第四章 6

 大野が死んで一週間が経つと新吾の教室からは子供らしい明るさや騒がしさといった活気そのものが無くなり、山口が死んだときよりもずっと人間関係が閉鎖的になっていた。

 そして新吾に対してはその存在を無いものとして扱うことがいつの間にか教室内での暗黙の了解となっていて、普段からも静かになってしまった教室に新吾が足を踏み入れると、より一層静けさと重たい雰囲気が増すこととなっていた。

 これについては新吾も初めは戸惑いを覚えたが、それならそれで周りが静かになり、かえって好都合とさえ思っていた。

 新吾の教室の変化に加え、もう一つ新吾を取り巻く環境の中で変化したことが前田との関係だった。

 大野の葬式があった翌週に二人は電話番号の交換をした。

 これまで一定の距離を置いていた新吾としては、交換の申し出があったときは前田の意図が分からなかったが、その真意を探るためにも新吾は前田の提案に応じ、連絡先の交換に至っていた。

 そして、二人はまた秘密の場所に足繁く通うようになった。

 十二月に入り数日が経ち、本格的な冬が町に到来した。

以前の街とは比べ物にならない寒さに耐えかねた新吾は前田に提案をして、ベランダではなく、工作準備室の中で過ごすようになっていた。

 しかし困ったことに準備室の中からは時計を確認することができず、一度、予鈴が鳴ってから慌てて教室へ走ったが間に合わず、新吾は倉田に注意されたことがあった。

 窓から校舎の外壁に取り付けてある時計を見れば時間を確認することができるが、話し込んだりしていると、どうしてもそれが怠りがちになってしまっていた。

 そこで問題をを解消するために新吾は自分の腕時計を内緒で毎日学校に持ち込んでいた。元々新吾の時計は五分早めて設定されているので、以来、遅刻することはなくなった。

 昼休みになり、新吾と前田は習慣のように自然と準備室に集まり、いつものように時間を潰していた。

 前田は以前のようにやかましく自分本位に喋ることが少なくなり、最近では新吾から話し掛けない限り、膝立ちで窓から校庭を眺めていることが多くなった。新吾は図書室から適当に本を取り、外を眺める前田の隣で読書に時間を費やした。時折前田と他愛もないことを二言三言交わす程度で、何となく二人で一緒にいるということが新吾の生活内容の一部になり始めていた。


「今日、家に行ってもいいか?」

「え?」

 いつものように新吾が本の世界に浸っていると、隣でぼんやりと外を眺めていた前田が何の前触れも無く、唐突な提案を口にした。

「だから! 今日、お前の家に行ってもいいかって聞いてるの!」

 久しぶりに前田の方から話し掛けてきたことに驚き、且つ内容が内容だけに新吾が答えあぐねていると、前田はまごつく新吾の顔を見据えて回答を急かすようにもう一度同じ要求を口にした。

「べ、別にいいけど」

 前田は自分で提案しておきながら新吾の返事に少し驚いているようだった。しかし、自らの希望が叶うと分かると、すぐに満足そうな表情へと変わった。

「……じゃあ荷物置いたら、お前の家の近くの公園に待ち合わせでいいか?」

「分かった」

 それから前田はまた口を閉じ校庭を眺め、新吾はまた本に目を落とし、読書を再開した。しかし再開したものの、もう本の内容など新吾の頭の中に全く入ってこない状態になっていた。

 新吾がもやもやとした気持ちと格闘していると、丁度、腕時計に設定していた時間になり、小さな電子音が沈黙を破った。

「……行くか」

「そうだな」

 新吾が本を閉じて問いかけると、前田は伸びをしながら応じた。

 新吾と前田はそれぞれの教室へと戻り、それぞれ午後の授業を受けた。

 少し時間を置いて冷静さを取り戻した新吾は、改めて自分が取り付けた約束の意味を考えていた。

 二人はこれまで一度も学校外で会う機会を設けたことがなかった。

 新吾から前田を遊びに誘わなかったのは一種の見栄のようなもので、多分前田も同じ理由だろうと新吾は推察していた。同じ闇を抱える間柄であり、相互監視のために一緒にいるのだとばかり思っていた新吾は前田が自分の家に来たがる理由が分からなかった。

