第五章

 次の日の目覚めは最悪のものだった。

 前田に裏切られた日の塾帰りに発車時刻よりも少し早いバスに急かされるように乗り込み、その足で指切り様の下へと向かい、新吾はあっさり指切り様と契約を結んだ。

 ――いい気味だ。

 契約を済ませてすぐは前田に向けて嘲笑を浮かべていたが、家に帰って布団に入ると、新吾の脳みそが新吾の行動を責めるようにこれまで前田と過ごしてきた日々を勝手に浮かび上がらせ、新吾は碌に眠ることもできずに朝を迎えることとなった。

 学校に行く気になどなれなかったが、理由も話さずに学校を休もうとする新吾の態度に信子が怒り始めたので、新吾は渋々学校へ行くことにした。

 校門の所でうっかり前田と鉢合わせしないように、新吾は他の生徒に紛れて校舎に向かい、前田の教室の前を通らないようにわざわざ回り道をして自分の教室に入った。

 背負った鞄を机の上に置き、糸の切れた操り人形のようにだらしなく椅子に座ると、新吾は机に突っ伏して目を閉じた。

 登校中、北風に晒された体はすっかり冷え、教室に備え付けられた暖房で温められた空気が心地良くて、新吾はそのまま眠れそうだった。

 二日続けての寝不足で体力的に疲れているために自然と取った姿勢だったが、余計なものが視界に入らないと分かると新吾はずっとその姿勢を保っていた。

 やがて倉田の声が耳に入り、新吾は机に伏したまま、顔を少しだけ起こし、視線を教室に入る倉田に向けた。

 新吾が何気なく扉を閉める倉田の動作をじっと観察していると、閉じられていく入口の扉に嵌め込まれた縦長の透明なガラスの向こうから、こちらの様子を窺っている前田の姿が視界に飛び込んできた。

 そして前田は勿論、新吾を見つめていた。

 目と目が合ったその瞬間、新吾は前田に心臓を掴まれたような錯覚に陥った。新吾の目は大きく見開かれ、呼吸は止まり、掴まれた心臓はそれに抗うように激しく鼓動を打ち始める。

 幸いにも前田はすぐに姿を消し、新吾は緊張から開放された。

 新吾は浅い呼吸を激しく繰り返しながら、どうして前田がこちらの教室を覗いていたのか、その理由を考えていた。

 ――何で今日に限って俺が登校しているかどうか確認する必要があったんだ?

「佐竹、どうした? 気分でも悪いのか?」

 新吾は既に指切り様のことが前田に勘づかれているのではないかと思考を巡らせていると、それを不審に思った倉田が新吾に声を掛けた。

「え? ……いえ、大丈夫です」

「本当か? かなり顔色が悪いぞ。無理しないで保健室に行って良いんだぞ」

「本当に、大丈夫なので……」

「何かあったら言えよ。年明けには受験もあるんだからな」

 頑なな新吾の態度に倉田の方が折れ、倉田は新吾から目を離して残りの連絡事項について話を再開した。

 やっと落ち着きを取り戻し始めた新吾は、夏でもないのにびっしょりとかいた手の汗を服の裾で拭き取りながら、受験という倉田の言葉を自分とは縁遠い事のように聞こえていた。

 ――俺は悪くない……。あいつが裏切ったんだ……。死んで当然な奴なんだ……。

 新吾は前田の顔を見てしまったことで生じ始めた罪悪感に蓋をして、自己暗示のように同じ言葉を何度も繰り返していた。

 時計の針が八時四十五分を指し、学校全体が朝の会の終わりを告げる放送に包まれた。

 倉田は鐘と共に朝の会を終わらせると教卓の上の書類をまとめ教室を後にした。教室に残った生徒達は教科書や筆記用具を机の上に並べたり、廊下へ出たりする中で、新吾も机の上だけを見つめながら教科書を取り出そうと机の中に手を伸ばした。

「佐竹」

 新吾は、自分の名前を呼ぶ声の方を反射的に向いてしまった。

 立っていたのは、当然前田だった。

 ――しまった……。

 突然のこととはいえ、思いがけず反応してしまった自分に新吾は後悔の念を抱かずにはいられなかった。

「ちょっと廊下まで出てこいよ」

 前田の様子からはまだ指切り様の呪いに怯えている様子はなく、至って普段通りに新吾の目には映った。自分が今日限りの命だということなど露とも知らない前田は、無邪気に廊下から新吾に手招きしている。

 新吾は椅子からノロノロと立ち上がると、下手なことを口にして前田に指切り様のことを悟られないようにと心構えをしてから廊下へと向かった。

 前田は新吾を急かすように手首を忙しなく上下させている。

「遅いぞ! 何してんだ。もしかして勉強で寝不足か?」

「いや、そんなことはないけど……」

 直接言葉を交わしてみても前田は普段と変わらない様子で、新吾はひとまず安堵した。

 一息ついて、新吾は前田の脇に一人の男子生徒が立っていることに気が付いた。

 細身で自信の無さそうな雰囲気を纏っていて、本来であれば新吾と前田よりも少しだけ身長は高そうなのだが、猫背のせいで二人と差ほど変わりなく見える。

 言い様のない苛立ちを覚えるこの少年が、昨日前田と歩いていた当人だと新吾が理解するまでにそれほど時間は掛からなかった。

 ――わざわざ自慢しに来たのかよ。

 新吾が自分と目も合わせようとしない憎むべき相手を観察していると、前田が彼の紹介を始めた。

「こいつさ、お前と友達になりたいんだって!」

 新吾は前田の言葉に自分の耳を疑った。

 ――今……、何て言った……?

 新吾は自分の足下が液状化したのではないかと錯覚するほど、体の安定を失った。咄嗟に扉の枠を掴み、何とか体勢を保つことはできたが、まだはっきりと状況を飲み込むことができなかった。

「おい! 大丈夫か?」

「……ああ、大丈夫。……大丈夫」

 前田が心配そうな顔をして新吾のことを気遣うが、新吾はその声がずっとずっと遠くから発せられた声のように感じていた。

 ――俺と友達になりたい? 嘘、だろ? だって、もし、そうだとしたら、俺は……。

 新吾の頭の中は真っ白になって何も考えられなくなっていた。それから段々と意識が薄れていき、新吾を心配する前田の声は、もう聞こえなくなっていた。

 前田が急に険しい顔になり、必死に自分に声を掛けていたが、真っ白な霧が視界を覆い、それからは何も見えず、何も聞こえず、新吾は体が軽くなり、ふわふわとしたところに倒れ込んだ。

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