第四章 3

 気分が悪くなったと嘘をついて、新吾は塾を途中で抜け出した。

 いつもとは違うバスに乗り、学校近くの停留所でバスを降りた。首元に吹き込む冷たい風に新吾は思わず首を竦めた。

 バスが走り去るのと同時に新吾も歩き出し、一つ角を曲がるとバスのエンジン音も遠ざかって、辺りは民家からの生活音が微かに漏れ聞こえる程度の静けさが漂っていた。

 新吾は歩きながら鞄に忍ばせていた懐中電灯を取り出して、街灯も疎らな前方の暗闇に向けて電源を入れた。カチッという小気味良い音と共に、光の橢円がコンクリートの地面を淡く浮かび上がらせた。

 家を出るときには信子に見つからないようにすることを優先して動作の確認をすることができなかったので、無事に灯りが点いたことに安堵すると新吾はすぐに電源を切った。

 街灯の少ない道の上で懐中電灯を点けたままでは悪目立ちをして、また誰かに目撃される危険性が上がってしまうと考え、今日の放課後のようなことを起こさないためにも新吾は充分に用心していた。

 前田と歩いた夜はまだ暖かかったな、と着込んだ上着の窮屈さを感じながら、妙な懐かしさが新吾の胸に去来していた。

 新吾はお化けビルに行くことを前田に伝えていなかった。

 お化けビルに行くと決めた後、新吾は前田を誘おうと彼の教室を覗いてみたが、既にその姿はなく、諦めるより他なかった。

 しかし前田に会えなかったことで新吾の頭に一つの考えが浮かんだ。

 一人でお化けビルに入ることに心細さを覚えるものの、新吾だけで指切り様の呪いをかけることができれば、天狗になっている前田を出し抜くことができるかもしれないと思い至り、前田が先に帰ってくれていたことも都合が良いと思い直した。

 暗闇の中に浮かび上がる校舎の脇を通過して、新吾はお化けビルの壊れた柵の前までやって来た。

 新吾は手に持ったままの懐中電灯の電源を入れて、敷地に入る穴を確認した。

 全てを見て歩いたことがないので断言することができなかったが、広い敷地の中で唯一ここだけに空いた穴が心に闇を抱えた者達を強烈に惹きつける何かを漂わせている。新吾はそんな気がしてならなかった。

 暫く穴を照らし続けていた新吾だったが、意を決し、身を屈めると頭から穴をくぐった。

 柵を抜けると新吾は懐中電灯の灯りを点けた。すると、暗がりでは認識できなかった雑草がすぐ目の前に浮かび上がった。

 敷地の中は相変わらずススキや雑草が無秩序に伸びていて、その中を切り裂くように一本の獣道が建物に向かって伸びている。

 懐中電灯で丸く照らされた道の上を歩きながら、過去に一体何人の人間がここを訪れ、どんな思いでこの獣道ができ上がったのだろうと想像するだけで、新吾は改めてこの地における指切り様の影響力というものを実感していた。

 やがて光の円の中に無機質なコンクリートが現れると新吾は懐中電灯の灯りを地面から離し、そして真っ直ぐ正面に手を伸ばして前方に光を向けた。

 暗闇にくすんだ白い壁が浮かび上がり、新吾は壁に走るヒビをなぞるようにしてお化けビルを見上げると、稚拙な見栄のためにたった一人で来てしまったことを少しだけ後悔し始めていた。

 約一ヶ月半前に訪れたときよりも気温の変化と一人きりということもあるのか、新吾はビルから冷酷で非情な印象を受けた。

 少しの時間、ビルを見上げたままの新吾だったが、灯りを地面に戻すとひとまず入口まで行ってみようと、再び歩を進めた。

 しかし、その足取りは恐怖が絡みついて覚束ない。

 雨や風がないにも関わらず、草むらの中からは虫の声一つ聞こえず、そのせいで新吾は全体が心臓になってしまったのではないかと錯覚するくらいに脈打つ心音を感じながら、何かに操られるように無自覚に踏み出す頼りない一歩一歩に身を委ねて入口を目指した。

 ビルに沿って敷かれている、ところどころヒビ割れたコンクリートの足場が左に折れ、そこから先には行き止まりのように草が伸びていた。

 コンクリートを追うようにして左を向くと、いよいよ新吾はお化けビルの入口の前に到着した。

 外からビルの入口に向けて光を当てると、僅かながら内部の様子が窺えた。

 建物自体は相変わらず人を寄せ付けない雰囲気を漂わせているにも関わらず、指切り様の力を求める者には常に門戸を開いていて、お化けビルはさながら現代の駆け込み寺の様相を呈していた。

