第五章 2

 新吾は、静かな暗闇の中で目を覚ました。

手を動かそうとして体に布団が掛けられていることは分かったが、明かりがなく、自分がどこで寝ているのか窺い知ることはできなかった。しかし、よくよく視線を巡らせてみると、そこは暗いながらもなぜか知った雰囲気があった。

 ――ここは、俺の部屋か……?

 新吾は布団から抜け出すと、状況の把握に努めた。

 もし自分の部屋であるならば、と布団を抜け出した新吾は、力の入らない体を何とか起し、壁伝いに電灯の電源を探し、難なくそれを探り当てた。

 ――やっぱり俺の部屋だ。

 新吾は電源を入れ、二、三回の点滅の後に完全に明るくなった部屋の中で顔を顰めた。

 ――あれは、夢、だったのか?

 新吾は自分の記憶にある、先程までの鮮明な情景が現実で起きたことなのか、それとも夢の中で見せられたことなのか、まだその判断がつけられずにいた。

 新吾は少し考えて、その判断を時間の経過によって見極めようと思い至り、机の上に置いてある腕時計に手を伸ばした。

 まさに時計に触れる寸前の所で、突然玄関の電話が鳴り響いた。

 新吾は伸ばしていた手を止め、その呼び鈴に耳を傾けた。普段であれば信子が電話を取りに行く足音がするはずだが、今はその気配が無かった。

 依然として電話は鳴り続け、新吾は仕方なく時計を掴み、電話を取りに部屋を出て玄関へと向かった。

 余程重要な用事なのか、電話が鳴り始めてから新吾が受話器を取るまでにそれなりに時間が掛かったが、それでも電話の向こうの相手は諦めることがなかった。

 新吾は受話器を耳に持っていく最中、もしかしたら信子が出掛け先から掛けてきたのかもしれないと考えながら、受話器を耳に当てた。

「もしもし、佐竹――」

「佐竹! 助けてくれ! 殺される!」

 突然のことに新吾はだいぶ面食らい、そしてすぐさま悪戯電話を疑った。

「聞いてるのか? さっきから変な女が家の周りをうろついてるんだよ!」

 電話の向こうの人物の口調は真剣そのもので、新吾にはどうにも冗談を言っているようには思えなかった。

「……もしかして、お前、前田か?」

 相手の迫力に圧されていたが、新吾はようやく自分の疑問を口にすることができた。

「そうだよ! 俺以外に誰がいるんだよ! そんなことより、お前の家に隠れさせてくれ!」

 新吾は前田の置かれている状況を理解することができなかった。

 どうして女が前田の家の周りをうろつくことになったのか。それが原因として、どうして前田は命の危険を感じているのか。新吾には、さっぱり理解できなかった。

 が、新吾はすぐさま一つの答えに行き着いた。

 ――指切り様だ……。

 瞬間的に夢のように曖昧だった出来事が現実のことだと新吾は理解し、反射的に手に持っていた時計で時間を確認した。

 時計は八時五分を表示していた。

「おいってば! とにかく、今からそっちに行くからな!」

「え? 待って――」

 新吾が時計に気を取られている間に前田は勝手に新吾の家に行くことを決め、電話を切ってしまった。

 新吾は断続的に続く電子音を耳にしながら、自分が寝ている間に出来上がっていた取り返しのつかない状況と、汗と共に吹き出る罪悪感に押し潰されるように、目の前が段々と暗くなっていった。

 呆然と立ち尽くす新吾の弛緩した手から腕時計が滑り落ち、ゴンという鈍い衝突音で新吾は暗く沈んでいく意識の沼から引き上げられた。

 新吾は床に転がる腕時計を暫し見つめ、一つ深呼吸をした。ゆっくりと肺全体に酸素を送り込み、そして内に溜まった後ろめたさの全てを息に混ぜて吐き出した。そうすることによって、新吾は幾分、冷静さを取り戻すことができた。更に自分の頬を二、三回張ると、今度はこれから何をしなければならないかについて頭を働かせた。自分の浅はかな醜い嫉妬で命の危機に陥ってしまった友人を救うために、どう行動しなければならないのかを。

 ――前田は指切り様の呪いは絶対だと言っていけど、本当に絶対なのか?

