第四章 5

 三日間の休校はすぐに明け、新吾は久しぶりに通学路を歩いていた。時間はいつもよりずっと遅く、到着と同時に予鈴が鳴るだろうと新吾は踏んでいた。

 左の袖を少しだけ捲る。お気に入りの腕時計が顔を出し、新吾は時間を確認する。

「まだ少し早いな」

 新吾は袖を元に戻すと遅い歩調を更に緩めた。

 遅刻をすることに抵抗がある新吾は自分でも無意識のうちに間に合うように歩いてしまう。やがてどんぐり公園の前に差し掛かると、新吾の足は自然と止まった。

 大野の登った木がどれなのか新吾には分からなかったが、見える限りの背の高い木には全てに「登るな」と注意看板が打ち付けられていて、公園の入口にも同じ看板が新たに立てられていた。

 新吾は立看板の全文に目を通し、静かにその場を後にした。

 大野の葬式は、休校していた三日間の間に行われた。

 新吾は参加するつもりはなかったが、山口の時とは違い、自分のクラスのことなのだからと、信子に半ば強制的に参加させられた。

 新吾の祖父母は父方も母方も健在だったので、初めて体験する通夜はとても不思議な感覚だった。

 大野の友達は本当に別れを惜しんで涙を流していたが、残りの多くは新吾と同じように戸惑いと好奇心が少なからず表情に浮かんでいた。

 大野の死因も、やはり頭部切断であった。

 大人達の声を潜めたやり取りから漏れ聞こえてきた情報を総合すると、大野は登った木の頂上から滑り落ち、秘密基地と称し、足場となる木の板を吊るしていた鉄線に首が引っかかり、それが首の切れる原因となったようだった。

 死亡当日、大野が早退していたことを知った大人達は体調が悪いにも関わらず外に出た大野自身の不注意による不幸と受け取っていたが、子供達は当然、別の要因があると確信していた。

 その証拠に斎場にいたクラスメートは新吾の姿を見つけると、ある者は怯えの、またある者は嫌悪の、そして大野の仲間達からは憎しみの視線を、新吾に浴びせていた。

 ある程度の批難を想定していた新吾はそんな周りの目など無視してやり過ごしていたが、焼香の際に大野の母親から向けられた憎しみの目だけは無視することはできなかった。大野の母親の瞳に宿っていた感情は、大野の親友から向けられた憎しみのものと酷似していた。しかし、他とは一線を画す、より強い憎しみの感情が含まれていて、新吾は大野の母親と目が合った瞬間に人生の中で一番の恐怖を覚えた。

 焼香の間も刺さるような視線を感じ、形だけの供養を終えると、新吾は逃げるように信子の手を引いてすぐに斎場を後にした。

 結局、十分前に学校に着いてしまい、新吾は仕方なく校庭をぶらついて時間を潰すことにした。

 校庭には早くに登校した生徒達がドッチボールをしていたり、一輪車を漕いだり、朝礼台に腰掛けて話したりと、三日間の空白を埋めるかのように思い思いの時間を過ごしていた。

 ただし、遊んでいるのは山口のときと同様に殆どが新吾よりも下の学年の生徒達ばかりで、きっとどこのクラスでも大野の死の現場に居合わせた者達が事細かに状況を語り聞かせているのだろうと、容易に想像ができた。

 新吾が校庭の隅に集められた桜の落ち葉を踏み潰していると朝の会の予鈴が鳴り始め、遊んでいた生徒達は慌てて遊具を片付けて各々の教室へと向かい、新吾も待ちくたびれたと踵を返し、教室へと向かって歩き出した。

 新吾が校舎に入り、下駄箱で靴を履き替えていると、丁度そこに倉田が通り掛かった。

「佐竹、珍しく遅いな。早くしろ、遅刻にするぞ」

「あ、先生。おはようございます。待って下さい、今行きます」

 新吾は心の中で喜びに拳を握り締めた。ここで倉田に会えたことは新吾にとって幸運なことだった。

 教室へ向かう階段の途中、倉田と言葉を交わすことはなかったが、学校中を包む異様な雰囲気に倉田が苛立っているように新吾は感じ取っていた。

 倉田と共に新吾の教室がある三階まで上がると、その異様な空気をより感じられるようになった。

 前田の教室を通り過ぎる際、新吾が横目で中を覗き見ると、話を止めようとしない生徒達を教師が声を荒らげて何とか収めようとしている姿が見受けられた。そんな中、新吾は前田の席を見た。