 しかし、何よりも一番分からなかったのは、そんな前田の申し出を受け入れた自分自身だった。

 改めて思い直せば塾の日でもあるから断ることは簡単なことで、たとえ塾がなかったとしても、それを理由にその場で断ることもできたはずだった。少なくとも今までの新吾であったなら、人との交流を避けるためにそれくらいのことは自然にやって退けてきたはずだった。それが今回に限ってなぜできなかったのか。

「佐竹! 何、笑ってるんだ! 前に出てこれを解いてみろ」

 静かな教室に倉田の叱責する声が響き、何事かと教室の全員が新吾の顔を盗み見る。

「……はい」

 新吾は自分の表情筋に気を配りながら席を立つと、遠慮のない視線をひしひしと感じながら黒板へと向かった。問題は図形の面積を求めるもので、授業を全く聞いていなかった新吾は黒板の前に立ってから考え始めなければならなかったが、それでも淀みなく解くことができた。

「正解だ。だが、答えが出せればそれでいいってものじゃないからな。授業態度も成績に反映されるからな」

「……はい、すいませんでした」

 試験で良い結果さえ出すことができればそれで問題無いと考える新吾としては、内心言い返してやりたい気持ちになったが、成績を盾にされると黙って従うしかなかった。

 新吾が自分の席に戻ろうと机と机の間を歩いていると、通路側の生徒は皆、露骨に新吾と目を合わさないように少し俯いていることに気が付いた。

 その瞬間、新吾の心に冷たい空気が流れ込んだ。

 新吾は自分の席に座ると指に付いたチョークの粉を落とそうと指の腹を擦ったが、白が延びて手を汚すばかりで、ちっとも綺麗にならなかった。


 全ての授業が終わり、帰りの会も滞りなく終わると新吾は教室を一番に飛び出した。廊下に出ると、同じく隣の教室から前田が飛び出していた。新吾の教室よりも前田の教室の方が階段に近いため、自然と新吾は前田の背中を追いかけるかたちになった。

 新吾の方が前田よりも足が速かったのですぐに前田の隣に並び、二人はまだ人の少ない廊下を走った。

 前田は走りながら横目で新吾の姿を確認すると口角が少し上がり、走る速度が少しだけ上がった。その変化と意味を汲み取ると、新吾もまた自然と口角が上がり、速度を上げて前田を追い抜いた。

 階段を並んで降りる下級生などを避けながら、二人は競って三階から一階まで駆け下り、下駄箱で忙しなく上履きから運動靴に履き替えると、新吾は靴紐も結ばずに踵を踏みながら昇降口から外に出た。昇降口を出た時点で再び少しだけ先を前田が走るかたちとなり、新吾はかなり真剣に足を回転させて前田の背中に迫った。

 それぞれの帰路に着こうとしている下級生達の人垣の間を二人は走り抜け、ほぼ同時に校門を通過した。新吾と前田の間で何となく終着点が決まっていて、正門の脇で立ち止まると二人は息が整うのを待っていた。

「お前の家って、学校から何分くらいなの?」

 先に口を開いたのは新吾だった。

「じゅ、十五分くらい」

 前田はまだ疲労が取れていないらしく、膝に手を置いたまま新吾の顔を見ることなく答えた。

「そうか……、分かった。それじゃあ、また後で」

 新吾は瞬時に前田と落ち合うまでに使える時間を大まかに逆算すると、まだ少し息の弾むままの前田に一度別れを告げた。

 前田の背中を見送りながら、ふと、新吾は靴紐を結んでいなかったことを思い出し、まず踵をしっかりと靴の中に収めるとその場にしゃがみ、靴紐を結び始めた。

 吹き抜けていく冬の冷たい風が上気した頬に当たり、そのあまりの心地良さに新吾の表情からは自然と笑みが零れていた。

 しっかりと靴紐を結ぶと新吾は勢い良く立ち上がり、勢いそのままに地面を蹴って自分の家まで駆け出した。

 走って、走って、疲労も喉の渇きも自覚しているはずなのに、それでも不思議と足は止まらなかった。とにかく早く家に辿り着くことだけを考えて、新吾は笑顔を湛えて走り続けた。

