第四章 4
新吾は普段より三十分以上も早く学校に着いた。
朝食後、新吾はテレビを観ていても内容が入らないくらいに気持ちが落ち着かず、早々に家を出ることにした。
校舎の中はほぼ無人と言えるほどに閑散としていて、隣の教室の前を通り過ぎたときに一人の女生徒が登校しているのを見かけたくらいで、新吾の教室にはまだ誰も姿を見せていなかった。
一人きりの教室で新吾は自分の席に座ると昨晩不意に思い付いた計画を思い出し、早く大野が登校してこないだろうかと期待に胸を躍らせながら、長袖を少しだけ捲くり、勲章のような手首の傷を眺めていた。
時間が経つごとに一人二人と教室に生徒が姿を見せ始め、次第に校内に活気が生まれ始めた。しかし八時半に朝の会が始まるというのに、八時十五分を過ぎても大野はなかなか姿を見せず、まさか大野が欠席という最悪の状況に陥りはしないだろうかと焦りを覚えた新吾は、席を立つと昇降口へ向かった。
階段を降りる際も擦れ違う人混みの中に大野が紛れていないだろうかと横目で確認をしながら一つ飛ばしで駆け降りた。
結局、登ってくる集団の中に大野の姿を見つけることはできず、新吾は下駄箱の影で大野の登校を待った。
その後、遅刻寸前になって大野が登校し、新吾の存在に気付くこともなく階段を駆け上がっていった。残された新吾は遠ざかる大野の足音を耳にしながら、計画の最低条件が整ったことで自分の鼓動が早くなっていくことを感じていた。
大野の登校を確認した新吾は教室に戻り、朝の会の終了の鐘が鳴ったと同時に、新吾は早速行動を起こした。
「大野。ちょっといいか」
新吾は大野の席へと向かい、他愛の無い話をするかのように初めて自分から大野に話しかけた。
大野は新吾でなければ気が付けない、小さな緊張を纏いながら、ゆっくりと新吾の方へ顔を向けた。
「……何だよ」
新吾から誰かに話し掛けるという行為がとても珍しく、教室中の目が二人に注がれた。
大野は口調こそいつも通りであったが、口元は強ばり、新吾は大野の背後にいる大野の仲間にこの滑稽な顔を見せてやりたいと思った。
「すぐに済むから。廊下に行こうぜ」
新吾は吹き出しそうになるのを堪えながら振り返ると、先に廊下に向かって歩き出した。
大野は新吾の後に続き、昨日の放課後の件を知る者はその続きが始まるのではないかと、少しの心配と多分の期待を込めて更にその後に続いた。
教室から廊下に出ると新吾は特別棟に向かって少しだけ歩き、そして人気が少なくなったところで立ち止まり、大野の方へ振り返った。
仲の良い関係とは言えない距離を置いて立ち止まる大野の顔には、先程までの緊張の中に苛立ちの色が含まれていた。
「で? 何だよ、話って」
先に口を開いたのは大野だった。威勢こそ良いものの、彼の発した声色は固かった。
新吾も一時間目が始まる前に済ませてしまいたかったので、早速計画を実行した。
「これ、見てくれよ」
新吾は服の袖を肘まで捲り、昨夜できた傷を大野に見せた。大野は傷の意味が理解できないようで、訝しげに傷を注目した。
合点がいかない様子の大野に対して、新吾は続けて小指を立ててみせた。
新吾が考えた計画は、大野に指切り様の呪いをかけたことを伝えることだった。
ただ漫然と大野の最後を待つだけではつまらないと考えた新吾は、いつ来るとも分からない自分の終わりを知り、みっともなく逃げ惑う大野の姿を見てやろうと考え至った。
大野は立てられた小指に目を細めると、一瞬の間の後、今度は驚愕の顔と共に瞳を大きく見開いた。
「……昨日、行ってきたんだよ。指切り様のところ」
大野の反応に心の中では手応えを感じながらも、新吾は表面上、何でもないといった態度で袖を直すと、大野の背後で教室の扉の影から新吾達の様子を覗き見るクラスメート達を視界の端に捉えながら、大野の次の反応に更に期待を膨らませた。
――もしかしたら泣くかな?