 寒空の下、入口に立ち尽くしていた新吾はまだ中に入る踏ん切りを付けられずにいた。

 意地や溜まった鬱憤を晴らすためにここまで来たが、もしも指切り様にお願いをすることができれば大野は確実に死んでしまう。自分のつまらない意地で他人の人生の幕を引いてしまうことがいかに非常識で、そんな権利など何人たりとも有していないことは新吾にも分かりきっていた。

 だからこそ、新吾は最後の一歩を踏み出せずにいた。軽快過ぎるほど勝手に動いていた足も、今は鉛のように重い。

 すると、進退を迷う新吾に決断を急かすかのように一台の車のエンジン音が背後からお化けビルに近付きつつあった。

 初めはこちらまで来ないだろうと何となく決めつけていた新吾であったが、次第に近付き大きくなるエンジン音に、心臓が早鐘を打ち始めた。

 数多くある道の中から、わざわざお化けビルの横を選ぶ確率など殆んどゼロに等しいと頭の中で可能性を打ち消そうとしても、確実にその音は大きくなっていた。

 そして、新吾の位置から見える交差点が徐々に明るくなっていき、影が得体のしれない生き物のように巨大化していき、それと同時に新吾の体に緊張が走った。光は交差点を直進することなくゆっくりと新吾のいるお化けビルの方へと方向転換をし、音階を一段ずつ上るようなエンジン音と共に加速を始めた。

 瞬間、新吾は懐中電灯の灯りを消して、咄嗟にお化けビルの中へ飛び込んでいた。車は新吾に気が付くはずもなく、一定の駆動音を上げながら走り去っていった。

 新吾は駆け込んだ際に何かに躓いて転び、うつ伏せに倒れたまま車の音を聞いていた。

 短距離走を全力で走りきった後のような呼吸と心拍の乱れが落ち着く頃には、物音一つ立たない静けさが新吾を包んでいた。

――お化けビルの中、入っちゃったな……。

 不測の事態だったとはいえ、あれほど躊躇っていたビルの中にあっさりと入れたことにあっけなさを覚えながら、新吾は床に手を付いて、酷く緩慢な動作で起き上がった。

 手をついた床が非常に冷たく、その冷たさがぼんやりとしていた新吾の思考をはっきりと覚醒させた。

 目の慣れることがない暗闇の中で新吾は切っていた懐中電灯の灯りを点けると、その灯りに目を細めながら右から左へゆっくりと照らし、辺りの様子を探った。

 自分でも情けないくらいに手元が震えているのが分かるほど、丸い光がなかなか定まらなかった。

「お、おーい……」

 不安と恐怖に駆られ、新吾は誰ともなしに呼びかけた。

張り付くほどに乾いた喉から搾り出したその声は、とても小さく、木霊になることもなく暗闇に飲み込まれ消えてなくなる。

 進むのか、戻るのか。新吾は暗闇に平常心を狂わされないように目を閉じると、深呼吸を数回繰り返して気持ちを落ち着かせた。

 気持ちが落ち着いてくると、新吾は何故自分が今この場に立っているのか、その根本を思い返していた。

 そして自分の中で結論が出ると、新吾は目を開き、同時に懐中電灯の灯りで二階へ続く階段を探した。さほど苦労もなく階段を見つけると、迷わず階段へ向かって歩き出した。

 新吾の下した結論は、指切り様を“使う”ことだった。

 同世代の子供達のように畏怖の対象ではなく、前田のように救済を願うのでもなく、自分は指切り様のことを、自分に危害を加える者に罰を与えるための便利な道具として扱う。そう考えると指切り様に対する恐怖心は、全てを払拭しきれずとも確実に軽減され、ようやく新吾は先へ進むことができた。

 階段に近付くまでの先の見えない悪路に何度も転びそうになりながら、ようやく階段に辿り着くと、新吾は前回と同じように階段の手すりにしがみつくようにして一段一段しっかりと足場を確かめながら上がっていった。