 新吾はまず、その言い伝えを疑った。

 新吾も指切り様の力は目の当たりにしていて理解しているつもりだったが、前田はどこか指切り様を崇拝している節があったので、指切り様の能力を少々大袈裟に口にして、口裂け女にポマードが効果的なように、新吾に指切り様の撃退法を話していないのではないかと考えた。

 もしこの仮説が正しいのであれば、前田を生かす活路が見出せるかもしれないと一つ希望を抱くことができたが、これはあくまでも新吾の推測でしかないため、前田と合流した際に直接聞くしかないだろうと、手放しで喜ぶことはできなかった。

 救う手立てが明確に分からないとなると、次に浮かぶのは最悪の結末だけだった。それを考えると前田を自分の家に招き入れることは得策とは言えなかった。

 新吾はすぐに部屋に戻り、上着を手に取ると外へと飛び出した。

 ひとまず新吾は前田と待ち合わせをした公園へと向かった。道中、前田がまたこの道を使うとは限らないという考えも頭を過ったが、今は懸念よりも行動を優先したい気持ちが強かった。

 新吾は公園の前までやってきたが、前田らしき人物とは擦れ違わなかった。

 街灯の灯りで時計を照らして時間を確認すると、時計は八時十九分を表示していた。

 ――お願いを終えてすぐに腕時計を確認したら十時五分だったから、呪い自体は大体十時丁度か……。あと一時間四十分だな……。

 新吾は前田の命の制限時間を改めて確認した。そして、あと二時間程度なら何とかやれるかもしれないと、更に加わる僅かな希望に自らを奮い立たせた。

 しかし、新吾の僅かな希望の芽を刈り取るかのように、五分経っても前田は姿を現さなかった。

 ――もしかして……、もう、殺されたんじゃ……。

 そんな考えが新吾の脳裏をかすめたとき、以前、前田がやって来た方向から小さな灯りがこちらに向かって来るのを新吾は発見した。街灯の薄明かりに照らされて、朧気ではあるが一台の自転車が向かって来ていることが確認できた。

 ――きっと前田だ!

 新吾には確信に似た予感があった。

「前田!」

 新吾は向かって来る自転車の進路を妨害するように大きく手を振り、声を掛けた。自転車に乗った人物も、明らかに新吾の呼び掛けに反応していた。

 甲高い制動音を響かせ、後輪を滑らせながら新吾の目の前で停止した自転車には、やはり前田の姿があった。

「前田! 無事だったか!」

 新吾は前田がまだ生き長らえていたことに安堵し、思わず前田の手を握ろうと手を伸ばしたが寸でのところでその手を止めた。安堵する新吾とは対照的に、疲弊し、憔悴した前田の姿を見て、まだ何も終わっていないのだと改めて思い知らされ、安易に喜ぶことは躊躇われた。

「……佐竹、頼む、助けてくれ……。あれは、多分、指切り様だ……」

 いきせき切ってここまでやって来た前田は、途切れ途切れ、新吾に懇願に近い願いを口にした。

 それを聞いた新吾は、心の中で何度も首を振っていた。

 ――違う、違うんだよ、前田。お前がそんな風に頼むことなんてないんだよ……。これは全部俺のせいなんだから……。

 重ね重ね自分の軽率な行動が招いた状況に悔やまずにいられない新吾だったが、その心など知り得ない前田は、協力するのか、しないのか、はっきりしない新吾の態度に苛立ちを見せていた。

「何してんだよ! 俺のこと見捨てるのかよ! 早く……、お前の、家に行こう……」

 怒っていたはずの前田の語気が急に窄まり、驚くほど目と口を開きながら、前田は新吾の背後を凝視している。

 ――何を見ているんだ……?

 前田のただならぬ様子に驚いた新吾は、背後を確認するために顔だけをゆっくりと背後に回そうとした。

「うわあああああっ!」

 一体全体、自分の背後に何があるのか、あとほんの少しで確認できると新吾が思ったその瞬間、前田が叫び声を上げた。

 新吾は反射的に前田の方に向き直った。すると前田は自転車を持ち上げて反転させ、一目散にこの場から逃げ出そうとしていた。

 新吾もあまりにも慌てふためく前田の姿に引っ張られるようにして大いに動揺し、一人になりたくない一心で、走り出した前田の自転車の後ろの荷台に飛び乗った。前田は一度だけ後ろを振り向き、嫌がるような複雑な表情を新吾に向けたが、そのまま黙って前を向き、自転車を全速力で走らせた。

