第三章 5

 翌日、事態は急展した。

 昼休みに用を足しに入ったトイレで、新吾は運悪く前田と遭遇してしまった。

 昨日一日、前田の姿を見かけなかったことで自分の警戒心が薄らいでしまったとしか新吾には思えなかった。

 二人は扉の前で固まったまま動かなかった。

 新吾は自分の迂闊さを呪っていたが、前田は戸惑いと喜悦の混じった複雑な表情をして、そわそわして落ち着きがなかった。

 新吾は前田の横を通り、便器の前に立った。尿意など当に消え去ってしまったが、前田を前に逃げることはしたくなかった。

「なんか、久しぶりだね」

 用は済んだはずの前田が出ていく気配がないと思っていたら、やはりここ二日の新吾の行動の真意が気になっているようだった。

「何で来ないの?」

「……義務じゃないんだから、毎日行かなくてもいいだろ」

 新吾は前田と遭遇してしまったときのために予め用意していた返答を、用を足す格好のまま前田の方を見ないで口にした。

「そうかもしれないけど、何で急に?」

 前田は徐々に感情が昂ってきているようで、段々と声が大きくなっていく。

「お前、自分で好きなときに来いって言ってただろ」

 前田の語気に負けないように、新吾の声も自然と強いものになっていた。

「確かに言ったけど。なら、来ない理由を教えてよ!」

 前田の言葉の最後は、ほとんど叫んでいるようだった。

 新吾は前田の態度がいい加減鬱陶しくなり、出口に立ち塞がる前田の脇を通り抜けてトイレを出た。

 そのまま教室に戻ろうとした新吾は何かに引っ掛かったような抵抗を受けて、つんのめった。服がドアノブにでも引っ掛かったのかと背後を確認すると、前田が新吾の服の裾を掴んでいた。

「……離せよ」

 新吾は掴まれた手を振り切ろうと体を捩じったが、それでも前田は裾を離さなかった。

「理由を教えてくれるまで離さないから」

 新吾は何度も振り払おうとしたが、前田も必死になっていた。

 二人は子犬が自分の尻尾を追いかけ回すように、その場をぐるぐると回りながら攻防を繰り広げていた。

「前田くーん、何やってるの?」

 新吾達が争っていると、扉が開き、誰かが人を小馬鹿にしたような口調で近付いてきた。

 新吾達は争いの手を止めて、声のする方を見た。

 そこにいたのは線の細い一人の男子生徒だった。

「山口」

 顔に見覚えはあったが名前までは知らなかった新吾は、前田の呟きによって答えを得た。

「そいつ嫌がってるだろ? 一人が寂しくて友達が欲しいからって、無理矢理はいけないよ」

 山口は正義の味方にでもなったつもりなのだろうが、癇に障る話し方と嫌な笑みを湛えていて、新吾は正義の味方というより西部劇に登場するゴロツキの方がお似合いに思えた。

「お前には関係ないだろう! どっか行けよ!」

 前田の威勢は良かったが、端から見たら新吾の後ろに隠れて強がっているようにしか見えない。

 新吾は前田のこういう部分がつくづく理解できなかった。目に見えている火種に風を送り込み、大きくなった炎を消す手間を考えていないのかと忠告をしたかったが、今回に関しては既に手遅れになっていた。

「何? 友達の前だからって調子乗ってるの?」

 山口は気持ち悪い笑みを浮かべたまま、歩み寄ってくる。

 その姿を見て、前田の裾を掴む力が強くなった。

「……そいつのこと庇ってるの?」

 そんなつもりなどなかったが、いつまでも山口と前田の間に立っている新吾を、山口はそう解釈したようだった。

 新吾は迷っていた。庇うつもりなどなかったが、山口は大野と違って多少暴力的な行動も起こすと前田から聞いていたので、差し出した後の前田の惨状を考慮すると山口に関わってはいけないと分かっていても、安易に身を引くことはできなかった。