しかし、新吾の期待は瞬く間に打ち砕かれた。
「俺達が行っても会えなかったんだから、お前なんかが会えるわけがないだろ。どうせその傷だって自分でやったんだろ? 下らねぇ」
大野は言葉を吐き捨てるようにして踵を返すと、新吾の顔も見ずに教室へと歩き出した。
小指の青痣を見せたとき、大野はその意味を正しく汲み取り、確かに狼狽えていた。そうなることは自然の流れで、新吾も昨晩から考えていたこの予定調和に自尊心が満たされるはずだった。しかし、狼狽えていたはずの大野は突如、態度を百八十度変えた。
新吾は大野の態度に驚くと共に、自分の期待を裏切る反応に対する怒りにも似た不満が心の底から湧き上がってくるのを感じていた。
去っていく大野の背中に声を掛けようと口を開いた瞬間に、無情にも始業の鐘が鳴り始め、大野の背中の向こうには教室に向かってくる倉田の姿もあり、新吾は大野を呼び止める機会を完全に逸してしまった。
「あと、関係無い奴まで巻き込むんじゃねぇよ」
言葉を失い、廊下に立ち尽くす新吾に対し、大野は教室に入る直前そう言い残し、廊下から姿を消した。
「おーい、佐竹。早く教室に入れー」
大野の残した言葉の意味を考える間もなく新吾は倉田に促され教室へと戻った。
授業中、新吾は大野の残した言葉について思考を巡らせていた。普通に考えてみれば、新吾が巻き込める誰かがいるとするならば、それは前田しかいない。しかしあの場に前田の姿はなく、そもそも新吾は今回誰の協力も得ていない。
考えつく答えは大野が前田以外の誰かを指している可能性があるということだった。
では誰を指しているのか。先程、新吾と大野の近くには誰もおらず、新吾の仲間と間違われる状況に陥る人物など存在しなかった。
大野の不可解な言葉に、先程までの不満のことなどすっかり忘れて頭を悩ませる新吾であったが、これは大野の奇行の始まりに過ぎず、授業中に突然椅子から転げ落ちたり、体育の時間にどこかへ向かって怒鳴り声を上げたりと、いつものふざけと捉えていた仲間達も大野の鬼気迫る様子に段々とその異常性を心配するようになり、当の大野は遂に昼休みと同時に倉田に説得され、早退することとなった。
新吾も大野の奇行には少なからず驚きと戸惑いを覚えた。しかし、それはクラス中が感じているものとは全くの別物で、指切り様の効果が本当に現れ始めたのではないかという驚きと戸惑いであり、そして少しの後ろ暗さでもあった。
取り返しのつかない結末を予測し、後悔の念を自覚しながらも、そもそもこの事態を招いたのは大野の行いの結果なのだと、全ての責任を大野に押し付けることで新吾は事態から目を逸らしていた。
大野が早退したことで教室全体が集中力に欠け、騒がしいばかりの午後の授業が終わると、新吾は早足で家に帰った。
帰宅すると家の鍵は閉まっており、信子はどこかへ出掛けているようだった。新吾は持たされている鍵を使い家の中に入り、そのままの足で自室へと向かい、通学鞄を降ろすと机の上に塾の教材を広げた。
しかし塾の課題を前にしても新吾は大野のことばかりが気に掛かり、全く手も付けられない状態にいた。
――早退したんだから、危険はぐっと減るんじゃないか? 家で首が切れることなんてまずありえないだろ……。
指切り様の効果を充分に理解しているからこそ、新吾は平常心ではいられなくなった。
大野が指切り様から逃れる可能性が残されているのではないかと、今では大野の生死のどちらを願っているのか、新吾自身分からなくなっていた。
そして、どのくらい思案していたのか分からないが気付いたときには信子が新吾の部屋を訪ねていた。
「ああ、帰っていたのね。もう、電気くらい点けなさい。目が悪くなるわよ」
信子は新吾に注意をしながら部屋の電気を点けた。数回の点滅の後に部屋全体が明るく照らされる。
少しだけ目が眩み、新吾は顔を小さく顰めた。そして、その細める目をなかなか解くことができなかった。
それは部屋を訪れた信子の声の調子に暗い影を感じ取っていたからだった。
信子は何か言いたげにして、新吾の部屋の中に忙しなく視線を走らせている。