 喧騒の中で前田だけが窓の外を眺めていた。

 新吾は前田の表情が見たかった。新吾が一人でお化けビルに行ったことを驚いているのか、怒っているのか。前田が自慢気にしている山口を呪いで殺したという優位性は、今回の件で無くなっている。次に顔を合わせたとき、前田がどういう態度を示すのか、それもこの三日間に想像を巡らせていたことの一つだった。

「おい佐竹! 本当に遅刻にするぞ」

 いつの間にか足を止めて夢中で前田のクラスを覗いていた新吾は倉田に促され、後ろ髪を引かれる思いで倉田の後を追いかけた。

 自分の教室の前に立つと廊下からでも分かるくらいに室内は喧騒に包まれていた。

 倉田が扉を開けると廊下に漏れていた声量が少しだけ収まり、その後に続いて新吾が教室に入ると、それまでの騒がしさが水を打ったようにしんと教室が静まり、他の教室の喧騒との不思議な温度差が生じていた。

 新吾はこの状況から教室の全員が自分を大野殺しの犯人と断定していると確信した。

 机と机の間を通り、自分の席へ向かう途中、新吾は大野の席に目を向けた。

 主を失った机の上には献花が供えられ、大野の死を如実に物語っていた。

 新吾が席に着いたところで倉田は出席を取り始め、その間はヒソヒソと新吾の耳に届かないように誰もが近くの人間と新吾を盗み見ながら囁き合っていた。

 出欠の確認が終わると、倉田は大野について少しだけ語った。

 皆が倉田の話に耳を傾け、感受性豊かな女子や大野の仲間達は肩を震わせていた。

 新吾は教室の所々から聞こえてくるすすり泣きの声を聞かないように、ただ窓の外の灰色の空を見上げていた。

 倉田が話を終え、教室を去ろうとすると一人の生徒が席を立ち、手を挙げた。

「先生」

 静寂を破るその声に、教室にいた全員が発信源である生徒に注目をし、新吾もその例外ではなかった。

「……どうした?」

 立っていたのは特に大野と仲の良かった男子生徒だった。

 新吾は案外早かったなと、心の中で思った。

「大野は……、大野は事故で死んだんじゃありません! あいつに限って木から落ちるはずがありません! 先生だって、あいつの運動神経の良さは知っているでしょ?」

 話しているうちに感情が抑えきれなくなり、最後は殆んど涙混じりの声になりながら、男子生徒は倉田に対して大野の死に対して、世間とは違う意見を訴えた。

「……お前の信じたくない気持ちも分かるが、大野は登った木から落ちたんだ。警察も、そう断定した」

 倉田はあくまでも冷静に、感情論に付き合うつもりはないという態度であったが、そんなことで彼の溜まりに溜まった感情が抑えられるはずもなかった。

「違います! 大野は佐竹に殺されたんです!」

 誰もがそれを口にしたくて、それでも言えなかったことを代弁した瞬間、教室の空気が張り詰めた。

「……どういう意味だ?」

 倉田は普段から無愛想であまり感情を露にする人間ではなかったが、この発言に関しては纏う雰囲気が大きく変わり、教卓に近い生徒は少なからず体を固くしているように新吾には見えた。発言をした本人は溢れ出る感情から余裕を無くしていて、その変化に気が付いていない。