 公園から離れたところまで来ると、前田の漕ぐ自転車の速度が急激に落ちた。

 落ち着きを取り戻した新吾が後ろを確認すると、特に何かが追いかけてきているような、そんな気配はしなかった。

「前田! ちょっと止まって!」

 安全を確認したところで新吾は前田の背中を叩きながら声をかけた。

「やだ……、止まりたく、ない!」

 前田は頑なに新吾の言葉を拒み、全身を使って必死に自転車を前進させている。

「大丈夫だから! 何も追って来てないから! ……せめて、今度は俺に漕がせてくれよ」

 前田は逡巡の後、自転車を止め、無言で座席から降りた。

 新吾は前田が自分の言うことを聞いてくれたことに少し喜びを覚えながら、荷台から前田の座っていた座席へと座り直し、前田が荷台へ座るのを待って、二人分の重いペダルを踏み込んだ。

 暗闇の中を新吾と前田を乗せた自転車が走り抜ける。露出している手と顔に冬の空気が当たり、身を切るように冷たい。

「お前、どこに向かって走ってるの?」

 迷いなく路地を走り抜ける新吾の運転に対し、前田は当然の疑問を風の音に負けないように幾分大きな声で新吾に投げかけた。

「学校だよ」

 新吾もまた、大きな声で答えながらチラリと後ろを見ると、前田はまだ何かに追われているのではないかと、しきりに背後を気にしている様子だった。

「何で学校なんだ?」

 新吾の意図を問いただすために前へ向き直った前田と一瞬目が合った新吾は、咄嗟に前田の観察をやめ、また前に向き直った。

「学校の校庭なら、もし、お前を襲いに来ているのが指切り様だったとしても、首を切る道具が無いと思って」

 他に行く宛が無かったから。という理由では、前田は納得しないだろうと思った新吾は、咄嗟に思い付いたことを口にした。前田は新吾の言葉に納得したのか、特に何も言わないままだった。新吾はそんな前田の態度が気になり、また少し後ろを気にした。

「危ない!」

 十字路に差しかかったとき、前田が突然大きな声を上げ、新吾が反応するよりも先に自転車が急に軽くなり、新吾の体に後ろから前に押し出されるような衝撃が加えられた。

 あまりにも突然なことに、新吾は無意識に自転車を止めようとブレーキを握った。

 次の瞬間、新吾は自分の背後から聞いたこともない大きな音と共に、体が宙に浮き上がる感覚を覚え、気付けば地面に叩きつけられていた。

 何が起きたのかまるで理解できない新吾は、全身に走る激痛に呻き悶えることしかできなかった。

「佐竹! 大丈夫か!」

 道路に横たわる新吾の傍に駆けつけた前田の声には、心配の中に色濃く恐怖が混じっていた。

 まだ上手く言葉を発することができない新吾は、新吾の顔を覗き込む前田に小さく何度も頷いて無事を知らせた。それを見て少し安堵した表情を浮かべた前田は新吾から視線を外し、その先の光景に改めて恐怖を色濃くしているように新吾には見えた。

 新吾も痛みに耐えながら地面に伏したまま同じ方に目をやると、驚くべき状況に一時的に痛みを忘れて絶句した。

 街灯の薄明かりにより、今まで二人が乗っていた自転車が交差点に設置されていたカーブミラーの下敷きになって潰れている光景が照らし出されていた。

 どうしてミラーが倒れたのか、前田に疑問をぶつけずにはまともな精神ではいられないと、本能的に新吾は隣で中腰になっている前田を見上げたが、薄明かりでもはっきりと分かるほどに前田の顔は青ざめていて、とても話ができる状態には見えず、逆にそれが新吾を冷静にさせ、新吾は何も口にせず、ひとまず立ち上がるために痛む体に力を入れた。

 痛みに耐えながら何とか立ち上がった新吾は、立ち上がった状態で改めて見た自転車の有り様に背筋が凍り付いた。

 ――ミラーが、荷台を切断してる……。

 二人が乗っていた自転車は、倒れてきたカーブミラーが前田の座っていた後ろの荷台を切断するかたちで見るも無残な姿に変わり果てていた。

 新吾は自分の体が宙に浮き上がる感覚の直前にあった背後から押されるような衝撃が、ミラーが倒れてきたことに気が付いた前田が飛び降りたことにより生じたものだと、何故か冷静に分析していた。

 ――そうじゃなかったら、前田はこれで死んでいた……。

 新吾が痛む体を引きずってミラーを支えていた鉄柱の根元に近付いて確認すると、錆び付きが酷くボロボロになっていて、正直どうして今まで立っていられたのか分からないほど状態が悪かった。

