁に手を付きながら自分の部屋ではなく居間に戻り、倒れるように卓袱台に突っ伏した。

 吐いた倦怠感を纏いながら何も考えないようにしていると、台所の方から食器の重なる音や水音などが新吾の耳に届いた。

 少しだけ楽になった新吾は日付の確認を思い出し、テレビの電源を入れた。

「――が起きたのは昨日。犠牲になったのは近くに住む、小学六年生の児童でした」

「え?」

 テレビを点けると画面の向こうの記者の発した言葉に新吾は言葉を失い、鮮やかになったテレビ画面に映し出された見慣れた風景に釘付けになった。

 画面の右下には、「小学生児童、惨殺事件!」という文字が荒々しい書体で書かれ、大々的に特集されていた。

 新吾は今、世間で何が起きているのか分からず、状況を飲み込むことができなかった。

 しかし、すぐに新吾は事件の内容を理解することに努めた。観ていた番組が宣伝に入ると、即座に別の局に変え、とにかく多くの情報を集めた。

 報道されていた事件は、やはり前田についてのことだった。

 事件の内容は覚醒剤を使用した五十代の男が日本刀を振り回し、通行人数人に怪我を負わせる事件が昨晩の八時頃に発生し、警察が犯人を捜索していたところ、十時過ぎに小学校の中で頭部の切断された男子児童の遺体の傍に立っていた犯人を確保したというものだった。

 中継が終わり、評論家達の討論が始まったところで新吾はテレビの電源を切り、うなだれて頭を抱えた。

 ――どうなってるんだ……。

 新吾はなかなか考えを纏めることができなかった。

 ――犯人の確保が十時過ぎなら、俺はどうやって帰ってきたんだ……?

 新吾が思考を巡らせていると、信子が重湯を持って台所から戻ってきた。

「顔色が優れないわね……。今日の学校は休みだからゆっくり寝てなさい」

 新吾は信子の言いつけに頷きかけて、ある言葉が引っ掛かった。

「……何で? 今日、平日だよね……?」

 新吾は自分でも白々しいとは思いながらも、休みになった理由を信子に問いただした。

 報道にある犠牲になった小学六年生ではなく、新吾は信子の口から死んだのは前田だと、はっきりと言葉にしてほしかった。そうやって、昨日の出来事は夢や幻ではなく、現実に起きたことなのだと、自分に突きつけてほしかった。

 信子はどう説明すればいいのか、切り出し方にとても悩んでいる様子だったが、新吾は急かすことなく、ただじっと信子の言葉を待ち続けた。

 やがて信子はテレビの電源を静かに入れ、口を開いた。

「どう言ったら良いのか分からないんだけどね……。昨日の夜、事件が起きて……、新吾の友達の前田君がね……、巻き込まれたみたいなの……」

 信子は死んだという言葉を使いたがらず、新吾とも顔を合わせずに下を向いていた。

 新吾は横目で信子を一瞥するとテレビに顔を向け、そんな信子の姿を見ないようにしていた。

「……前田。……死んだの?」

 新吾は望む言葉が欲しくて、更に信子に核心を突く言葉で畳み掛けた。信子が新吾の放った言葉に体を震わせ反応したような気がしたが、新吾は信子に向き直ることはなく、その言葉を待った。

 テレビ画面の中では憶測で議論を白熱させる様子が映し出されていて、新吾はそれが癪でテレビの電源を切った。

「ねえ! 前田は死んだのかって聞いてるの!」

 いつまでも返事が返ってこないことに待てなくなった新吾は、声を荒らげて信子に迫っていた。信子は大いに驚き、そして少し怯えたように新吾の顔を見つめると、また俯いて小さく何度も頷いた。

 信子の姿に新吾は益々苛立ちを募らせたが、母の肩が小刻みに震えていることに気が付くと、途端に罪悪感で一杯になった。

 ――バカか……。悪いのは俺だろ……。

「……怒鳴ったりして、ごめん」

 新吾は無言が気不味くなり、出された重湯に口をつけた。口に入れた重湯はまだ熱く、新吾は口内で冷まそうと左右に米を転がしたが、熱さに耐え切れなくなり、堪らずそのまま嚥下した。

 重湯の熱が新吾の内臓をなぞるように流れ、食道から胃へと到達するとそこで留まり、体中にその熱が拡がっていくのを実感した。

 そして、新吾は自分が生きているということを認識した。

「……前田君が亡くなってね。現場が学校だったから、検証とかの関係で学校が休みになっているのよ。学校に行くのは来週の月曜からよ……」

 新吾が熱の余韻に浸っていると、信子は学校が休みになっている理由を告げた。

 新吾はそうなのだろうなと、自分の中での予想と符合したことに納得していると、突然スプーンを持った手の甲が濡れたように感じ、そこに視線を落とした。

 新吾の手の甲には透明な液体が玉になって乗っていて、新吾が気付いてほんの少し手を動かすと均衡が崩れ、水滴は新吾の手の甲から流れ落ちた。

 ――これ、何だろう?

 新吾が不思議に思っていると、同じく透明な液体がポタポタと机の上に落ちてきた。

 新吾はようやく自分が泣いているのだと理解した。

 ――何で? 何で涙なんか?

 涙は拭っても、拭っても、次から次へと溢れ出し、新吾はそのことに戸惑いを覚えた。

 ――悲しいなんて思ってないのに、何で?

 自分で前田を殺しておきながら感傷に浸ることなど許されるはずもないのに、それでも前田を失った痛みに涙する自分が酷く自分勝手に思えて、新吾はとめどなく溢れる涙を止めることに必死になった。

 俯き、服の袖で何度も涙を拭う新吾の視界が急に暗くなり、同時に新吾の体に暖かな重さが加わった。

「悲しいよね……。ちゃんとお葬式でお別れしようね……」

 信子の的外れな優しさが新吾の心に不思議と染み渡り、新吾は一層涙を流した。

 ひとしきり涙を流した後、これを機に新吾は一つ引っ掛かっていた事を信子に問わずにはいられなかった。

「……あのさ、昨日の夜、俺、何時頃に家に帰ってきた?」

 新吾が疑問を口にすると、信子は新吾の肩に手を置いたまま体を離し、新吾の顔を見つめ、とても不思議そうで、新吾の言葉の真意を汲み取ることに一生懸命な様子がひしひしと伝わってきていて、嘘をついている様子などは全く感じられなかったが、それでも信子が口にした言葉を新吾はすんなりと聞き入れることはできなかった。

「何を言っているの? あなた、昨日は学校から帰ってきてから、ずっと寝ていたじゃない?」

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