第四章 2

 山口の通夜や、彼が不在の運動会が瞬く間に過ぎ去り、本格的な秋の到来と共に校内の指切り様の熱も幾分か冷まされていた。

 そして、新吾の危惧していた指切り様を使っての報復行為は今のところ発生していない。

 事件後すぐに、大野達がお化けビルに潜入したという話が耳に入ったときは、正直なところ気が気ではなかったが、その翌日に穴は見つけたが空振りに終わったと騒ぐ大野達の姿を見て、新吾は胸を撫で下ろした。

 それと同時に、なぜ自分達のときに指切り様が現れたのか、と疑問が頭に浮かんだ。

 しかし、それは些細な問題でしかなかった。むしろ指切り様が大野の前に現れなかったことで、指切り様は自分達の味方をしてくれているような気がして、悪くない気分だった。

 この頃には指切り様のところへ行ったのは前田であるという憶測が校内の一致した意見になっていた。

 しかし前田を直接糾弾しようにも自分達が足を踏み入れることのできないお化けビルに本当に前田が入ることができるのだとしたら、前田の機嫌を損ねるようなことをすれば、その背後にある指切り様の存在がちらつき、それが彼らにとって前田に手を出せない大きな障害になっていた。

 加えて前田の犯人説はあくまでも一番有力な説でしかなかったので、共通認識があったとしても校内では信頼の置ける友達以外とは交流をしようとしない、閉鎖的な雰囲気が事件後から蔓延していた。

 そして、本来であれば疑心暗鬼になっている生徒達をせせら笑う立場にいるはずの新吾もまた、日々不満を募らせる側の一人になっていた。

 その原因は、前田に由来していた。

 前田は誰も自分に近付こうとしない状況を自分の勝利としているらしく、その態度の増長は著しいものだった。

 前田はクラスメートを見下すだけでは足らず、新吾に対しても今まで以上に横柄な態度で接するようになっていた。

 付け上がっているだけの前田を相手にして、いちいち声を荒らげることすら馬鹿馬鹿しいと新吾が適当にあしらっていても、それが毎日のように続くと消化しきれない苛立ちが心の中に堆積していくようになっていた。

 いつしか校内は、前田という溶岩を内包した抜け出すことのできない檻となり、その存在を疎ましく思いながらも、触ることもできず、かといって無視のできない熱気が学校中の生徒の体力を奪い、疲弊させ、誰もが不満の捌け口を探し求めていた。

 だからこそ新吾に降りかかった火の粉はいつ燃え上がってもおかしくない、燻り続けていた苛立ちの炎の一片だったのだ。


「おい、佐竹」

 帰りの会が終わり、新吾が通学鞄に教科書を詰めていると、大野が腕組みをしながら近付いてきた。

 新吾と同じように帰りの仕度をしていた他の生徒達も手を止め、何か一体感のある目で、大野と新吾に視線を注いでいた。

 大野がすぐ傍までやってくると、座っていた新吾は自然と大野を見上げるかたちになり、今更恐怖心を抱くことはなかったが、やはり小学生にしては似つかわしくない迫力が大野にはあると新吾は密かに再認していた。

