第三章 6
翌日、新吾は窓枠の揺れる音で目が覚めた。
昨晩から突然吹き始めた強風は夜中の内に新吾の住む地域全体に暴風警報を発令させ、一夜明けても勢力の衰えをみせなかった。
ベッドを抜け出し、窓から外の様子を窺うと、新吾が押してもびくともしないような大きな木が、強風によって左右に激しく揺さぶられていた。
昨晩の帰りが遅かったことは、塾の問題がどうしても納得がいかなかったと説明をすると、信子はそれほど深く追求しなかった。
揺れる木を眺めながら、新吾は昨日の出来事を思い返していた。
時間を置いて、冷静に昨晩のことを振り返ってみると、信じられないようなことの連続に自分の体験した不思議な現象が本当に起こったのか、自信を持てなくなっていた。
事前に前田がビルの中に細工をしておいて、新吾が恐怖する姿を面白がっていたのではないか。そんな風にも疑い始めていた。
着替えを済ませて居間に行くと、既に朝食の準備が整っていた。 新吾が定位置に座ると、信子がお盆にお茶を載せて運んできた。
「おはよう。風、すごいわね」
信子は自分と新吾の前に湯飲みを置くと、お茶に口をつけながら、ガタガタと音を立てながら揺れる窓に目を向けていた。
「ああ」
新吾はテレビを見つめたまま、適当に相槌を打ちながら箸を進めていた。
「風が強いから、気を付けて学校に行ってね」
「気を付けてって、何に気を付けるんだよ」
相変わらずの子供扱いに、新吾はうんざりしていた。
「風で転んだりしないでねって、言ってるの」
「子供じゃないんだから、そんなので転ぶかよ」
信子は、新吾が突然噛み付いてきたことに少し驚いたようだったが、さして相手にしていなかった。そんな信子の態度に新吾は苛立ちを募らせた。
その後、言葉を交わすことなく新吾は家を出た。
登校中に何度か風に煽られて転びそうになったが、新吾は意地で耐えながら何とか学校へ到着することができた。
下駄箱では登校した生徒の誰もが秋の嵐をどこか楽しんでいるような面持ちをしていた。
「この程度で騒ぐなよ。……子供だな」
ポツリと呟き、上履きに履き替えた新吾は教室に向かった。
校舎内にいても猛烈な風が昇降口から吹き込み、掲示物のプリントが画鋲だけでは抑えきれずに破れ飛んでいた。
床に落ちたプリントを踏まないように避けながら階段に近付いたところで、新吾は前田の姿を見つけた。
前田は、じっと昇降口の一点を見つめ、その目は何かを待ち構えているようだった。
新吾が声を掛けようか迷っていると、前田の目が何かを見つけ、大きく見開かれた。
何を見ているのだろうと新吾も視線の先を追って昇降口を見ると、そこには友人数人と登校する山口の姿があった。
特に変わったところの見当たらない山口の姿を見て、やはり昨日前田に一杯食わされたのだと思い、新吾は頭に血が上った。あれだけ大掛かりな仕掛けまでして、怯える自分を内心笑っていたのかと思うと、とても我慢できなかった。
文句を言ってやろうと新吾が近付くよりも早く前田は踵を返し、声を掛ける間もなく階段を駆け上がって行ってしまった。
呆然と階段を見上げる新吾の脇を、山口の集団が通過していく。
変わる気がしていた日常が、やはり不変でしかないのだと現実を突きつけられたような気がして、新吾は落胆した。
本当はもう今日の授業を受ける気分ではなかったけれど、吹き込んできた強風に背中を押され、新吾は仕方なしに階段に足を掛けた。
限度を知らない強風のせいで、昼休み明けの午後の体育は校庭での運動会の練習が中止になり、体育館でのドッジボールに授業内容が変更になった。