 しかし、新吾はここでも思った以上に時間が掛かってしまった。

 しがみつくようにして昇っているために足元を照らすことができず、登ることに集中し過ぎた新吾は手すりを乗り越える直前に、頭に思い切り殴られたような強い衝撃を受けた。

 突然の鈍痛に、新吾は痛いと感じるよりも先に、何が起きたのか分からない恐怖に襲われ、階段の内側に体を投げ出すようにして足場を確保すると、衝撃のした方へ懐中電灯を向けた。

 照らし出されたのは一階の天井で、新吾はこれに頭をぶつけたのかとひとまずホッと胸を撫で下ろした。安心と同時に強かと打ち付けた部分が熱を持って痛み出し、新吾は階段に座ると、ぶつけた部分をしつこいくらいに手で撫でて、出血してはいないかと本気で心配をしたが、幸い出血はしていなかった。

 そして二階に上がる前のここまでの道のりで、指切り様のところまで行き着くことが困難なのだと、新吾は身をもって理解した。

 前回は前田の後ろについて歩くだけだったので気付かなかったが、暗闇の恐怖に負けて先を照らすと足元がおろそかになって蹴躓き転びそうになり、転ばないようにと足元を照らしていると暗闇から突然何か飛び出してくるのではないかと不安になり、どうしても牛歩になってしまう。

 悪戦苦闘を重ねながら、懐中電灯をこめかみの隣に持ち上げると視線と同じところを照らすことができると発見する頃には、新吾は三階の女子トイレの前に立っていた。

 三階は下の階と比べると、椅子などは廊下に出ていたが、それほど荒れた様子もなく、階段からトイレまで時間を掛けずに辿り着くことができた。これは度胸試しにお化けビルに入るだけが目的で、全てを回ろうとする人間が少ないからなのだろうと新吾は推察をした。

 それからもう一つ、不思議であり、そして心配なことが新吾にはあった。

 それは、前回訪れたときに起こった不思議な発光現象が起きていないことだった。

 あの超常現象が起こらないことが、指切り様の不在を告げているような気がして、ここまでの決心を徒労に終わらせたくないという願いを込めて、新吾は勢いよく女子トイレの扉を押し開いた。

 扉は錆び付いた音を立てながら、それでいて驚くほど軽く開き、開ききった扉が内側の壁にぶつかって大きな音を立てた。

 新吾は自分で立てた音に驚きながら、それだけではない自分の心音を自覚していた。血流が勢いを増して体中を駆け抜け、冷えていた新吾の顔は風呂上がりのように熱くなってクラクラしていた。

 トイレの中に入ると、新吾は空いている手で紅潮する自分の額を触りながら、懐中電灯で一番奥の扉の取手の辺りを照らした。

 キーッという弱々しい音が聞こえたと同時に、新吾は左肩に小さな衝撃を受けた。

 新吾は咄嗟に右側へ距離を取ると、またキーッという音が鳴り、音の鳴る方へ光を向けるとカタンという音と共に扉が一人でに閉まった。

 前回訪れたときにも扉を開いたままにしておきたかったが、どうしても扉が閉まってしまうことを思い出して、新吾は胸を撫で下ろし、再び指切り様の個室に光を向けた。

 角度が変わったことで入り口に立っていたときよりも奥の個室が照らし易くなり、新吾は扉に空いた穴を見つけることができた。

 新吾は少しホッとしながら扉に近付き、扉の目の前に立ち、いよいよだと思うと改めて緊張感が湧き、思わず唾を飲み込んだ。

 扉に空いた穴は近付いて見てもやはり小さく、新吾は自分の手が通るのか心配になりながら、前田に教えてもらった指切り様との儀式の手順を思い返していた。

 前回の一連の流れをしっかりと思い返すと、新吾は中腰になって、ゆっくりと穴の中に手を差し入れた。

 穴の大きさは新吾の手がやっと入る程度で、差し入れた扉の先を指先で探ってみたが触れるものもなく、新吾は虚空を掻いていた。

 扉の向こうに誰かがいる気配など微塵も感じられないが、新吾は肺に一息空気を送り込むと、ぎゅっと手を握り、そっと小指を立てた。

「指切り様、指切り様。指切りしましょう」

 新吾の儀式が始まった。

 新吾の発した言葉は室内に響き渡り、答えてくれる相手もなく虚しく消えていく。

 三十秒そして一分ほど、新吾はそのままの体勢で指切り様が応えてくれるのを待ち続けていた。

 しかし、更に待てども指切り様が指を絡めてくることはなく、新吾は前田のときはどのくらい待って指切り様が現れたのか、不安と焦りを感じながら思い出していた。

 ――前田のときは、こんなに時間が掛からなかったはずだ。それに、確か長居することも駄目だったよな……。

 新吾は自分の前に現れてくれない指切り様に苛立ちと落胆を覚えた。

 それでもあと一分だけ待ってみようと、新吾は心の中で数を数え始めた。それは一秒と一秒の間隔の長い、とても諦めの悪い数え方であったが、六十秒を数え終わっても指切り様が小指を絡ませてくることはなかった。