「俺も、今の言葉は聞き捨てなりません」

 新吾はこの三日間、何度も練習をした台詞を口にした。

 新吾の発言に、誰もが声の主に注目をした。

 目下、大野殺しの犯人の最有力候補が口にする言葉にしては、それはあまりに白々しいものだった。

 耳目が集まっていることを肌で感じながら、ここから先は展開に任せる部分も多いが、自分ならやり遂げられると新吾は腹に力を込めた。

「ふざけんなよ! どう考えたってお前が大野を呪ったんだろ!」

 倉田の存在も忘れ、目を剥き出しにして今にも飛びかかってきそうな勢いで男子生徒は新吾の言葉に対抗する。

「俺が大野に呪いをかけたって言うんなら、その証拠を見せてみろよ!」

 新吾が用意していた切り札は、この「証拠」という言葉だった。

 指切り様の呪いには事故と処理する以外に不自然な点が無いというのが大きな特徴であり、つまり、他殺としての証拠は皆無だった。そして、この証拠という言葉を全面に出すことで、新吾は新吾を糾弾する側の武器を倉田の公認の下に取り上げてしまおうと、三日間考えていた。

「佐竹も黙れ。……しかし、そうだな。さっきも言ったが、あれは事故だ」

 倉田は新吾が割って入ったことで冷静さを取り戻し、怒りの雰囲気は既に収まっていた。新吾としても、倉田が怒り続けているとあまり都合が良くなかったので、これには内心、胸を撫で下ろしていた。

「俺、間違ったこと言ってねぇよ! 皆だって、そう思ってんだろ! あの人殺しに何か言ってやれよ!」

 彼の涙の訴えに、教室のあちらこちらから賛同の声が挙がり始めた。

「そうだよ! 佐竹が指切り様に頼んで、大野を殺したんだ!」

「この前、大野が佐竹とケンカしているのを見たし、その仕返しに呪いをかけたんだよ!」

 静まりかけた教室は瞬く間に教室は新吾を糾弾する声一色に染まり、声が声でかき消されるほど教室は無秩序と化していた。

 怒号が交錯する教室に突然風船を割ったような破裂音が響き渡り、声を荒らげていた生徒達も驚き、誰もが一斉に音のした方へ視線を向けた。

「少し黙れ」

 音の正体は倉田が出席簿で教卓を叩いたものだった。

「でも先生、俺は友達を殺した奴と一緒に居たくありません……」

 倉田が全く自分の味方になってくれないことに胸中の正義が揺らいでしまったのか、男子生徒の言葉に先ほどまでの力強さは失われてしまっていた。

「佐竹の言葉を借りる訳ではないが、お前は一体何を証拠に佐竹が犯人だって決めつけているんだ?」

「だって、この前の放課後に二人がケンカしてたし……」

 クラス全体を代表して意見をしていたはずが、いつの間にか彼一人だけが槍玉に挙げられている構図に変化していた。今では誰も助言することなく、一様に俯いていた。

「誰だってケンカくらいするだろう? だからってケンカ相手を殺すなんてこと考えないだろう?」

 倉田の言葉が正論ばかりの大人の一方的な意見の押し付けでないことは誰もが理解していた。そして、その言葉は教室を包んでいたやり場のない怒りを確実に解いていた。

 新吾ですら、心の奥底に沈めていた後悔の念がちらつき、胸が締め付けられた。

「でも、大野が木から……。首が切れてたし、あれは指切り様の呪いだよ!」

 願望にも似た悲痛な叫びが教室に響き渡る。

 その言葉は既に新吾を批難するものから、新吾が犯人でなければならないという思いだけの子供の駄々へと成り下がってしまっていた。

 一人立っていた彼も力なく椅子に座ると、机に突っ伏して静かに泣き始めた。

 こうなれば、もう誰が新吾を批判しようとしても、それは現実を受け入れられない八つ当たりとしか周りからは見えず、新吾の身に何かあれば教師達は新吾の味方に成らざるを得ないであろう。新吾はこの三日間、この展開を作り出せるように時間を費やしていた。

 これから先、卒業までの実質四ヶ月間を針の筵という環境で過ごすというのは、さすがに面倒だと新吾は考えていた。

そして、そうならないためにはどうするべきか思い付いたことが、まずクラス全体の不満を一度に全て吐き出させることであった。

 全ての不満を吐き出させた上で、大人である倉田に正論で否定させる。これで指切り様と新吾が関係しているという言葉は全て子供の戯言に過ぎず、且つ指切り様という言葉は禁句に成り果てるというのが、新吾の用意した筋書きであった。