 交通量の多い交差点以外は全ての信号を無視して、いつもより早く新吾は自宅に戻ることができた。

 玄関の扉に手をかけると鍵が閉まっていて、信子はどこかへ出かけているようだった。新吾は鼻で浅い呼吸を繰り返しながら鍵を取り出し、家の中に入った。

 靴を乱雑に脱ぎ捨て、居間へと向かう道すがら、自分の部屋の扉を開けて通学鞄をベッドに放り投げ、台所で水を一杯、一気に飲み干すと、続けてもう一杯注ぎ、それを手に居間へと向かい、テレビの電源を入れて祥悟の定位置になっているテレビの正面にどっかりと腰を降ろした。

 次第に鮮明になっていく画面を眺めながら、新吾は二杯目の水をゆっくりと飲み干した。

 深呼吸を数回繰り返し、呼吸と心拍が治まるまで新吾は画面を眺め続けた。やっと落ち着いたところで新吾は画面の左上に表示されている時計に注目した。

 前田の家から待ち合わせの公園までどのくらい時間を要するのかはっきり分からず、新吾は何にせよ早めに行動を起こさなければならなかった。

「よし!」

 新吾は自分の両膝を叩くと飛び上がるように立ち上がり、グラスを台所に置くと自分の部屋の掃除へと向かった。

 普段から新吾は部屋を散らかさないように使っているのでそれほど掃除の必要は無かったが、それでも机の上に置いてあった漫画を塾の参考書に変えてみたり、箪笥の上に飾っている特撮の人形を片付けてみたりと、やっておきたいことはあった。

 初めは居間に通そうと考えていたが、信子が帰ってきたら前田を紹介しなければならなくなると考えると、それはそれで煩わしかった。

 面倒臭いと思いながらも新吾は心の底から億劫と感じているわけではなかった。むしろ、この状況に心踊っていた。

 本当のことを言えば、新吾は自分が何故前田からの誘いを二つ返事で了承したのか、その答えに気が付いていた。

 それは放課後に誰かと遊ぶ約束をするという、去年までは極めて当たり前だった、そして引っ越してきてから自らの行為で捨てたと思っていた健全な日常そのものだった。まして、それが自ら求めるのではなく向こうから差し出され、もう手にできないと諦めていたものが、自分に与えられようとされている。そのことが新吾は単純に嬉しかった。だから授業中は顔がにやけてしまったし、教室内での自分の立場を再認識して落胆もした。それだけに新吾は心の逸りを抑えきれずにいた。