 新吾は自分と前田の何が違うのだと憤りを感じながらも、呪いをかけに来た自分に呪いがかかってしまっては本末転倒だと諦め、後ろ髪を引かれる思いで穴から手を引こうとした。

 その瞬間。新吾の手は何かに引っ掛かり、そして抜けなくなった。

 初めは扉の穴の刺か何かが服に刺さってしまったのかと新吾は思ったが、服の袖を空いた手で引っ張ってみると、袖は簡単にまくり上がり、袖が原因でないことが明らかになった。

 では一体何が引っ掛かっているのか。

 新吾は努めて冷静に、もう一度腕を引いた。そして引っ掛かりの原因が目の前の扉を隔てた先にあることを突き止めた途端、戦慄と歓喜が同時に湧き上がってきた。

 新吾の小指は今、指切り様と繋がっていた。

 絡められた指切り様の小指の感触は普通の人間のそれと差異はないが、決定的に違っていたのは体温だった。

 マネキンのような無機物とは違い、なまじ人肌と同じ分、温もりを全く感じられないという一点が、新吾に充分過ぎるほどの不気味さをもたらしていた。

 しかしながら、一度は諦めながらも降って湧いたこの機会を逃せるはずもなく、新吾は俄に興奮を覚えながら、儀式の次の段階に移った。

 ゆっくりと瞳を閉じて、頭頂部が扉に着くように寄り掛かったところで、新吾は自分が指切り様にどう伝えるべきなのかを考えていなかったことに気が付いた。

 前田の言葉からすると、契約に失敗すると小指を折られ、悪戯だと思われると呪いを受けてしまうこともあるらしく、新吾は乾いた唇を舐めると慎重に言葉を紡いでいった。

「今日、俺は、同じクラスの大野って奴に理不尽な暴力を振るわれました。今日だけじゃないんです! 暴力じゃないけど、昨日も、一週間前も、ずっと前だって! ずっと嫌な思いをさせられているんです! ……あいつが生きている限り、俺に平穏な生活は訪れないんです。だから……」

 あと一言。その一言に、新吾の中の最後の自制心が働いた。

 例えるなら、新吾は今、無防備に晒された大野の心臓に銃口を突き付けている状態にあり、あとは引き金を引くだった。

 しかし、いざとなると手は震え、指は固まり動かない。それは人間の命を奪うという、言い知れぬ恐怖によるものであり、至極当然のことだった。

 それでも、今の新吾には引き金から指を離すという選択肢は用意されていなかった。

 三階に上がったばかりの時とは正反対に、既に畏敬の念すら抱いている指切り様に、新吾自身、命を握られているかもしれないと思うと、もう後戻りはできなかった。

 自分の命と他人の命。天秤にかけるまでもなく、結果は決まりきっていた。

「……大野の存在を消して下さい」

 絡みつく自制の心を振り切って、新吾は遂に引き金を引いた。あとは指切り様に裁量を委ね、新吾はただ待つことしかできなかった。

 室内に、再び無音の時間が訪れた。

 指切り様はすぐに決断することはなく、新吾は自分の手順が間違っていたのではないかと危惧したが、依然として小指は結ばれたままだったので、揺れる心をしっかりと抑えて、新吾は改めて指切り様の決断を待った。

 ――ゆーびきり、げんまん。

どこからともなく幼い少女のあどけない歌声が聞こえてきた。

 ――やった!