 新吾が迷っている間にも、山口は一歩一歩二人の傍までやってくる。

 新吾はこれ以上返事が遅れると自分も山口に暴力を振るわれる可能性が出てくるのではないかと思い始めていた。

 そんな考えが一度頭を過ったら、もう新吾は自分の安全を考えて前田を差し出すことしか考えていなかった。

 新吾が道を開けるため、少し体を動かすと同時に前田が小さく悲鳴を上げ、それまで引っ張られていた背中が急に軽くなった。

 新吾が軽くなった背後を振り返ると、走る前田の後ろ姿が視界の端に一瞬だけ映った。

「待て、こら!」

 新吾が前田は逃げたのだと理解するよりも先に、山口は前田を追いかけて走り去ってしまった。

 ただ一人、その場に残された新吾は酷い自己嫌悪に陥っていた。

 自分の保身のために前田を差し出そうとしたことで、人としての未成熟さが顕著に出てしまい、新吾はそれがとても悔しかった。

 いつまでもトイレの前に立っているのもおかしいと冷静になった新吾は、一度教室に戻ることにした。

 その途中、新吾は以前に前田が二人でいるところを人に見つからないようにしてほしいと言っていたことを思い出していた。

 あれほど徹底して他人の目を気にしていたのに、今日は周りに目がいかないほど必死になっていた前田の姿が浮かび、新吾の中の罪悪感が更に膨れ上がっていった。

 教室に戻り、罪悪感を打ち消そうと自分自身に言い訳を聞かせているうちに昼休みが終わり、午後の授業が始まった。

 授業中、前田のことを考えているうちに、これを機に前田の方から自分との接触を避けるようになる気がしていた。

そうなってくれれば新吾は誰にも責められないし、前田だって今日みたいに絡まれる要素が一つは減ることになって、両者にとって良い結果を生むことになる。それは前田でも考えつくだろうと期待しながら、心のどこかで寂しさも覚えていた。

 しかしその期待は、その日の放課後に裏切られた。

 下校時刻になり、新吾が下駄箱で靴を履き替えていると、すぐ隣に誰かが立つ気配がした。

 新吾はクラスメートが来たのかと思い、一応そちらを確認すると、そこに立っていたのは前田だった。

 新吾は大いに驚いた。それは先ほどのいざこざの冷めやらぬうちに前田が現れたからという理由だけではなかった。

 前田の顔は、明らかに右頬が赤く腫れ上がっていた。

 新吾はあまりの衝撃に言葉を失っていた。

 当の前田はいつもと違い、異様な雰囲気を醸し出していて、新吾は夏祭りのときのことが頭を過ぎった。

「今日、指切り様のところに行くから」

「え?」

 いつもの不遜な口調ではない、感情の込もらない前田の言葉に、新吾は理解が遅れた。

「夜、九時に正門前で待ってるから」

 新吾が聞き返す間もなく、前田はすたすたと振り返る様子もなく先を歩き、やがて下校する児童の集団に紛れ、姿が見えなくなってしまった。

 新吾は愕然とした。前田の頬はほぼ間違いなく山口の仕業だろう。それだけでも平気で他人に暴力を振るえる人間がいることに驚いているのに、前田は有りもしない非科学的なものに本気で頼ろうとしていることに驚愕した。

 新吾は大きな衝撃が一度に二つも起きてしまい、訳が分からなくなっていた。

 それでも家に着くまでの道すがら今日起きた出来事を整理し、あまりにも様子がおかしい前田のことが心配になり、彼の行動を見守るという意味でも、今晩前田について行くことを決めた。


 左手首に巻かれた腕時計に街灯の光を当てて時間を確認すると既に九時を指していた。

 塾で自習をすると言って家を出るまでは良かったが、何時間も町をうろついて警察に見つかるのも厄介だと考え、ぎりぎりまで塾で時間を潰してから学校へ向かう予定を立てたまではよかったけれど、うっかり目的のバスに乗り遅れてしまい、急遽学校の近くへ行く別の路線に飛び乗り、今は学校へ向かって走っていた。