 準備が終わり、時計に目をやると十分が経過していた。

 前田は多分、自転車で待ち合わせ場所にやって来るだろうと新吾は予想していたので、そろそろ家を出なければならない時間だった。

 玄関で転がっている運動靴に足を突っ込むと、すぐに戻ってくるのだから大丈夫だろうと、新吾は鍵も掛けずに家を飛び出した。

 走って公園に到着すると、そこには既に自転車に寄りかかる大野の姿があった。

 新吾が何と声をかけようか迷っていると、先に前田が新吾の存在に気付き、自転車を押して近付いてきた。

「お前の家って、ここから近いの?」

 開口一番文句が出なかったところをみると、どうやら前田も到着して間もない様子であり、新吾はほんの少しだけ安心した。

「ああ、割とすぐ近く。こっち」

 前田の問いかけに顔が綻ばないように気を付けながら、新吾は努めて素っ気なく答え、前田を案内しながら来た道を、今度は二人で逆方向へと歩き始めた。

 道中、会話こそなかったものの、背後から聞こえる自転車のチェーンの小気味良い音が新吾には心地良かった。

「ここだよ」

 家の前までやって来ると、新吾は自宅を指さした。前田はさされた方に顔を向けると、興味深気に家の外観を見回した。

「結構でかいな。お前の家って、金持ちなの?」

 前田の本心を包み隠さない質問に、新吾は苦笑を禁じ得なかった。

「金持ちって訳じゃないけど、近くに土地も持ってるから、まあ、それなりだと思うよ」

 新吾の言葉を聞いて前田はブツブツと独り言を口にし始め、納得するようにもう一度新吾の自宅を見上げた。

「いいから早く中に行こうぜ」

 前田の反応に気を良くした新吾は得意顔で前田を家の中へと招き入れた。

 玄関で靴を脱ぐと、新吾は前田を連れて自分の部屋へと向かった。

「今、誰もいないの?」

「そうだよ。多分、買い物にでも行ってるんだと思う」

「ふーん」

 新吾の後ろを歩く前田は物珍しそうに新吾の家の中を見回している。

「ここ、俺の部屋だから。適当に座ってて」

「ああ、分かった」

 新吾が部屋へと案内すると、前田は生返事で答えながら早速部屋の中の観察を始めていた。

 新吾は前田の行動に一抹の不安を抱きながら、飲み物を取りに台所へと向かった。

台所で新吾はさっと手を洗い、手早く飲み物を器に注ぐと、こぼさないように注意をしながら前田の待つ部屋へと戻った。

 肘で扉のノブを押し下げ、後は体を使って押し開きながら部屋の中に入ると、そこには新吾が机の上に置いていた腕時計をいじっている前田の姿があった。

「何してんだ!」

 新吾は自分のお気に入りを勝手に触られていることに憤りを覚え、飲み物を机の上に置くと、前田の手から時計をひったくった。

「ちょっと見せてもらってただけだろ。悪かったって」

 前田は反省の言葉こそ口にしたものの、心から謝っているようには新吾には感じられなかった。新吾は前田をすぐには許せず、前田に背を向けて座ると持ってきた飲み物に口を付けた。

 前田は一つ溜め息を吐くと、おもむろに立ち上がり、鍵を開けて窓を全開にした。

 新吾が勝手気儘に振舞う前田を注意しようと振り返ると、前田は窓から上半身を外に出していた。その後ろ姿は、なぜか図工準備室での遠くを見つめるあの姿に重なって、どこか寂しそうな印象を新吾は受けた。

「そんなに乗り出したら危ないぞ。……何か珍しいものでも見えるの?」

 新吾は飲み物を置いて立ち上がり、自分も前田の背中越しに外を眺めながら、前田の背中に向かって問いかけた。

「別に。ただ、風が入ってこないなって思っただけ」

 そう言って前田は窓から乗り出していた体を室内に引っ込めると、そっと窓を閉じた。

「まあ、ここの窓は南向きだから、北風が入ってこないのも仕方ないんじゃない?」

 新吾が床に敷かれた絨毯の上に座ると前田も腰を下ろした。

「それって、何か関係あったか?」

 前田は差し出された飲み物を両手で受け取ると、新吾の言葉に疑問を投げかけた。

「北風と南向きの窓」

 新吾の察していない様子に、前田は飲み物に一口、口をつけてから自分の質問に言葉を付け加えた。

「え? そいうもんだろ?」

 前田の質問の意味が分かると新吾はすかさず自分の知識の正しさを訴えた。

 新吾と前田は口を閉ざし、少しの間目と目で対峙していたが、新吾の方が先に考え込むような仕草で目を逸らした。

 新吾は頭の中をひっくり返して必死になって知識の出どころを探していたが、ちらりと前田の方を見遣ると、さほど固執した様子でもなかったので、新吾も馬鹿らしくなって考えることをやめた。

 話題が無くなり、また二人の間に沈黙が訪れた。

 新吾は前田が家に来ると浮かれていたが、そもそも前田がなぜ新吾の家に来たがったのか、それが分からないままだった。その前田といえば、ずっと新吾の部屋を興味深気に観察するばかりで目的を話そうともしない。

「あ」

 新吾が前田の訪問の目的を問いただすべきか迷っていると、突然前田が何かに気が付き、声を上げて立ち上がった。

「え、何?」

 何か隠し忘れたものでもあっただろうかと、新吾が心配をしながら前田の動向を見守っていると、前田は本棚の前で立ち止まって一冊の本を取り出した。

「これ、買ってるんだ」

 前田が手に取ったのは巷で流行りの漫画本だった。

 最近ではテレビの放送も始まり、公園などで特に低学年を中心に、ごっこ遊びなどがそこかしこで見受けられるほどの国民的人気となりつつあった。

 新吾は前の学校で友達から教えてもらい、それ以来すっかり作品に嵌っていて、単行本の発売日になるとお小遣いを握り締めて本屋へと向かうほど執心していた。

「ああ、それね。割と好きで集めてるんだ」

 大好きだと公言して馬鹿にされるのも嫌だった新吾は、控えめな言葉をわざわざ選んだが、前田はそんな新吾の意図にも気付かず漫画を熱心に読み始め、適当な相槌だけがお情け程度に返され、新吾は取り繕った自分が何だか情けなくなり、恥ずかしくなった。