新吾は指切り様のことを思い浮かべながら、信子の言葉を待った。そして待っている間に、外が妙に騒がしいことに気が付いた。
新吾が外に注意を奪われていると、信子が大きな溜め息を吐き、新吾は再び信子の方へ注意を向けた。
信子の溜め息には落胆というよりも後悔の念が含まれているように新吾は感じていた。そして、信子は何かを諦めるように入口に寄りかかり、口を開いた。
「……あのね、さっき買い物から帰って来る途中に聞いたんだけどね。新吾達の学校の近くに大きな公園があるでしょ?」
学校の近くと言われ、新吾は一瞬だけ思考を巡らせる。
「……どんぐり公園のこと?」
新吾は信子の言葉に相槌を挟み、盗み見るように視線だけを机の上に置いてある目覚まし時計に送る。時計は午後六時半を指している。
「そう。その公園でね、木に登った男の子が落ちて、大怪我をしたらしいの」
新吾は信子が嘘を言っているとすぐに分かった。嘘というよりも、言葉を濁しているという方が正しいような気がした。しかし、そんなことよりも今は一つの疑問が頭に浮かび、信子の嘘などは些末なことでしかなかった。
「新吾は大丈夫だと思うけど、危ない遊びはしないでよ」
「あ、うん。分かってるよ……」
信子は寄りかかったまま一度頷くと、気怠そうに扉を閉めて、部屋から出て行った。
一人になった部屋で新吾は浮かぶ疑問に取り掛かった。
まだ事故に遭った少年というのが大野と決まった訳ではなかったが、それでもこの折に飛び込んできた情報とすれば、殆んど疑いの余地は無かった。その上で新吾の疑問は益々強まる。
――何で大野は外に出たんだ?
家の中であれば少なくとも首が切れるような事故が起こる危険度が低いことくらい、大野だって充分に理解できているはず。もし、木から落ちた少年が本当に大野なのだとすれば、わざわざ自分の命を危険に晒す真似をした大野は本物の馬鹿だと新吾は思った。
新吾は一度考えることを止め、椅子の背もたれに寄り掛かり、暗い窓の外に目を向けた。
――俺が殺したことになるんだろうな……。
大野の浅はかな行動を非難する新吾だったが、勿論その元凶が自分にあることは自覚していた。
そしてそのことを考えると、途端に新吾の心は言い知れぬ恐怖に捕らわれた。それはお化けビルで体験したものとは全く種類の違う恐怖だった。
強いて似た感覚を挙げるとすれば、不注意からコップを割ってしまい、信子に知られないように片付けはしたが、次の廃品回収までバレはしないだろうかと気もそぞろとなっているときに似ていると言えた。
普段であればコップの一つで済むことが、今回ばかりはそうはいかなかった。
新吾はどうしようと思う一方で、どうしようもない、どうにもならないと全てを投げ、考えることを放棄しかけている自分の無責任さを肯定し、開き直りたい気持ちに駆られた。
新吾の思考が混濁する最中、突然、居間の電話がけたたましい音を立てて鳴り出した。新吾はハッとして上体を起こし、扉の方に目を向けた。呼び出し音が二回、三回と繰り返す度に、新吾の中の悪い予感が加速度的に増加していく。
五回目の呼び出しの途中で信子が受話器を取り、新吾は不安な静けさに包まれた。
はっきりと聞こえないものの、信子の電話口でのやりとりが雰囲気で伝わってくる。十中八九、事故を起こした少年の詳細が連絡網で回ってきたのだと分かり、その事故の原因が新吾であるということも既に明らかになっていて、信子も電話を置いてすぐに自分の元に来るのではないかと、新吾は胸をジリジリと焼かれるような不安に駆られ、軽く吐き気すら催していた。
微かに途切れ途切れに聞こえていた信子の声が聞こえなくなると、ほんの少しの間を置いて、再び信子の声が聞こえ始めた。
電話が終わるとすぐに信子が自分の部屋に来るだろうと身構えていた新吾は、信子が次の家への連絡を回していると理解するのに少しだけ時間が掛かった。
やがて信子の話し声が聞こえなくなると、家の中が無音となった。耳を欹てていた新吾は、自分の息遣いがうるさいくらいによく聞こえていた。窓の外からは灯油の販売車が童謡をかけながら拡声器を使って宣伝文句の録音を流して走っている。しかし、いつもなら聞こえてくる誰かの笑い声や走る足音などは、一切耳に入ってきていない。