 最後の角を曲がり学校が見えてくると賑やかな昼間の印象とは違い、見慣れた校舎が急に不気味なものに思えた。

 さらに学校に近付いたところで、突然光が向けられて、新吾は思わず目が眩んだ。反射的に新吾が腕を使って光を遮るとすぐに光は消えた。

「必ず来てくれると思ってたよ」

 光が消えたかわりに前田の声が聞こえてきた。

 暗闇に慣れていた目で光を直視してしまい、視界に黒い点ができて殆ど前田の姿を見ることができなかったが、声だけで判断すると前田は普段の調子に戻りつつあるようだった。

 先ほどの光は前田が持ってきていた懐中電灯によるもので、今は地面に向けて忙しなく電源を切ったり入れたりして、明滅させていた。

 文句の一つでも言ってやろうと、新吾は乱れた呼吸を整えていた。

「じゃあ、行こうか」

 そう言って前田は一人で勝手に歩き出し、新吾は少々面食らいながらも仕方なくその後ろを付いて歩き、結局文句を言う機会を逃してしまった。

 辺りは街灯の光量が少ないために、光が届いていない場所は真っ暗で何も見えない。下手に光がある分、暗闇が際立っていて、新吾は迷い込んだら二度と戻れなくなる気がした。

「あの後さ、結構逃げたんだけど、結局捕まって殴られたよ」

 前を歩いている前田が突然独り言のように語りだした。

「何が気に入らないのか知らないけど、いい加減我慢できないよな……」

 新吾は普段見られない夜の光景に少し心を踊らせていたのだが、前田の言葉が自分を責めているような気がして、足元に目を落とさずにはいられなかった。

 実際、一度は見捨てているのだから、責められたとしても反論の余地はなかった。

新吾はここに来たことを少し後悔していた。

「別に佐竹君を責めてるわけじゃないから」

 口では新吾を気遣っていたが、わざわざ引き合いに出してくる口の悪さがそもそもケンカになる原因じゃないのかと、新吾は言ってやりたかった。

 前田は正に立て板に水といった様相で歩きながらずっと一人で喋り続けていた。

 どこに向かって歩いているのか分からなかった新吾だったが、学校の裏に回ったところで、ようやくお化けビルに向かっているのだと察することができた。

そして初めてお化けビルの目の前まで来ると、新吾は敷地に沿って背の高い頑丈な柵が立てられていることに気が付いた。柵の間隔は狭く、間を通ることは不可能に思えた。力づくで広げてみようと頑張ってみたが、鉄柵は古いくせにびくともしなかった。