 前田が漫画に熱中していて一人残された新吾は、いよいよ前田の訪問の理由が分からなくなっていた。

「……それ、好きなの?」

「好きだよ。俺も単行本が欲しいんだけど、ウチは貧乏だから買えないんだよね」

 正直、新吾は面食らった。

 お互いに自分の内面を晒すことを避け過ごしてきたので、ここまで前田が本心をおおっぴらにすることに新吾は驚きを隠せずにいると同時に、自分もこの作品について語りたいという気持ちがむくむくと首をもたげ始めていた。

「俺、ここの場面好きなんだけどさ」

 前田が今まで見たこともないような笑顔を湛えながら上機嫌で差し出したページに描かれていたのは新吾も同様に好きな場面だった。

「ああ、ここの場面な! 主人公、かっこいいよな!」

 自分と同じ感性で好きなものを語り合える人間を目の前にして、新吾が閉ざしていた心の扉の閂は一気に抜き放たれ、それから二人は時間を忘れて作品の登場人物や物語などを熱く語り合った。

 その熱は、いつの間にか帰ってきていた信子が新吾の部屋に顔を出すまで冷めることはなかった。

「そろそろ帰らないと、お家の方が心配するわよ」

「嘘? そんなに時間経ってるの?」

 新吾が慌てて時計を確認すると、既に五時半を廻っていた。

 その瞬間、新吾は塾に遅刻したことを認識し、サッと血の気が引いた。それと同時に時間忘れて遊んでしまったという自責と後悔が新吾の頭の中でどんどん大きく脹れ上がっていった。

「あなた、お名前は?」

「あ、前田昇です」

 頭を抱える新吾の横で、信子と前田が挨拶を交わしている。

「じゃあ、僕はそろそろ帰ります」

 前田はいつもの不遜な態度など微塵も見せず、行儀良く帰り支度を始めた。

「ほら、新吾。お見送りくらい、ちゃんとしなさい」

 信子に促されるまま、新吾達は前田を先頭にして列になって玄関までやって来た。

「じゃあ、また明日な」

 信子の前だからなのか、前田はまるで普段から行儀良い子供のように振舞っていた。

「ああ……」

 新吾はそんな猫を被った前田をからかう余裕は無く、前田がこの家から姿を消した直後に信子からの説教は免れないだろうと気が気ではなかった。

「お邪魔しました」

 別れの言葉を残して出て行った前田の代わりに冬の冷たい風が流れ込み、その寒さに新吾は体を強ばらせたが、それを原因とせずに新吾の指先は別の理由で当に冷たくなっていた。

 終始、信子は怒った様子を見せていないが、それでも新吾の十二年の経験が信子はこれから怒るのだと新吾に告げていた。

 新吾はこれ以上信子の不興は買うまいと、今からでも塾に行こうと仕度をしに部屋へ戻るべく、無言で踵を返した。

「新吾」

 玄関から去ろうとする新吾を信子は呼び止めた。

 信子の声の調子は抑揚がなく、怒っているのか、いないのか、判断が非常に難しいところだったが、新吾はこれを先ほどの経験則と相まって、悲観的に捉える方が自分の精神に掛かる負荷は楽観的に捉えるよりも少ないだろうと考えた。

「……はい」

 新吾は全てを諦めて、怒られることを覚悟した。

 しかし次に信子の口から発せられた言葉は、新吾の予想を裏切るものだった。

「これから塾に行っても遅刻でしょ? 電話しておいてあげるから、今日は休みなさい」

 信子の思いがけない提案に新吾は暫く言葉を失った。

「大事な時期なんだから、今日だけ特別よ」

 それどころか、怒っているとばかり思っていた信子はなぜか上機嫌で、今にも鼻歌を歌い出しそうな雰囲気さえあった。

「う、うん。分かった。そうする……」

 新吾はそんな信子を訝しみながら自室に戻り、扉に背中を預けながら怒られなかったことにようやく安堵した。

 ホッとした気持ちで新吾が前田の座っていた場所に目をやると、二人の話題の中心になっていた漫画本が目についた。

 ――家族以外がこの部屋に入ったのって、初めてだな。

 新吾は机の傍まで行き、前田の読んでいた漫画を拾い上げると、何となしにページをパラパラと捲り、途中で勢い良く本を閉じた。パンと、乾いた音は残ることなく部屋に吸い込まれ、すぐに静かになった。新吾の耳に聞こえるのは夕食を準備する信子が立てる微かな生活音だけだった。