 いつ倒れてもおかしくないものが、今この瞬間に倒れるとなると、ただ運が悪かっただけではないということを新吾も身をもって理解し、前田の抱く恐怖のほんの一部に触れたような気がした。

「ひっ……」

 壊れた自転車の隣に立っていた前田が小さく悲鳴を上げ、新吾は反射的に前田の方に視線を移した。

「き、来た……」

 前田は体を震わせながら、二人が来た道を指さしている。

 前田のただならぬ様子に新吾も不安が心を染めていくのを自覚しながら、前田の指さす暗闇を見つめた。

 しかし新吾には何がこちらに近付いているのか、その目に捉えることができなかった。何度も目を細めて闇の内を暴こうと試みたが、やはり新吾には前田の恐れるそれを見出すことはできなかった。

 すると、突如前田が踵を返し、逃げるように走り出した。

 予測していなかった前田の行動に新吾は驚き前田の姿を目で追ったが、既に前田の後ろ姿は暗闇と同化しかけていて、後ろ姿は朧気にも関わらず、はっきりと聞こえる足音が新吾の心細さを増幅させていた。

 前田が何を見て怯えていたのか分からないままの新吾であったが、この状況下に一人ではいられないとすぐに前を行く前田の背中を追いかけようとした。しかし、まだ体には痛みが残っていて上手く走れず、それが新吾の孤立に対する恐怖心に拍車をかけていた。

 自分よりも足の遅い前田の姿を一向に捕えられなかったが学校へ向かうつもりだった自分の提案について文句を言わなかった前田を信じて新吾は痛む体に鞭打ちながら学校へと向かい、昼間とは違う表情を見せる通学路を迫り来る目に見えない驚異から逃れるためにただがむしゃらに走り続けた。


 新吾が学校の正門まで走ると、正門の傍に立つ常夜灯の下に前田の姿があった。

 膝に手を当て、肩で息をしながら呼吸を整えている姿を見るからに、前田も今まさにここに辿り着いたのだろうと、新吾も息を整えるために新鮮な空気を求めて激しく呼吸を繰り返しながら考えていた。

 新吾も前田も休憩を取りながらも背後の闇の中を気にしていた。少しでも気を抜けば、あの自転車のように前田の命の火は簡単に消し飛ばされてしまうのではないかという不安と恐怖が新吾の心に充分に刻み込まれ、一瞬たりとも警戒は怠れなかった。

 ある程度呼吸が落ち着いたところで、前田が無言で正門を指さし、門を乗り越えようと提案した。

 新吾も無言で頷くと前田はそれを合図にして、高さ二メートルはあろう格子状の正門の中間辺りにある、地面と平行に伸びる骨組みの部分に足をかけて登り始めた。

 前田が正門を越えようと奮闘している間に、新吾はこっそりと常夜灯の下に近付き、腕時計で時間を確認した。

 ――八時四十五分……。あと、一時間十五分か……。

 新吾はまだ一時間以上も指切り様から逃げ回らなければならないという事実に、前田から電話を貰ったばかりのときとは打って変わって心が折れそうになったが、先に門を乗り越えて小声で新吾を呼ぶ前田の姿を見て、新吾は絶対に前田を助けるのだと自分を鼓舞し、正門を登り始めた。

 正門を乗り越え、再び地面に足を着け振り返り、暗闇に朧気に浮かび上がる校舎を目の前にすると、自分の判断は間違っていたのかもしれないと早速後悔の念が去来した。

 どうして夜の学校というものはこんなに不気味で恐怖心を掻き立てるのだろうと、新吾は生唾を飲み込みながら考えていた。

 前田もこの雰囲気に戸惑いを覚えているらしく、無言で校舎を見つめている。

「……行こうか」

「うん」

 新吾が校庭の中心に向かって歩き始めると前田も横に並んで歩を進めた。

 砂を擦る自分達の足音に別の誰かが後ろに付いて歩いているのではないかという疑心暗鬼に陥りながら、新吾と前田は時々後ろを振り返りながら歩き、普段よりもずっと遅い歩調で校庭の中心に辿り着いた。

 校庭の中心地点まで避難するという当初の目的を果たし、あとは時間を潰すだけとなった新吾達だったが、何もせずにただ十時になるのを待ち続けることは精神的に耐えられるのだろうかと新吾は心配していた。