「これ、登るのも無理だと思うよ」

 新吾の挑戦を無言で観ていた前田が冷めた笑いと共に懐中電灯で柵の頂点を照らしている。確かに高い上に掴まるところも見当たらなかった。

「じゃあ、どうやって中に入るんだよ」

 新吾は手に付いた錆びを払いながら疑問を口にした。

「こっち来て」

 前田は短く答えると、敷地に沿って歩き出した。

 前田は迷いなく進み、先ほど立っていた位置から反対側まで移動した。

「ちょっとこれ見て」

 新吾が敷地内に浮かび上がるお化けビルの影に目を凝らしていると、前田が柵を指差していた。

 言われた通り柵の方を見てみるが特に変わった点は見当たらなかった。それでも何かあるのだろうと、新吾はしばらく柵とにらめっこをしていた。

「さっきよりも、柵の間隔が広くなってない?」

 ここで時間をかけても意味が無いと思ったのか、前田がさらりと答えを口にした。

 新吾が腕を入れてみると、確かに簡単に肩まで通すことができた。

「今度はこっちに来て」

 新吾が何とか通れないものかと頑張っていると、前田が来た道を少し戻って、曲がり角の手前で立ち止まった。

「ほら、ここ」

 前田は指を指す代わりに、懐中電灯で目的のものを照らした。

 照らされたところを見てみると、柵の一本がくの字に折れ曲がっていた。

「ここを通って中に入るんだ」

 前田は言い終わる前に、柵を潜り始めていた。

 少しコツが要りそうだったが、これなら新吾にも通れそうだった。

 新吾はもたつきながらも何とか柵の間を通り抜け、ようやくお化けビルの敷地内に足を踏み入れた。

 敷地内は新吾の肩の高さまで伸びたススキが無秩序に繁茂していた。

 新吾が穂先を撫でていると、前田が懐中電灯の光をビルの方に向け、壁面の一部を照らし出した。

「うわ」

 どちらともなく声が漏れた。

 照らされた一部しか露になっていなくても、壁に走るひび割れや滲む錆びが人の手を離れて久しいことを物語っていた。

 前田も敷地の中に入るのは初めてのことらしく、口を開けて建物を見上げていた。

「そろそろ行こうよ」

 新吾が促すと前田は一瞬だけ体を強ばらせ、小さく舌打ちをして歩き出した。

 ビルの入口を目指す途中、風が吹く度に生い茂るススキの葉と葉が擦れる音が鳴り、それはまるで浜辺に寄せる波音のようだった。

 ビルに近付けば近付くほど、建物が荒廃していることに気が付く。

 窓ガラスは全て割られていて、コンクリートの壁は所々欠け落ちている。割れた窓から中に入れそうだったが、残ったガラスで怪我をしてしまいそうだったので、新吾は口にしなかった。

 ぐるっと反対に回り込んだところで、ようやく建物の入口の前までやって来た。扉は観音開きの造りになっていて、扉の一枚は破壊されて室内の方へ向かって倒れていた。

 入口の前に立ち、いざ中に入るとなると二人ともなかなか決心がつかなかった。

 入口から見る限り、内部は更に光が届かなくなっていて、深い闇が待ち受けていた。

 新吾は突然暗闇から映画で見た怪物が飛び出してくる想像をしてしまい、自分で自分の恐怖心を煽ってしまった。

「どうするの? 中、入るの?」

 新吾は雰囲気に飲まれて全く動く気配のない前田に問いかけた。

「何言ってんだ! ……行くに決まってるだろ」

 前田は消していた懐中電灯の電源を入れると、足元を照らしながら中に入っていった。前田が倒れた扉を踏む度に、べこべこと大きな音がした。

 新吾は前田に断念してほしくて声をかけたつもりだったが、発破を掛ける結果になってしまったことに、自分を呪わずにはいられなかった。

 新吾が前田を追って中に入ると、前田は光を色々なところに向けて内部を探っているところだった。

 前田の持つ懐中電灯の光を目印にしないとすぐに左右の感覚を失うほどに、建物の内部は暗かった。

「何やってんだよ。早くしろよ」

 目の前の受付らしきところを照らしながら、振り返りもしない前田は少し怒ったような口調だった。

「悪かったよ」

 新吾が素直に謝ると、前田は鼻を鳴らして再び光をあちこちに向け始めた。

「あのさ、このビルって元々は何だったの?」

 新吾が方々に向けられる光を目で追いながら、疑問を口にした。

 光に照らし出された中には、病院の待合室に置いてあるような長椅子や、学校の会議室に置いてある簡易の長い机などが見受けられたが、いずれも無残に破壊され、使い物にならなくなっていた。