新吾は初めから外野にいて、最後まで内側に入ることなく、白熱するクラスメートの姿を一歩引いた位置から眺めて、ただ怠慢に時間を費やしていた。
昼休みに入っても、新吾は前田と話すことができなかった。
新吾は三日振りに秘密の場所を訪ねてみたが、そこに前田の姿はなく、昼休みが終わっても前田は姿を現さなかった。
話したいことや聞きたいことが沢山あったが、姿を見せないことが益々新吾の前田に対する猜疑心を大きくさせていった。
新吾は自分に向かって飛んできた球を胸で抱えるように捕球すると、前田への鬱憤を晴らすかのように力一杯投げ返した。
結局、放課後になっても新吾は前田に会うことができなかった。
帰りがけに前田の教室を覗いたけれど、山口が仲間と変わらず話をしている姿を目撃した。それを見る限りでは、山口はとても死にそうになかった。
山口に死んでほしいわけではなかったが、一時的にでも前田を信じた自分のためには、彼の生存は面白くなかった。
下校時刻になっても強風は止まなかった。
登校時に騒いでいた生徒も一日中吹き続いた風にいい加減うんざりした様子だった。
どんぐり公園の横を歩いていると、風によって折れた太い枝が道路を塞ぐように転がっていた。
自然の力に驚嘆しながらも、枝を踏み越え、梢を踏み折り、新吾は帰路をとぼとぼと歩いた。
家に着くと玄関は施錠されていて、信子の気配は無かった。新吾は持っていた鍵を使って家の中に入ると、ただいまも言わず、真っ直ぐに自分の部屋へ向かった。
新吾は部屋の中に入ると、通学鞄を机に放り投げ、自分はベッドへと倒れ込んだ。最近は嫌なことがあると眠って気持ちを落ち着かせることが癖になり始めていた。
新吾はそのまま眠りに就き、その眠りの中で夢を見た。
夢の中で新吾はお化けビルの中にいて、例の不思議な発光の中に一人立っていた。目の前には二つの扉があり、新吾はすぐに指切り様のいたトイレだと理解した。
すると、片方の扉がゆっくりと音も無く開き始めた。
新吾は全身が強ばり、息が詰まった。その場から逃げ出したいのに、足は石のように固まって動かせなかった。辛うじて首から上が動かせたけれど、扉から目が離せず、ただガチガチと歯を震わせていた。
やがて扉が全て開くと、ぽっかりと穴の空いたような真っ暗な空間が目に映った。
――ひた、ひた。
そして暗闇の中から、新吾の予想していた通り、忘れられないあの足音が聞こえ、確実に新吾の方へ近付いてきていた。
足は相変わらず微動だにせず、声も出せない。新吾は目を逸らそうとしているのに、どういうわけか未知を内包した暗闇に視線が固定されて離れない。
新吾が必死に抵抗する中、近付いていた足音が不意に聞こえなくなった。
新吾は戦慄を覚えながら、次に何が起こるのか、受け身でしかいられないことがもどかしかった。
すると漆黒の穴の中から白く細い棒が、すっと床に伸び、触れる先を確かめるように静かに降り立った。
新吾は初め、それは指切り様の足だと思っていた。しかし、もう一本同じような白い棒が伸びて、少しだけ新吾に近付いたときに、それが足ではなく腕であることに気が付いた。
新吾に近付く何かは白く細い腕を交互に前に出しながら、ゆっくりゆっくり、その全貌を明らかにしていく。
ぱさぱさと乾いた音と共に、頭が床を舐めるようにして低い位置から現れた。髪が長く、這った体勢では床に広がり、だらしなく引きずられている。
まだ一度も見たことはないが、新吾はこれが指切り様だと直感的に理解した。
指切り様は、伸ばした手の先の感触を確かめるように床を撫でながら、新吾のすぐ傍まで接近していた。
新吾はこれが夢であるということが分かっていた。時折、夢が夢であると認識できることがあったが、今見ている光景も感覚がそれらと酷似していた。