 ――なんか、普通だったな。

 前田は本当に何の企みも無く、ただ新吾の家にやって来て、新吾の出した飲み物を飲み、漫画を読み、雑談をして帰って行った。

 極々普通で小学生としては当たり前な放課後の過ごし方が何だかとても特別なような気がして、新吾は転校してからずっと作り続けていた心の壁が崩れていくような、どこか清々しい気持ちを感じていた。

 ――俺も、やっと普通に戻れるのかな? だとしたら他の連中の事なんか、もうどうだっていい。前田と二人で、残り三ヶ月を普通の友達として過ごしたいな。

 心からそう思えた瞬間、新吾は世界がぱっと色付き、とても眩しいものに変化した気がした。

 ――いや、違う。取り戻すんだ!

 転校する前の本当の自分を取り戻したい、新吾はそう強く思った。

 少し悔しいけれど自分にこう思わせてくれたのは間違いなく前田の功績だった。前田が普通に接してくれたおかげで、新吾も普通を思い出すことができた。だから新吾は、新しくできたこの友達を一番大切にしようと思った。

 ――好きだけど買えないと言ったこの漫画も貸してあげよう。

 ――興味津々だった腕時計も、もっと触らせてあげよう。

 ――今までは適当にあしらっていた会話も、ちゃんと聞いてあげよう。前田は頭が悪いわけではないから、もしかしたら面白い話も聞くことができるかもしれない。

 ――これからは可能な限り前田を家に呼んで、放課後は二人で遊ぼう。

「新吾、ご飯できたわよ」

 新吾が明日からのことについて様々に思いを巡らせていると、台所から信子の明るい声が聞こえてきた。

「今行く!」

 引っ越してからはあまりしたことがなかった返事も、今日からはずっと返し続けることだろう。

 手に持っていた漫画を本棚に戻すと、新吾は足取り軽く居間へと向かった。

 食事になると信子は前田についてあれこれと尋ね、新吾は鬱陶しそうにしながらも、何だか嬉しくて全ての質問に答えた。

 そうして暫くしていると、珍しく祥悟が早くに帰宅し、図らずも一家団欒を過ごすこととなった。

 信子が笑い、祥悟も笑い、新吾も笑っていた。

 新吾はこうして笑って過ごしていれば、全てを忘れ去ることができるのではないかと、笑顔の裏で考えていた。

 大野を殺した犯人は多分見つからない。新吾も自白するつもりなんてない。そして自分と同じ罪を持つ前田も、きっと口には出さないだろう。

 そうして、大人になるにつれて山口と大野の命日を忘れ、二人の名前を忘れ、やがて誰もが思い出すのも億劫になって、遺族や親友だけが記憶し続けるようになる頃には、きっと新吾も前田も死んだ二人のことを口に出さない習慣が身について、自分達が死ぬまでこのことを誰かに話すこともないだろう。少なくとも新吾はそのつもりだった。

 むしろ、大野を殺したという記憶に一生縛られて生きていくよりも、記憶に蓋をして、できることなら忘れてしまう方がよっぽど正しい生き方ではないかとさえ考えるようになっていた。

「どうしたの? 美味しくなかった?」

 急に黙り込んだ新吾を心配して、向かいに座る信子が新吾に声をかけた。新吾は信子の顔を見て、そして隣の祥悟の顔を見た。

「ううん。何でもない」

 ――もう、これ以上心配掛けるのはやめよう。春から昨日までのことは早く忘れることにして、取り戻した日常を満喫しよう。

 新吾は久しぶりにご飯のお代わりをして、食事後ゆっくりと風呂に浸かり、いつもより早く布団に入った。

 明日からの学校生活に胸が踊り過ぎて、その晩、新吾はなかなか眠りに就くことができなかった。

 指切り様関連で同じように眠れない夜もあったが、今回は暗い期待ではなく、明るい未来を期待するものであり、一切の後ろ暗さのない、喜びに満ち満ちた純粋なものだった。

 新吾が最後に見た時計の針は三時を指していて、目が覚めたのは六時だった。それでも新たな日々の始まりに胸は高鳴ったままで、眠気なんてどうということはなかった。

 それほどまでに、この日の新吾の一日に掛ける思いは強かった。

だからこそ、昼休みに前田が知らない誰かと並んで歩きながら図書室へ向かう背中を見た瞬間、新吾が抑えきれない殺意を覚えたのは当然の衝動だった。

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