 新吾は町医者ではないかと推理し、前田の答えを期待していた。

「知らない」

 前田は素っ気なく答えながら、奥の廊下に向かって光を当て、そちらを窺っていた。

 新吾はがっかりしたが、完全にいつもの前田に戻っている気がして、どこか安心もしていた。

「そろそろ探しに行くか」

「何を探すの?」

 突然の前田の言葉が新吾には理解できなかった。

「何って、指切り様に決まってるだろ」

 さも当然といった前田の口調だったが、新吾は指切り様について、ほぼ無知だった。

「指切り様って、いつも特定の場所にいないの?」

 新吾は率直な疑問を口にした。

 すると前田は突然立ち止まり、新吾の方に懐中電灯を向けた。

「佐竹君、指切り様のこと何も知らないんだね」

 暗闇で前田の顔は見えなかったが、明らかに馬鹿にした表情を浮かべているだろうと、新吾は容易に想像ができた。

「じゃあ、歩きながら説明するよ」

 そう言うと、前田は奥へ伸びる廊下を進み始めた。それなりの奥行きがあるようで、前田が光を向けてみても奥まで照らしだすことはできなかった。

「指切り様っていうのは、うちの学校に伝わる七不思議の一つで、恨みを持つ人間の代わりに、その恨みを晴らしてくれる神様みたいな存在なんだ」

 前田は説明の最中も懐中電灯を左右に振りながら、ゆっくり進んでいく。新吾は前田の後に続き、割れたガラスを踏む度に靴底からパキパキと音が鳴った。

 左を見ると割れた窓から辛うじて波打つススキが見え、右を見れば、壊された扉や何語か分らない落書きが壁一杯に描かれていて、それが光を受けて、浮かんでは消えていく。

 新吾は前田の話に度々相槌を打ちながら、前田の後ろを付いて歩いた。

 いつもより少し早口になっていることから、前田もしっかり怖がっていることが分かると、新吾は少しだけ余裕が生まれた。

「指切り様は、このお化けビルのどこかの特別な女子トイレにいると言われていて、ある儀式をすると願いを叶えてくれることがあるんだ」

 やがて正面に向けた光が壁を照らし出し、二人は廊下の突き当たりまでやってきた。

「特別? というか、ことがある? 叶えてもらえないこともあるってこと?」

「そうだよ。絶対じゃないんだ」

 新吾の疑問に答えながら、前田は懐中電灯を左右に向けた。左側は壁になっていたが、右側はまだ少し奥へ進めそうだった。

 二人は右に曲がり少し進んだが、すぐにまた行き止まりにぶつかってしまった。

 しかし、光がゆらゆらと壁を撫でているうちに、新吾はそれがただの壁ではなく、二つの扉が嵌め込まれていることに気が付いた。

「あ! ここ、トイレじゃない?」

 新吾は懐中電灯の光を扉の中央よりも少し上に向けて当ててもらい、扉に取り付けられた標札を注意深く観察した。殆んど掠れていて読むのが大変だったけれど、縁取りで何とか男子便所という文字を読み取った。