「お前、前田と一緒に歩いてたことあるだろ?」

 「いつの話だ?」という疑問が真っ先に浮かんだが、新吾がその疑問を口にすることはなかった。

 大野はそんな新吾の無視にも慣れた様子で、気にせず話を続けた。

「山口が死んだ前日の夜に、お前と前田の二人が学校近くを歩いているのを見たって情報が入ったんだよ」

 大野は新吾の机に片手を乗せ、身を乗り出して新吾を見下ろした。

 それはまるでドラマの中に出てくる刑事が犯人を問い詰める場面のようだった。あるいは大野自身もその役になりきっているつもりだったのかもしれない。

 しかし今の新吾には、それを笑ってやる余裕など有りはしなかった。

 誰かに見られていたということに動揺し、新吾は返す言葉も無く、沈黙を選ぶことしかできなかった。

「運動会でお前らのことを見かけてピンときたって。風の強い夜だったから、よく覚えてたらしいぜ」

 いつの間にか新吾の席の周りに大野の仲間が集まり、新吾の逃げ道を塞ぐように取り囲んでいた。

 新吾は情報の発信源を探ろうと、大野達の間から教室の様子を窺った。

 すると、この話は既に教室中に広まっているらしく、夕日の差し込む教室から誰一人出ようとはせず、いくつかの集団を作りながら、新吾達の動向を無言でじっと見つめていた。

「何とか言えよ」

 沈黙を続ける新吾に痺れを切らした大野が、低く唸るように声を出す。それに追従するように、周りを囲んでいた大野の仲間が新吾の机の足や椅子の足を蹴りながら口々に汚い言葉を新吾に浴びせた。

 ――何もしてないのに何で俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。

「お化けビルに行ったんだろ、人殺し!」

 ――俺はついて行っただけだ! 呪いをかけたのは前田だぞ!

「白状しろよ、殺人犯!」

 ――俺は何もしてない! 殺したのは前田だ!

 いつしか、見ていただけのクラスメートにも新吾の糾弾が伝播し、教室全体が新吾一人を責めていた。新吾一人を吊るし上げることで、誰もが今まで抱えていた鬱憤を吐き出そうとしていた。

 新吾が関わっているという確証を得ないまま罵詈雑言の飛び交う教室は、弱い心の坩堝と化していた。

 騒ぎが収まる気配はなく、別のクラスの生徒も新吾の教室の異常な熱気に気が付き、好奇の目を持って覗く姿が一人二人と増えていった。

 新吾はきつく目を閉じ、浴びせられる罵声に耳を塞ぎながら、心の中で否定し続けた。

 新吾が堪え続けていると、次第に新吾を責める声は小さくなっていき、とうとう誰も口を開かなくなり、教室は沈黙に包まれた。

 新吾がゆっくりと目を開けて、髪の隙間から辺りを窺うと、誰もが新吾を見下ろし、どこか気落ちした表情を浮かべていた。

「……何だよ。お前、本当に関係無いのかよ?」

 大野は特にがっかりした様子で、既に新吾への興味も薄れている様子だった。

 勝手な期待をしておいて、欲しかった結果が得られなかったことに落胆するクラスメートに文句の一つでも言ってやりたかったが、このまま無言を貫き、何とかこの場をやり過ごすことだけを考え、下唇を強く噛んで、溢れそうな言葉を飲み込んだ。

 いつまでも反応を見せない新吾に興味を失った生徒から一人、また一人と教室を出ていき、赤に染まった教室はようやく平常の姿を取り戻し始めた。

 新吾の席を囲んでいた大野達もそれぞれ自分の席に引き上げ、通学鞄を背負い、まるで何事もなかったかのように放課後の過ごし方を楽しそうに話し合っている。

 新吾は過ぎ去った嵐の露を払うように溜め息を吐き出すと、通学鞄に右腕だけを通して教室を出た。

 西日は廊下まで届かず、既に廊下の蛍光灯には電源が入れられていた。秋の日は釣瓶落としとはよく言ったもので、あと一時間もすれば、とっぷりと日が暮れてしまうほどに季節は狂いなく移り変わっていた。