 二人は無言のままその場に立ち尽くしていた。時折、遠くで車の通り過ぎる音が聞こえる他には風の吹き抜ける音くらいしか聞こえない。

 十分は経っただろうと、新吾が月明かりで何とか時間を確認しようと色々な角度に腕時計を傾けていると、ざっ、ざっ、という砂の地面を擦る音が新吾の耳に入ってきた。

 新吾は初め、前田が暇を持て余して土いじりを始めたのかと思い、さほど気にはしていなかった。しかし、前田が何度も何度もそれを繰り返すので、死ぬかもしれない状況で随分と余裕があるものだと新吾は苛立ちを覚え、前田に文句を言おうと時間を確認することを諦めて前田に目を向けた。

 結論から言えば、前田は何もしていなかった。

 あまりに暗く、はっきりとは確認できなかったが、前田は石のように固まっていた。新吾はそんな印象を受けた。

 ――ざっ、ざっ。

 新吾はここで初めて、自分達以外の誰かがこちらに向かって来ていることに気が付いた。

 途端に新吾も緊張と恐怖に体を縛られ、固まって動けなくなった。辛うじて自由が効くのは目だけで、闇の中から誰かが現れるのを新吾は固唾を飲んで見つめ続けることしかできなかった。

 ――ざっ、ざっ。

 自分の鼓動が信じられないほど早く、強く胸を叩き、隣の前田からは微かに悲鳴が漏れていて、今にも逃げ出しそうな雰囲気が新吾には伝わっていた。

 足音はかなり近付いていて、新吾達が立っている場所まであと少しと迫ったとき、月を覆っていた雲が少しだけ晴れ、月光が僅かに強さを増し、今まで見えていなかった闇を少しだけ明らかにした。

「佐竹! 早くそこから離れろ!」

 突然前田が叫び、新吾は緊張が解け、反射的に前田の方に顔を向けた。

 前田は既に校舎の方に走り出していて、新吾は走り去る前田の後ろ姿を目にして一瞬で恐怖に支配された。

「待って!」

 言葉を発すると同時に、新吾のお腹のあたりに何かがぶつかった。

 それはとても軽い衝撃で、まるで誰かに肩を叩かれたときのような、それくらい本当に軽い衝撃だった。

 新吾は恐る恐る、ぶつかったものの正体を確認すべく、自分のお腹のあたりを見下ろす。

 ――……何か黒いものがある。

 新吾はこの黒い物体が何なのか、一見では理解できなかった。

 しかし、この黒い物体が人の頭であると理解した瞬間、新吾は戦慄と共に下半身から力が抜け、その場に腰から崩れ落ち、今度はこの得体の知れない人物を見上げるかたちになった。

 ――こいつ……。きっと、こいつが指切り様だ……。

 座った状態で少し目線を上げるだけで上半身の全てが見受けられる点から、身長が高くないなど色々と考察するよりも先に、新吾は指切り様と思しきこの人物から生命を感じ取れないことが気持ち悪かった。

 新吾はこの気持ち悪さに覚えがあった。時折路上で死んだ動物を見つけたときのような、初めは寝ているのかと思っていても、近付くにつれて死んでいるのだと感覚的に分かる、生と死がはっきりと隔絶されていて、自分と住む世界が全く異なるのだと感覚として理解する。それが目の前の人物に当て嵌ることで新吾は恐怖と嫌悪、そして僅かな憐憫の情が襲い、益々その場から動けなくなっていた。

 指切り様は新吾など眼中にないと言うかのように、ゆっくりとした動作で座り込む新吾の脇を通り過ぎ、前田が走っていった方へと進んで行く。

 ――……このまま行かせたら駄目だ!

 月が再び厚い雲に覆われ、闇が濃くなり、黒と同化して見えなくなっていく指切り様の後ろ姿を振り返り見つめていると、不意に走り去った前田の姿が脳裏に浮かび、次の瞬間、新吾は指切り様に向かって走り出していた。

 一発殴って指切り様を倒してやるつもりの新吾だったが、まだ抜けた腰に力が入らず、新吾は足をもつれさせながらも指切り様を背後から柔道の双手刈りのようなかたちで押し倒した。

 ――幽霊って、触れるのか……。

 新吾は倒した指切り様の上から飛び退くと自分の手の平を見つめながら、ある種の感動を覚えていた。

「うう……、うう……」

 少しだけ惚けていた新吾の耳に低い唸り声のようなものが聞こえ、我に帰った新吾が声のする方に目をやると、そこには這いずりながらも校舎に向かおうとする指切り様の姿があった。