 途中、倉田が怒り、不満が出きらない状態で頭ごなしに押さえつけていたなら、そこに不公平感が加わり、表に出ない陰湿な攻撃が始まるだろうと新吾は想像していたので、それを回避できるか否かが最大の山場だった。

 それも今のクラスの雰囲気を見て、乗り越えることができたと新吾は確信していた。

 ――あとは何もしなくても勝手に収まるだろ……。

 新吾の予測の通り、それからは誰も言葉を発することもなく、事故は誰の責任でもないという倉田の言葉を全員が黙って聞いていた。

 沈み込んだ教室に一時間目の終了を知らせる放送が鳴り渡り、気付けばまるまる授業一つを潰したことを鐘の音によって知らされた。

「……次はちゃんと授業をするからな。皆、準備しておけよ」

 教室からはちらほらと小さな声で輪唱のような返事が返された。

 倉田は鐘の音が鳴り止まないうちに出席簿を脇に抱えて教室を出て行き、開放されたようにざわつき始める教室の中で新吾は机の中を漁り、次の授業で使う教科書とノートの用意を始めた。

「佐竹。ちょっといいか」

 新吾が呼ばれた方向に顔を向けると、去ったはずの倉田が扉から顔だけを覗かせ、新吾に手招きをした。

 突然、新吾に緊張が走った。

 用意してきた作戦が万事上手く運び、完全に気が緩んでいたため、新吾は倉田の呼び出しの意図を考えるだけの思考力を手放していた。

「は、はい」

 新吾はゆっくりと立ち上がると、できる限り時間をかけて倉田の下へ向かった。

 すれ違うクラスメート達はやっぱり新吾が事件に関係しているのではないかと、再び疑いの目を向けている。

 今の今まで大野の死は誰の責任でもないと口にしていたのだから、舌の根の乾かぬうちにその言葉を翻すはずはないだろうと思うことで、新吾はやっと倉田の待つ廊下に出ることができた。

「佐竹は、進学希望だったな」

 倉田の問いかけに、新吾は一瞬、倉田が何を言っているのか理解できなかった。そして、頭の中でもう一度倉田に聞かれた言葉を反芻することで、ようやく質問に追いつくことができた。

「は、はい。そうですけど……」

「そろそろ受験に向けての話し合いが本格的に始まるから……」

 軽い溜め息と共に緊張が解け、竦めていた肩が正常な位置に戻る。

 新吾は正直、呆れていた。確かに受験の時期も近くなり始め、塾でもそれに向けての士気も高まってきている。学校との連携が大切なことも充分に理解しているつもりだったが、何も今このときにそのことを告げる必要はないのではないかと、新吾は心の中で倉田を浅はかと罵った。

 倉田の話を半分も耳に入れずに少し視線を外していると、教室の中から新吾達の会話を盗み聞きしようとしている生徒がいることに気が付いた。

 新吾は扉を蹴って脅かしてやろうと考えたが、あえてこのまま話を聞かせ、更に事件との無関係という論理の重ね塗りに使わせてもらうことにした。

 その効果はてきめんで、扉に張り付いていた誰かも新吾達が受験について話しているということが分かると、すぐに扉から気配が消え、直後、不満と落胆が綯交ぜになったざわめきが起こり、廊下まで漂うようであった。

「……佐竹、聞いているのか?」

「は、はい。聞いてます」

 教室の中ばかり気にしていて殆んど聞いていなかったが、新吾は咄嗟に返事をした。それが分かっていたのか、倉田は不機嫌そうに新吾を見下ろしていた。

 新吾が取り繕うように苦笑いをしていると、倉田も仕方がないといった風に溜め息を吐き、驚くほど真剣な表情を新吾に向けた。

「……内申とか色々あるんだから、これ以上問題を起こすなよ」

 それじゃあな。と、倉田は自分の話が終わると新吾に背を向けてさっさと職員室へ戻って行った。

 新吾は言葉も発せないまま、ただ遠ざかる倉田の後ろ姿を見送ることしかできなかった。

 ――問題を起こすなって、どういう意味だ? 先生も、本心では俺を疑っているのか?

 答えのもらえない疑問が新吾の心の中で煩わしいしこりを作り出し、言いようのない不安の影を新吾の心に作り出していた。

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