 こんな日は帰ったらすぐに寝てしまおうと考えたが、塾の授業があったことを思い出し、全てが思い通りにいかない苛立ちを視線に込めて、新吾は夕暮れの北西の空を睨んだ。

 空を見上げた新吾の背後から騒がしい足音と声を上げて、数人の男子生徒がすぐ脇を駆け抜けていった。

 放課後の開放感を纏いながら走り去る後ろ姿を新吾が煩わしく思いながら見送っていると、突然背中に衝撃を受け、つんのめるようにして新吾は正面から廊下に倒れた。

 何が起こったのか理解できなかったが、新吾は咄嗟に手を出し、顔を打つことは免れたものの、膝を打ち、手はジンジンと痺れていた。

「ってぇ……」

 新吾が四つん這いの状態で痛みに顔を顰めていると、ボロボロの上履きが視界に入り、誰かがすぐ傍で立ち止まった。

「根性無しが」

 上履きの持ち主の正体を目視で確認するよりも先に、新吾は声で人物の特定をすることができた。

 立っていたのは、大野だった。

「いつもは偉そうな態度で俺達のことを見下しているくせに、いざとなったら何も言い返すこともできない腰抜けだったんだな!」

 理由は分からないが大野の言葉には怒気が含まれていて、言い終わると同時に大野は新吾の鞄を思い切り蹴り飛ばした。

 四つん這いの状態の新吾は避けることもできずに成す術もなく、今度は廊下に横倒しになった。

 廊下にいた生徒達も、初めは大野が新吾にちょっかいを出しているだけだと気にかけていなかったが、事態の大きさに気が付き、足を止めて騒然としている。

 新吾は大野の雰囲気に圧倒され、横になったまま起き上がる機会を失っていた。

「悪かったな! お前みたいな腰抜けには、お化けビルに入る度胸なんてあるわけないよな!」

 大野は、その場に残っていた誰にも聞こえるように新吾を小馬鹿にして、嫌な笑みを新吾に向けていた。

「今後は調子に乗るんじゃねぇぞ、この腰抜け野郎」

 去り際、新吾だけに聞こえるように捨て台詞を吐くと、大野は階段へ向かって歩き出した。

 遠ざかる大野の背中を見つめながら、新吾はようやく体を起こした。

 立ち上がりながら、まだ少し痺れる手で膝に付いた埃を払っていると、先程抑えた怒りや、この事態の元凶である前田への不満、ひいてはこの地に来たことへの不満が大きなうねりとなって心から溢れ出し、新吾は自分でも気が付かないうちに雄叫びを上げて床を蹴っていた。

 迫る雄叫びに気付き振り返る大野に向かって、新吾は着地を考えずに飛びかかった。

 学年でも屈指の体格を持つ大野であっても、不意打ちでは同級生を受け止めることはできず、二人は廊下へ倒れ込んだ。

 派手に転んだ割に新吾はそれほど衝撃を感じていなかった。かわりに大野の方はどこかを痛めた様子で、珍しく苦痛に顔を歪ませていた。

 新吾は思い出したように大野の体に跨り、襟を掴むと悶絶する大野の顔自分の顔の近くに無理矢理に引き寄せた。

「じゃあ今度は、俺がお前のことを呪ってやるよ」

 新吾は大野の目を見ながら大野だけに聞こえるように囁くと、ゆっくりと掴んでいた手を離し、立ち上がった。

 その間も新吾は目線を外すことはなく、大野の表情を観察し続けた。

 大野は初め、新吾が何を言っているのか理解できていない様子だったが、言葉の意味が脳に浸透し、作用が始まると、大野は体の痛みを忘れて大きく目を見開き、新吾の瞳を見つめ返した。

 それほど長くない時間、二人は視線を交わしていた。

 残っていた生徒達には先ほどの新吾の言葉は聞こえておらず、突然の膠着状態に教師の助けを乞うべきか戸惑っていた。

 そこへ大野が後から来ないことに待ちくたびれた仲間達が戻り、大野が倒されているという尋常ではない光景を目の当たりにし、只事ではないとすぐに両者の間に割って入った。

 新吾は大野と引き離され、仲間の数人に激しく問い詰められていたが、全てを無視して大野から視線を外すことはなかった。

 大野の方も驚いているのか怯えているのか、それでも仲間の前では無様に取り乱すことをせず、無理矢理に引きつった笑みを作って新吾を見ていた。

 大野は早々にこの場から立ち去りたいらしく、新吾に手を出そうとしている仲間に声を掛けると、階段へ向かって歩き始めた。

「俺を馬鹿にしたこと、後悔させてやる!」

 新吾は去りゆく大野の背中に向かって追い打ちをかけた。

 大野の仲間達には、教室での負け惜しみを言っているようにしか聞こえていないようだったが、大野当人には本当の意味が正しく伝わっていた。

「やってみろよ!」

 言い返した大野の声は僅かに震え、いつもの迫力は備わっていなかった。

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