信子が静かにしている時間が長くなるほどに新吾の不安は高まり、呼吸は浅く、指先は熱を失い冷たくなっていく。
新吾が冷えた指先を揉み解しながら熱を与えていると、不意に信子の足音が新吾の部屋に近付いているような気がして、新吾は全身が強ばった。一歩一歩大きくなる足音に、新吾の目は今にも開かれるであろう、すっかり見慣れた自室の扉に釘付けになっていた。
ノブが捻られた瞬間、新吾は反射的に机に拡げられている問題集に目を落とした。
自分の息子のしでかしたことを知った信子が怒鳴り込んでくるとばかり思っていた新吾の予想は裏切られ、静かに、そして躊躇うようにゆっくりと信子は扉を開いた。
新吾は自然を装い扉の方へと視線を移し、部屋に入ってくる信子の表情を観察した。
「……どうか、したの?」
部屋に現れた信子の表情は、先程よりも更に暗い影を落としていて、新吾を怒るような雰囲気は纏っていなかった。
「……何か、……あったの?」
信子の様子からは新吾が犯人であると特定されているのかいないのか判断しかね、口を閉ざしたままの信子に新吾は苛立ちを募らせた。しかし、ここで怒りを露にするのも不自然な気がして、新吾はただ信子が言葉を発する瞬間を待つことしかできなかった。
「あのね、さっきの事故の話なんだけどね……」
信子はそこで一度、口を噤んだ。
沈黙は一分と続かず、信子は何かを決意したかのように意思を持った声で改めて話を始めた。
「その事故に遭った子なんだけどね、病院に運ばれたけど、不幸なことに亡くなったらしいの。……それが、新吾と同じクラスの、……大野君なの」
――やっぱり大野か……。
信子の口から大野の名前が出た瞬間、新吾の心には驚きと不思議な諦めが去来し、今まで張っていた緊張の糸がぷつりと切れ、全身の力が抜けていくのを新吾は他人事のように感じていた。
「大丈夫、新吾?」
急に雰囲気の変わった新吾を心配した信子は隣まで来ると、そっと新吾の肩に手を置いた。
「大丈夫……、大丈夫」
力の無い言葉で新吾が答えるよりも早く、新吾は信子の腕の中に包まれていた。
普段であればすぐにでも押し退けているところであるが、新吾はただされるがままに体を預けていた。それは、突然のことで驚いたこともあり、全身の脱力で思うように体が動かないこともあったが、一番の理由は信子が震えていることに気付いたからだった。
意思を持って伝えてくれた言葉も気丈に振舞っていただけだと分かると、こんなときまで見栄を張る大人の心理が新吾には理解できなかった。しかし、この震えながらも自分を慮る母を、新吾は馬鹿にする気にはなれなかった。それよりも、新吾は母に自分の行いの全てを吐露してしまいたくなる衝動に駆られていた。
「……こんなところ、来るんじゃなかった」
信子はそっと体を離すと、新吾に背を向けて小さく鼻をすすった。
「明日から三日間、学校は休校になるから。それから、気分が悪くなったり、言いたいことがあったらすぐに言ってね。それじゃあ、もうすぐご飯にするから」
信子はそっと新吾の体から離れ、静かに扉を締め、そして信子の足音は遠ざかっていった。
再び一人になった自室で、新吾は不思議な感覚に捕われていた。
数秒前までの無気力が嘘のように、今は瓢箪から駒とも言うべき達成感が新吾の全てを満たしていた。
この町に来て最初に望んでいた新吾の願いが、思わぬ形で今叶っていた。
後悔しか見出せなかった今回の行動が一転して、引っ越しをしたことを両親に後悔させるという最大の結果を出したことで、新吾の中で自分の起こした行動は間違っていなかったという考えが、毎秒毎分と時を経るごとに新吾の心にしっかりとした立体を成し、確かなものになっていった。
本懐を遂げた新吾の心は憑き物が取れたように晴れ渡り、最早その胸の中に後ろめたさは存在していなかった。
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