 無様な姿ながら、新吾には目もくれずに一直線に前田を目指す姿を見て、新吾は自分の中で生まれた黒い感情が全身に拡がっていくのを実感していた。

 新吾はゆっくり立ち上がると、今度はしっかりとした足取りで徐々に指切り様との距離を縮め、指切り様のすぐ傍まで来ると這い蹲る指切り様を見下しながら徐に右足を上げると、虫を踏み潰すが如く、指切り様の背中を思い切り踏みつけた。

「ぐえっ!」

 指切り様は老婆のようなしゃがれた声で醜い悲鳴を上げるとバタバタと暴れ始めた。

 新吾は殺してやるつもりで何度も何度も指切り様を踏み付け、数回の繰り返しの後、指切り様はついに動かなくなった。

 指切り様の呻き声が聞こえなくなると静寂が辺りを包み、新吾の乱れた呼吸だけが時間が流れていることを証明していた。

 新吾は乱れた呼吸が落ち着くと共に冷静さを取り戻すと、途端に自分のした行為が恐ろしくなり、逃げるように校舎へと向かった前田の姿を求めて、自分も校舎へと向かって走り出した。


 少し走って何事も無く昇降口まで辿り着くと、そこに前田の姿は無かった。

 既に校舎の中に入ったのだろうかと新吾は扉に手をかけて、軽く手前に引いた。しかし扉はすぐに抵抗をみせ、新吾が何度引いてもガタガタと音を立てるだけで開く気配など微塵も感じさせなかった。

「佐竹、こっちだ」

 新吾が昇降口を諦め、仕方なく鍵を掛け忘れた窓がないだろうかと思って一枚一枚確認して廻ろうとすると、暗闇の中から小さな声で新吾を呼ぶ声がした。

 新吾は前田の声だと理解すると声のした方へ向かったが、数本の大きな松の木が月光を遮り、闇を濃くして前田の姿を隠してしまっていた。

「どこだよ、前田」

 すると目の前にある枯れ木がガサガサと騒がしく音を立て、そこに前田がいることを新吾に知らせた。

「無事だったか、佐竹」

 新吾は思わず悲鳴を上げそうになったが、寸でのところで何とかそれを飲み込んだ。

「……ああ、何とか。それより、指切り様は踏み潰してやったし、動かなくなったから、もう大丈夫だよ」

 ――そうだよ! もう逃げる必要も無くなったじゃないか!

 新吾は自分の言葉に妙に納得すると、緊張と警戒心がすっと解けていったが、前田からはすぐに返事がなかった。

「……なんてことしてくれたんだよ!」

 前田の怒声が闇夜に響き渡る。新吾はその迫力に思わず一歩後退りをした。

「指切り様を倒すことができるなんて聞いたこともないし、指切り様に抵抗すればするほど悲惨な最後が待っているって話があるくらいなんだから、お前が指切り様を何とかするとか……、そんなこと……。ふざけるなよ!」

 前田は呪いを楽観的に捉える新吾に苛立ち、碌に指切り様の知識も無く、余計な行動をした新吾に対し激昂した。

「……そんなの、……そんなこと知らなかったんだから仕方ないだろ! 俺だってお前を助けようと思ってやったんだから! そもそもそんな大事なこと、何で早く言わなかったんだよ!」