 新吾の心は高鳴った。

場の雰囲気に似つかわしくないこの歌声が指切り様のものであると分かっていたので、扉の向こうで絡められた小指をゆっくりと上下に揺られながら、新吾は一種の達成感の中で安心して歌に聞き入っていた。

 しかし、事態は突如急変した。

 指切り様の小指に信じられないほどの力が加わり、新吾の指はきつく締め上げられた。

 新吾は驚き、即座に穴から手を抜こうと試みたが、本当に小指同士で繋がっているのかと疑いたくなるほどの力でしっかりと繋ぎ止められていて、それは適わなかった。

 更に、ゆっくりとしていた上下運動も激しい揺さ振りへと変化し、新吾の手首は穴の淵に繰り返し打ち付けられた。

 手を抜くことができないのであれば、少しでも痛みを和らげようと、新吾は懐中電灯を床に落とし、自由になった手で手首を精一杯抑えつけた。これにより、打ち付けられる行為事態を止められはしないものの、衝撃を幾分抑えることができた。しかし、新吾の持てる腕力を総動員してやっとのことだったので、長く保たせることはとても困難だった。

 聞き慣れた調子よりも少し遅い、間延びした歌声が新少しでも早く終わることだけを願い、新吾はこの拷問のような時間を耐えていた。

 ――うそつーいたら、はーりせんぼん、のーます、ゆーびきった。

 歌が終わると指切り様の小指もすっと消え去り、今の出来事がまるで嘘のように辺りは静けさを取り戻し、新吾の乱れた呼吸と手首や小指の痛みが今起きたことの余韻のように残っていた。

 呼吸と痛みが少し落ち着いてくると、新吾はゆっくりと穴から手を抜き、疲労と安堵からその場に崩れるように座り込んだ。

 電源の入ったままの懐中電灯が床のタイルを浮かび上がらせながら足元に転がっている。

 ――儀式は……、成功したのか?

 ぼんやりと足元の光を見つめながら、新吾はまだ整理のつかない頭を働かせ、状況の把握に努めた。

 ――前田の儀式とは確実に違っていた。手順は間違っていなかったはずだ……。現に、歌はちゃんと聞こえていたし、指だって結んた。

 新吾は鉛のように重たい体を動かして、足元に転がる懐中電灯を拾い上げると、指切り様と繋がっていた小指を照らした。

 暗闇の中に小指がはっきりと浮かび上がった瞬間、新吾は思わず息を飲んだ。

 絡めていた小指の付け根には、くっきりと指の痕が残り、あれが紛れもない現実であることを物語っていた。

 小指を見ていた目の端に、真っ赤に染まった自分の手首が映り込み、新吾は慌てて光を患部に向ける。生まれてから一度も経験したことのない出血量に、新吾は一瞬意識を失いそうになったが、目を逸らすことでなんとか持ち堪えた。

 認識するまでは痛みなど感じていなかった手首が今は小指よりもずっと痛む。

 新吾は怪我をした手を庇いながら立ち上がると、懐中電灯を握り締め、逃げるように女子トイレを後にした。

 新吾は今までに感じたことのない、強烈な恐怖の圧力に背中を押されるようにして廊下を走った。

 足を止めれば背中を押す恐怖が今度は自分を飲み込むのではないだろうか。そんな恐怖からの脱出だけを切望し、新吾は出口を求めて足を前へ前へと動かしていた。

 最初と最後の難関である一階の階段を降りる際も、床に伸ばした足を魑魅魍魎が掴み、そのまま闇の中へと引き摺り込むのではないだろうかと、悪い想像ばかりが逞しく働く。つま先が一階の床に触れると、新吾は少しだけ安心して、固い床をしっかりと踏みしめて階段から身を離した。

 新吾は素早く出口を見つけると、最初の一歩を躓いたものの、やっとの思いで建物の外へ飛び出した。

 建物の外に出ると、止まっていた時間が動き出したかのように目の前の暗闇からススキの擦れ合う音が聞こえていた。

 新吾は持久走を走り終えた後のようにその場で膝に手をついて、どっと内から溢れ出る疲れを実感していた。

 新吾は体の中の空気を全て入れ替えるつもりで体を反らせて大きく息を吸い込み、そして吐き出した。

 冷えた空気が鼻の穴を通り抜け、土と草の匂い、そして少しだけツンとする冷たい空気が、今まで恐怖という靄のかかった新吾の思考をすっきりとさせる。

 新吾は振り返ると、お化けビルを見上げた。

 一陣の風が新吾の脇を吹き抜け、鬱蒼と茂るススキが一斉に葉鳴りを始める。

 風が止むと葉鳴りの音も新吾から遠ざかるようにして静まり、新吾はただ暗闇に佇んでいた。そして、その顔には笑みが浮かんでいた。

 ――これほどの達成感を感じたのはいつ以来だろう? 去年の運動会で自分の組が優勝した以来だろうか? それとも、一昨年の学年合唱コンクールをやり遂げた以来だろうか?