「やっぱり! ここトイレだよ!」

 新吾は早くも目的のものを発見し、興奮を隠せなかった。

「ここが男子だから、きっとこっちが女子トイレだね」

 新吾の興奮とは対照的に前田の反応が悪く、何も言葉を発しない。

 新吾が振り返ると、光源よりも奥にいる前田の表情は窺うことはできなかった。

「もしかして、女子トイレに入るのが嫌なの?」

 確かに新吾も女子トイレに足を踏み入れることに大いに抵抗はあったけれど、ここは普通の生活環境から離れ過ぎていて、そんなことを気にする必要は無いように思えた。

「そんなんじゃないから」

 前田は怒った口調でドアノブを掴むと、乱暴に扉を開いた。

 威勢良く扉を開けたものの、前田はなかなか中に入る様子はなかった。かわりに、入口から室内の個室を一つ一つ注意深く照らしていた。

やがて前田が一歩二歩と中に入っていき、やっと中に入ったかと新吾が苦笑していると、以外にも前田はすぐに中から出てきた。

「ここじゃない、次に行こう」

 前田は足早にトイレを後にし、来た道を戻り始めた。一度通って危険が無いことを確認しているためか、さほど時間をかけずに二人は入口まで戻ってくることができた。

「さっきのここじゃないって、どういうこと?」

 新吾の質問を聞いているのかいないのか、前田は机や椅子が乱雑に積まれているところを念入りに照らしている。

「指切り様がいる個室には、取っ手の下に穴が空いてるって言い伝えなんだ。さっきの個室は全部にそれが無かったんだよ」

 前田は説明しながら、積み上げられた廃棄物の方へ歩いて行く。

 新吾もその後ろを付いて行きながら、いつの日か、前田が指切り様のことを馬鹿にしていたことを思い出していた。

「指切り様のこと、詳しいんだね」

「この地域に住んでたら誰でも知ってるよ、これくらい。それより、こっち」

 新吾は皮肉のつもりで言ったのだが、前田には全く伝わっていないようだった。伝わらない皮肉ほど虚しいものはないと実感しながら前田の隣へ行くと、光で示された方に目を向けた。

 そこには二階に続く階段が設置されていた。椅子や机が障害になっていたが、手すりの外側をを伝っていけば二階へ上がれそうだった。

「行くの?」

 新吾はもう充分な気がしていた。この異常な緊張感に疲弊し、いるはずもないお化けを探すことにうんざりしていた。

「何言ってんだよ、当たり前だろ! 俺の顔を殴ったことを後悔させてやるんだから!」

 前田は怒りを再燃させ、それを原動力に変換させるように手すりに手をかけると、階段の外側を一歩一歩慎重に昇り始めた。

 仕方なく新吾も後に続き、障害物を越えたところで手すりを跨ぎ、階段の内側に着地した。

 前田は新吾が昇っている間、懐中電灯で新吾を照らし続け、二人は揃って二階へ上がった。

 二階も一階の造りと変わらず、階の中央に大きな箱物が設置されていた。

 正面の壁に光を当てて左へ流していくと、すぐに曲がり角が見え、右に道が続いているようだった。

 前田は足元を照らし、床の何だか分らないゴミを足で押し退けて道を作りながら、ゆっくりと新吾の先を歩いていた。

「少し前に、指切り様が騒がれた事件のこと、覚えてる?」

 前田は一ヶ月ほど前に起きた事件のことを口にした。

「あの女子の頭部切断ってやつ?」

 新吾は前田の作った道を外れないように、ぼんやりとしか見えない足元に目を凝らしていた。

「あれが何で指切り様の仕業だって言われているか分かる?」

「話を聞く限りだと……、首が切れてた、から?」

 曲がり角まで来ると、想像通り、その先は一階と同じ長い廊下が待ち受けていた。二人の背後には三階に続く階段があり、ここは一階とは違い、すんなりと上に行けるようになっていた。