 自分の取った行動が余計に前田を危険に晒したのだと理解すると、急に申し訳無い気持ちで一杯になったが、新吾は素直に謝ることができずに、二人は言い争いを始めた。

「そもそも、抵抗することが駄目だって言うなら、こうして逃げ回ることだって抵抗の内に入るんじゃないのか?」

「違う! 直接指切り様に何かすることがいけないって言ってるんだ! だから――」

 ――ざっ、ざっ。

「ちょっと待った!」

 新吾は暗がりではっきりとは見えない前田に向かって、口論を強制的に終わらせるように手を突き出した。

 新吾は口論の最中、微かに何かを引きずるような物音が聞こえたような気がした。

「何だよ、どうしたんだよ……」

「静かにしろ!」

 前田は新吾との口論の勢いをすっかり削がれ、今にも消え入りそうな声で新吾に状況の説明を求めている。

 新吾はそんな前田に構っている余裕は無く、小声で叱りつけるように前田を制すると、闇に向かって耳を澄ませた。

 ――ざっ、ざっ。

 新吾の聞いたそれは聞き間違いではなく、今度はしっかりとそれが聞こえ、且つ確実に二人に近付いて来ていた。

「指切り様だ……」

 今度は前田の耳にも音が届いたらしく、怖じ気付いた前田が後退りをしたのか、枝の折れる音がやけに大きく新吾には聞こえた。

「……とりあえず、校舎の中に逃げよう」

 新吾は前田に背を向け、暗闇を睨みながら前田に聞こえるように小声で提案した。

「分かった……」

 前田の頼りない返事を聞いた新吾はそのまま後ろに下がり、前田のいる場所へ向かうため、手を後ろに伸ばし漂わせながら枝を探し当てると、近付く指切り様から逃げるようにして背を向け、木の間を通り抜けた。

「開いてる窓、あったか?」

 新吾は通り抜けてすぐに、そこにいるはずの前田に問いかけた。

「え? いや……」

「何やってんだ、すぐ探せよ! 俺が右の方を探すから、お前は左を探せ」

 木の影に入ったことで完全に前田の表情を窺うことができなくなり、前田の精神状態は分からなかったが、次にすべきことが考えられないところをみると前田は不安に負けてしまい、萎縮してしまっているのだと新吾は理解し、そんな前田に喝を入れるようにあえてきつく声をかけた。そして新吾は前田の返事を待ったりせず、開いている窓がないか探し始めた。

 新吾は両手を前に突き出し、ゆっくりと校舎に向かって前進すると、やがて、ひんやりと冷たく硬い壁が指先に触れた。少し安心したところで耳を澄ませると、前田の気配が少し遠くにあり、そして地面を擦る不気味な足音もまだ聞こえていた。

「少し近くなってる……」

 新吾は独り言を口にし、一刻も早く校舎の中に逃げ込まねばと壁伝いに窓を触り、鍵を掛け忘れた窓がないか一枚一枚確認していった。

 そして、やはり鍵の掛け忘れなど無いのだろうかと半ば諦めかけながら指をかけた窓が抵抗無くスルスルと滑るように開き、新吾はようやく校舎への侵入口を見つけ、歓喜した。

「やった!」

 新吾は喜びに声を漏らすと、すぐに前田にこのことを知らせようと前田と別れた方に体を向けた。

「おーい。こっちに開いてる窓があったぞー!」

 新吾は声を潜めながら可能な限り大きな声で見えない前田に呼びかけた。

 新吾の発した声に対する前田からの返事は無く、新吾が前田を探しにに行くべきか迷っていると、前田と別れたの闇の中から走るような足音が聞こえてきた。

 足音は次第に近付き、新吾は正体の分からない足音が急に怖くなって、胸の高さほどある窓枠に手をかけて飛び上がり、一度、腹のあたりでぶら下がってから足を枠にかけて、倒れ込むように校舎の中へ逃げ込んだ。

 新吾はすぐに壁に背中を預け、窓枠から少しだけ顔を出し、誰が通り過ぎるのか、その正体を待った。

 やがて足音がどんどん近付き大きくなり、そして一瞬のうちにその何かは新吾の目の前を通り過ぎた。

「前田!」

 僅かな月明かりに照らし出されながら新吾の目の前を通り過ぎたのは間違いなく前田だった。新吾は窓から上半身を乗り出し、既に闇に溶けていった前田の背中に向かって呼びかけた。