 新吾は炭酸水の気泡のように次から次に沸々と生まれ出る達成感に胸が満たされていた。

 今では手首と小指の痛みでさえも全てをやり遂げた勲章のように思えて、甘美な痛みへと変貌していた。

 新吾はお化けビルを見上げたままゆっくりと出口へ向かって歩き始めた。

 壁を手でなぞりながら歩き、やがてそれも二つ目の角に辿り着くことで終わりを迎える。

 遊園地の閉園を名残惜しむような不思議な気持ちを抱きながら、新吾は格子の間を潜り抜けると、もうお化けビルを振り返ることなく家に向かって歩きだした。

 その足取りはとても軽やかで、自然と早足になり、自分でも気付かないうちに新吾は駆け足になっていた。

 新吾の心は既にお化けビルの出来事から離れ、明日の大野の命運へと移ろい、今は指切り様が願いを叶えてくれるという期待がその背中を押していた。

 自宅近くまでやってくると、新吾は呼吸を整えるために小さな公園に入った。

 公園と呼ぶ割には遊具の一つもなく、空き地という表現の方がしっくりいきそうだと新吾は思っていたが、入口の看板にはしっかりと公園と書かれていた。遊具がないので休日は親子が仲良くキャッチボールをする光景がよく見受けられる。

 そんな何もない公園の唯一の長所となっているのが、水飲み場が設置されていることだった。

 新吾は街灯に照らし出された水飲み場で、すっかり乾燥してこびり付いた血を、冷たさと傷に染みることを我慢しながら丁寧に洗い流した。

 幸いにも傷はそれほど深くなく、傷が何箇所にも付いたために大量に出血したように見えただけであった。それを大袈裟に勘違いした上に失神しそうになった自分を新吾は小さく笑った。

 新吾は蛇口を締めると、傷に配慮しながら水滴を振り払い、払いきれない水滴は服で拭き取った。

 傷のない方の手だけをズボンのポケットに突っ込み、公園を後にして新吾はまた自宅へと歩き始めた。

 ほどなくして自宅の玄関前に辿り着くと、新吾はドアノブに手をかけたまま、一つ大きく深呼吸をして扉を開いた。

「ただいま……」

 信子の声は返って来なかったが、奥の居間の方からテレビの音が微かに漏れ聞こえていたので、きっと居間か台所に居るのだろうと想像ができた。

 靴を脱いで家に上がると、新吾は仮病に不自然さが出ないように倦怠感を演じながら居間の襖を開いた。

「あ、お帰りなさい。塾から早退したって電話があったから心配してたのよ?」

 テレビを観ていた信子が襖が開いた瞬間にはっと顔を上げ、新吾の顔を見た途端に心配の色が顔一杯に広がっていった。

「あ……、うん。何か気分悪くなっちゃって」

「そうね。確かに、かなり顔色が悪いわね。ご飯どうする? 少しでも食べた方が良いと思うけど、辛いならお粥でも作ろうか?」

「普通で良いよ。食べられるだけ食べるから。荷物、部屋に置いてくる」

 新吾が部屋に向かうと、その後を信子がついて歩き、新吾は自分の部屋へ、信子は台所へと別れた。

 新吾は部屋に荷物を置き、トイレで用を足して手を洗いながら洗面台の鏡で初めて自分の顔を確認し、少なからず驚きを覚えた。

 そこに写っていたのは、今までに一度も見たことのないほどに尽瘁しきった自分の顔であり、そして何よりも驚きを覚えたのは疲れた顔には似つかわしくない、爛々とした瞳が写し出されていたことだった。

 家に着くまでに自分が体調不良なのだと言い聞かせていなければ、きっと今頃は信子に不信がられていたことだろうと思い、新吾は深く安堵した。

 それから新吾は晩ご飯もそこそこに、風呂にも入らずに床に就いた。前田が呪いをかけた日と同様に興奮状態からなかなか寝付くことができず、寝返りを何度もうち、繰り返し窓の外に目をやり、朝を待ち続けた。

 やがて新聞配達の原付が静寂の中で際立つエンジン音を響かせながら仕事をこなし、鳥達が囀りを始め、東の空が白み始めた頃に台所から信子と祥悟の足音が聞こえ、町は朝を迎えた。

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