新吾が状況の分析をしていると、いつの間にか視点が大きく変わっていた。見下ろしていた指切り様の姿が消え、目の前には微かに発光する黄緑色が広がっていた。
一瞬のことに理解が追い付かず、指切り様を見失ったことで、新吾は大いに混乱した。
唯一動かせるようになった首を精一杯動かして、足元に蠢く指切り様の姿を見つけたときに、新吾は自分が床に寝そべっているのだと理解した。
新吾は早くこの悪夢から覚めたくて、何とか体を動かそうと格闘していると、土をつつくミミズのような動きをしていた指切り様の指が新吾のつま先に触れた。
その瞬間、感覚が無かったはずのつま先から、恐怖、嫌悪、不快、沢山の負の感情が新吾の体を駆け上がり、思考は鈍り、全身が総毛立った。
振り払おうにも相変わらず体が言うことを聞かず、指切り様は新吾の脛を掴み、太腿を掴み、次第に新吾の体に覆い被さろうとしていた。
新吾はただこの悪夢から一刻も早く目覚めることだけを願い、固く目を瞑り、習ったこともない念仏を唱え始めた。
瞳を閉じて自ら作り出した暗闇の中で、新吾は這い登る指切り様の存在をより鋭敏に感じることとなった。
腰、腹部、胸と、徐々に指切り様の掴む位置が上がっていき、遂に肩に手が掛けられた。
両肩に手を置かれたところで指切り様の動きが止まり、不気味な無音に包まれた。
息づかいが聞こえず、微動だにしない指切り様に、新吾は念仏が効果を発揮したのではないかとも思ったが、肩に置かれた手の感触が淡い期待を打ち砕いた。
戦慄の沈黙が一秒、また一秒と過ぎていく中で、新吾は現状を打開すべく、意を決し、指切り様を見ることにした。
目を開けたところで動けなければ何も変わらないと思えたが、精神の削られる緊張感の中で何かせずにはいられなかった。
さすがに正面からいきなり指切り様の顔を見るのは怖かったので、新吾は首を少し左下に背けて、恐る恐る右の瞼を薄く開いた。
新吾の目に映ったのは、指切り様の首から下の胴体だった。
指切り様はテレビで幽霊を表現するときによく見かける白のワンピースを着ていた。
新吾が少しずつ視線を上げていくと、腰まで伸びた長い髪の黒がその密度を増していく。やたらと骨張った細い首を通り過ぎて、垂れ下がる髪の奥から、うっすらと顎の輪郭が浮かんで見えた。
新吾は一度そこで視線を止め、目を閉じた。そのままの流れで指切り様の顔を見るほどの覚悟が新吾にはまだ無かった。
逡巡の後、悪夢から抜け出す方法が分からない以上、小説のページを捲るように何かしらの行動を起して新たな進展を生み出すより他に道は無かった。
念仏を心の中で唱えながら、新吾は先ほどと同じように右目を薄く開いた。
相変わらず指切り様は微動だにせず、マネキンのような無機物感が不気味さに拍車をかけていた。
新吾は覚悟を決め、徐々に右の瞼を開いていき、時間をかけて遂に指切り様の顔全体を視界に捕えた。そして右の瞼が開ききると同時に新吾は左目も大きく見開いた。
新吾の目に映った指切り様の顔には表情が無かった。表情という表現にも語弊が生じる。正確には顔そのものが存在しなかった。
長い髪に隠されているのではなく、目も鼻も口も存在せず、その代わりに吸い込まれるような漆黒が仮面のように据えられていた。
夢の中とはいえ、想像を絶する光景に新吾は大きな衝撃を受け、驚きのあまり固まっていると不意に肩を掴んだ指切り様が新吾の体を前後に揺さぶり始めた。
新吾はされるがままに揺さぶられ続け、視界が上下に激しく揺れて、段々と水平が分からなくなり始めた。
――止めろ!