「そう。指切り様の呪いをかけられた者は首に致命傷を負って死ぬんだ」

 前田の口から死という単語が出た瞬間、新吾は背筋がぞっとした。

「お前……、山口を殺すの?」

 新吾は歩みを止め、それに気付くのが遅れた前田と少しだけ距離が空いた。

「何? 山口のこと、可哀想とか思ってるの?」

 前田が懐中電灯を点けたまま振り返ったので、新吾はまた手で光を遮り、目を細めた。

「可哀想っていうか、そこまでしなくてもいい気がする……」

 あまりに冷やかな前田の口調に気圧されてしまい、新吾は顔を逸らしていた。

「あいつを野放しにしてると、いつかまた今日みたいに暴力を振られるかもしれないんだぞ!」

 前田は怒鳴り散らしながら、足元に落ちていたものを力一杯蹴り飛ばし、それは新吾のすぐ脇を勢い良く飛んでいった。

 前田の蹴ったものが暗闇の向こうで籠った金属音を立てて転がっていく。

 新吾は豹変した前田に驚いて声が出なくなり、前田は息を切らせていた。

 やがて転がる音が鳴り止むと、割れた窓から吹き込む風と靡くススキの音が異様なほど際立った。

 前田は大きく息を吐くと、新吾に背を向けて奥へ進み出した。

 前田を追いかけることに躊躇いが生まれたが、こんな状況でも一人になる方が心細く思い、新吾は先ほどよりも少し距離を置いて後に続いた。

 二人は無言のまま奥に進み、二階のトイレの前までやってきた。前田は女子トイレに入ると一分も経たないうちに戻ってきた。

「ここにも居なかった?」

 新吾はできるだけ残念そうに、前田の気持ちに同調するように問いかけた。新吾にとって暗闇で顔を見られないことが今は有利に働いていた。

「……ああ」

 前田は立ち止まったまま、だいぶ間をおいてから答えると、三階へ向かって歩き出した。

「……さっきの続きだけど」

 角を曲がり、再び廊下を歩いている途中、おもむろに前田が口を開いた。

「この辺は、昔から小中学生の死亡事故が異常なほど多いんだ」

 今度は話の腰を折らないように、新吾は無言で続きを促した。

「その死亡事故の死因の半分近くが首に外傷を負っての死亡なんだ」

「その半分が指切り様の呪いだって言うの?」

 新吾は俄に信じ難かった。

「全部とは言わないけど、大半がそうだって信じられてる」

 いつの間にか二人はいつもの調子を取り戻していた。

「俺が知ってる話だと、昔この辺に大人でも手を焼くほどのワルがいたらしいんだ。それで学校でも理不尽な暴力に迷惑していた生徒が沢山いて、そのワルを懲らしめるために数人が代表として指切り様にお願いをしにお化けビルに来たらしい」

 前田の話を聞いているとこのビルは随分と昔に建てられていることになる。この話を聞いた後では建物の老朽化がそれほど進んでいないような気がして、それも新吾には不気味に思えてくる。

「そして、願いは見事に成就されたんだ」

 前田は自分のことのように嬉しそうな口振りになっていた。

「次の日、そのワルが自分の家に帰る途中に、近道として坂の途中のガラス工場を突っ切ったんだ」

「ガラス工場? どこの?」

 この辺りの地理は大体頭に入っていたが、新吾はガラス工場に心当たりはなかった。

「今はもう潰れて無くなったんだよ」

 話しているうちに、二人は三階に続く階段の傍までやって来ていた。

「辺りは薄暗くなっていたらしい。そいつが自転車で工場の中を下り始めたとき、丁度作業員が大きなガラス板を、道を挟んだ隣の作業場に運んでいるところだったんだ。だけどそいつはそれに気が付かないで、どんどん加速しながらガラス板に突っ込んで」

 前田はそこで話を止めた。しかし、それ以上は聞かなくても結末は新吾にも容易に想像ができた。

 一呼吸置いて、前田は再び口を開いた。

「警察や学校は事故を主張していたけど、指切り様にお願いしてすぐのことだったから、生徒の間では指切り様の仕業っていう共通認識が生まれたんだ」

 前田の話を聞いていると、段々と新吾の意識も変化していき、今では指切り様は存在するかもしれないと思うようになっていた。

「それに指切り様の起こす事件はとても自然なんだ」

「自然?」

 二人は三階に続く階段の下で立ち止まっていた。

「そう。例えば首が絞められたとか、密室だったとか、そういう事件性が無くて、あくまでも不幸な事故にしか見えないところも、指切り様のすごいところなんだ」

 前田はまるで試験で満点でも取ったかのように自慢気だった。今、前田の顔を見ることができたのなら、きっと鼻の穴が膨らんでいるのだろうなと新吾は思った。

「だからこの前の事件も、首に傷を負っていて、更に死因に不自然な点が無いっていう条件が揃ったから、久しぶりに指切り様の呪いが行われたんじゃないかって、みんな騒いでたんだよ」