 声はかけたものの反応は無く、新吾が追いかけるべきか、またしても二の足を踏んでいると、前田の消えていった闇の中から人影が現れた。

 新吾はほっと胸を撫で下ろしながら、走って近付いてくる前田に向かって大きく手を振った。

 闇の中から現れた前田は新吾が顔を出している窓の下まで来ると、鬼気迫る気迫で窓枠を乗り越え始めた。

「前田?」

「あいつが! また、あいつが!」

 前田の言う「あいつ」が、指切り様を指しているということに新吾が理解するまでに時間はいらなかった。

 新吾は勢いだけが空回りしていてなかなか乗り越えることができない前田を校舎の中に引き込もうと、前田の上半身を引っ張った。

 前田が余裕を無くしているせいか、なかなか窓を乗り越えることができず悪戦苦闘していると、突然窓がガタガタと独りでに音を立てて激しく震えだした。

 新吾は前田の上半身を支えながら他の窓を見やったが、特に震えていたりはせず、偶然地震が発生しているというわけでもなかった。

「前田、一回離すぞ!」

 新吾は嫌な予感がして前田の体から手を離すと、直後、開いていた窓が独りでに、それも勢い良く閉まり出した。

「痛えっ!」

 新吾は閉まろうとする窓の進行を妨げるように手を出し、受け止めた。

「早く中に入れ!」

 新吾が押さえつけている今もまだ、誰かが反対から無理矢理閉めようとするような強い力で窓は独りでに閉まろうとしていた。

両手を使い、全体重をかけて押さえ込んでいたが、ずるずると徐々に後ろに押され始め、新吾は限界を感じ始めていた。

「おい! まだなのかよ!」

 前田の状況を知ろうと新吾がちらっと後ろを見て、新吾は全身の力が一瞬抜けかけた。

 新吾の背後で藻掻く前田の首の位置が丁度窓の締まる直線上にあり、それはさながら斬首台に首を晒しているような格好になっていた。

 ――畜生!

 新吾は心の中で指切り様を罵ると押さえ込む手に一層力を込めた。

「前田、早くしてくれ! もう持たない!」

「あとちょっと……。……越えた! もういいぞ!」

 新吾が本当に限界を迎えたところで、ようやく前田が窓を乗り越え、校内に転がり込み、それと同時に新吾は押さえていた窓から手を離した。

 窓は勢いそのまま大きな音を立てて閉まり、新吾は音の大きさに驚き、思わず身を竦めた。

 体の竦みが解けると、新吾はすぐさま窓に鍵を掛けた。常識外れの迫り方をする指切り様に対して、鍵を掛けるだけという常識的な対処法が通じるのかは皆目検討もつかなかったが、それでも何もせずにいるよりは幾分心持ちが違っていた。

 鍵を掛け終わると新吾はその場にへたり込み、緊張から開放された安堵から大きな溜め息を漏らした。それは前田も同様で、二人は薄く差し込む月明かりに照らされながら互いの表情を確認すると、どちらともなく薄く笑みを浮かべあった。

 ――バン!

 二人が一つの危機を乗り越えたと安堵した瞬間、二人が校舎侵入に使った窓が、まるで誰かに乱暴に叩かれたように何の前触れも無く大きな音を立てた。

 新吾は口から心臓が飛び出るほど驚き、座ったまま後退りをしながら急いで窓から離れると前田の隣に寄って行った。

 窓はその後も何度も叩かれ、次第に叩く間隔が狭くなっていき、遂には無数の人間が狂ったように窓を叩いているのではないかと錯覚するほど連続して窓が叩かれ、新吾はこのまま窓が割れてしまったらと気が気ではなかった。

「やめて下さい、お願いします……」

 新吾の隣では、前田が救いを求めて何度も同じ言葉を口にしている。

 新吾も正直もう駄目だと諦めたかけたとき、突然窓を叩く音が止み、辺りは今あったことがまるで嘘のように静寂に包まれた。

 新吾は窒息寸前で息を吹き返したように浅い呼吸を繰り返しながら、辺りの窓を目だけを左右に忙しなく動かして、どうして音が止まったのか、その原因を突き止めようと試みたが、特に何も見つけられなかった。

 何も起こらないまま一分ほどが経ち、新吾はようやく緊張が解け、途端にどっと疲れが溢れ、汚れなど気にせず廊下に仰向けに寝転んだ。前田も同様に新吾の隣に寝転ぶと、今度こそ二人は同時に安堵の溜め息を漏らした。

 新吾は笑うつもりだったが、思っている以上に疲弊していて、ぎこちなく顔を崩すだけで声を出すことができなかった。

 指一本動かす気にもなれず、新吾がただ天井をぼうっと見つめていると、自分の足元の方から赤色の光が天井を染めていき、そして頭の方へ向かって流れていった。

 ――パトカーの赤色灯だ……。

 新吾は仰向けのまま目で追える限りその赤い光を追いかけ続け、首が辛くなったところで追いかけるのを止め、再び天井に視線を戻した。

 そして改めて視線を侵入口に使った窓に向けた瞬間、新吾は隣にいる前田の腕を掴んでいた。

 全身の毛が逆立ち、背筋に悪寒が走り、声にならない声を上げ、新吾は素早く立ち上がると、まだそれに気が付いていない前田の腕を握ったまま無理矢理に前田を立ち上がらせ、すぐにその場から逃げ出した。

 新吾は見てしまった。窓の向こうから二人を見下ろす人影を。

 新吾はその人影から距離を取らなければならないと直感的に悟った。

 ――あれに……。あんなものから本当に逃げきれるのか……。

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