その一言が声に出せず、益々揺さぶりは激しくなっていく。
抵抗しようとしても体が動かず、指切り様が何をしたいのか分からない恐怖が新吾の精神を削り取っていく。
――助けて……。
終わらない夢の中で遂に新吾は抵抗する心を無くし、指切り様に対して許しを請い求めた。しかし指切り様は手を止めず、新吾を待っていたのは無力感に由来する絶望だけだった。
新吾はただ漠然と視点の落ち着かない天井を見つめ、それにも疲れたところで、そっと目を閉じた。
この悪夢は永遠に続くのだと、新吾は全てを諦めた。
「新吾!」
突然、自分の名前を呼ぶ聞きなれた声が聞こえ、新吾は目を開いた。
すぐ目の前に信子の顔があり、酷く何かに怯えているような顔をして、夢の中の指切り様と同じように横たわる新吾の肩を掴んでいた。信子は新吾と目が合うと、覆い被さるようにして新吾を抱きしめた。
まだ夢から覚醒しきらない新吾は抱きしめられて伝わる母の鼓動がとても早くなっていることと、自分の心拍も母に負けないくらい早く打っていることに気が付いた。
新吾は信子の肩越しに、すっかり暗くなった見慣れた天井を見上げて、落ち着いていく母の心音に聞き入っていた。
母の心臓の音、匂い、温もり、それらに触れることで、新吾は悪夢から抜け出し、現実世界に帰ってきたのだと実感していた。
「……怖い夢でも見てたの?」
信子の声には、労りや慈しみ、そして安堵が含まれていた。
「……別に」
「本当に? 酷くうなされていたわよ」
信子は既に調子を取り戻し、新吾をからかうような口調になっていた。
「夢のことだから、覚えてないよ」
それよりも早くどいてと、新吾が起き上がる仕草をみせると、それに気付いた信子が新吾の体から離れた。
新吾も体を起こし立ち上がろうとしたけれど、腕に力が入らず、上半身を起こすのがやっとだった。
酷く寝汗をかいていて、張り付いた服を不快に感じ、新吾が襟を摘んで風を送っていると、視界の端に何か困ったような表情を浮かべている信子の姿があった。
「どうかしたの?」
「うん……。あのね……」
信子にしては、珍しく歯切れが悪かった。
信子は感情が態度に出やすく、嘘をつくことが下手で、こういった雰囲気のときは何か良くないことを伝えられると過去の経験から知っていたので、新吾は少しだけ心を引き締めた。
信子は一つ深呼吸をしてから、ベッドに腰掛ける新吾と向き合った。
「新吾はさ……。山口君って、お友達?」
信子は一つ一つ慎重に言葉を選びながら、重い口調で話し始めた。
「……山口は知ってるけど、別に友達ってわけじゃないよ。クラスも違うし……」
新吾は単純に、信子の口から山口の名前が挙がったことに驚いた。
「そうなの……。それでね、その山口君がね……」
信子の言葉が詰まる。胸に抱えた問題をどう伝えれば良いのか分からずに困っている様子だった。
しかし、新吾にはもう信子が何を話すのか分かっていた。二人の間の沈黙が長く続けば続くほど、新吾は自分の考えが肯定されている気がして、治まったはずの鼓動が再び早くなる。
信子は新吾から顔を逸らし、大きな溜め息を一つ吐くと、再び新吾を真っ直ぐに見据えて静かに口を開いた。
「落ち着いて聞いて欲しいんだけどね……」
自分の心臓の音がうるさく、か細い信子の声が聞き取り辛くなっていて、新吾は信子の僅かに届く声から伝わる雰囲気に無言で頷き、信子も小さく頷き返して言葉を続けた。
「その山口君がね、下校途中に事故に遭って、……亡くなったそうなの」
――亡くなった? 亡くなったって、死んだってことだよな?
新吾の最悪の考えは当たっていた。
その後、信子が何か話し掛けていたけれど、新吾は指切り様のことや前田のこと、そして関わった自分のこれからのことなどが次々に頭に浮かんできて思考を圧迫し、信子の声など全く耳に入らなかった。
「……落ち着いたら、ご飯食べに来なさいね」
信子は言葉を失った新吾に一言だけ声を掛けると、静かに部屋から出て行った。
残された新吾は膝を抱え、肩を震わせていた。
――前田は、もうこの話を聞いたのだろうか?
新吾は今すぐ前田と話がしたかった。しかし、電話番号は聞いていなかったし、前田の住所も知らなかった。
新吾は机の上に置いた目覚まし時計を見た。まだ七時を少し回ったところで、前田に会うには最低でも十二時間以上の時間を待たなくてはならなかった。
新吾は膝を抱えたままベッドに寝転び、窓の外をぼんやりと眺めた。
夜空には息を飲むほど美しい三日月が浮かび、その周りには幾つもの星がきらきらと瞬いていた。
しかし、それらを目の当たりにしても、新吾の心が安らぐことはなかった。
どれくらいの時間、そうしていただろう。
朧気ではあるが、新吾は何度か信子が様子を見に来ていたような気がしたけれど、はっきりとは認識していなかった。
どこか遠くを走る自動車のエンジン音が、やけに長い間聞こえていた。
あれほど強く吹いていた風は、いつの間にか止んでいた。
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