「……なるほど」

 新吾は約ひと月遅れで、やっと話題の真相を把握することができた。

「じゃあ、行こうか」

 前田は足元を照らして段差を確認すると、今までよりも軽快な足取りで三階へ昇っていった。


 新吾は三階に上がった途端、今までとは明らかに違う異様な雰囲気に言葉を失った。

 造りそのものは各階と変わりなかったが、あれほど乱雑していた机や椅子、度胸試しに来た者達の廃棄物などの一切がそこには無かった。

新吾は越してすぐの何もない自分の部屋を思い出していた。

 新吾はふと隣の前田がぶるぶると震えていることに気が付いた。

 その瞬間、新吾も強烈な恐怖心が込み上げてきた。

 ――どうして、前田が震えていると理解できたんだ?

 新吾は血の気が引いていくことを実感していた。

 新吾は肩を縮こませ、腰が引けながらも、何とか状況を把握しようと目だけを激しく上下左右に動かし、混乱に陥りそうになる瀬戸際で脳みそを高回転させていた。

 そして新吾はこの空間そのものがうっすらと発光していることに気が付いた。

 初めは月明かりが差し込んでいるのかと思っていたが、天井も発光していることで、その考えは否定された。

 蛍光塗料を塗ったような、ぼんやりとした灯りが新吾達を包んでいた。

「普通じゃないよ……、もう引き返そう」

 新吾は震えたまま動かない前田の腕を掴んだ。前田は揺さぶられても何も言わず、奥だけを見つめて新吾の方へ振り向く気配もなかった。

「どうしたんだよ! 何か言ってくれよ!」

 新吾は掴んだ腕から震えが消えていることに気が付いた。

 何かに魅入られるように動かなくなった前田を前にして、新吾は有り得ないと思いながらも、前田が何か悪い霊に取り付かれてしまったのではないかという考えが頭を過ぎった。

 普段ならそんな考えなど一番に排除するものだが、今の状況を踏まえると、あながち的を外しているとも思えなかった。

 新吾はこれ以上この場に留まることは危険だと判断すると、前田の手を引き、階段へ向かった。

 しかし、前田はすぐに新吾の手を払った。

 新吾は予期せぬ前田の行動に驚きと共に戦慄を覚えた。

「どこ行くつもりだよ。早く指切り様のところに行くぞ……」

 前田の声は少し震えていた。

「何言ってんだよ! ここが普通じゃないって分かるだろ! 早くここから出よう!」

 前田が言葉を発したことに安心しながら、新吾は引き返すことを強く主張した。

「これが異常なことくらい、俺にだって分かってるよ!」

 前田の言葉の中には、葛藤が滲んでいた。

「確かに怖いし逃げたいけど、でも俺は確信したよ! 今なら確実に指切り様に会える!」

 前田の言葉の通り、この雰囲気なら何が出てもおかしくはなかった。当初の目的は指切り様に会うことなのだから、この機会を逃すなど本末転倒の極みなのだろうが、それでも新吾はこれ以上深入りすれば二人とも無事には帰れない予感がしていた。

「そうかもしれないけど、でも絶対に危ないって!」

 新吾は尚も説得を続けた。

 すると前田は少し考える素振りを見せ、おもむろに手に持っていた懐中電灯を新吾に差し出した。

「……確かにこの先は危険かもしれない。だから、ここから先は一人で行くよ。佐竹君は先に外に出てて」

 前田の言葉にはもう震えも葛藤も含まれておらず、代わりに確固たる決意が伝わってきた。

 前田は新吾の手に懐中電灯を強引に握らせると、新吾に背を向け、一度大きく深呼吸をしてから、奥にあると思われる女子トイレを目指して歩き始めた。

 新吾はこれ以上前田にかける言葉が見つからず、もどかしい気持ちで一杯だった。

 ゆっくりではあったが、着実に前田との距離は開いていった。

いくら周りが薄く発光しているとはいえ、その弱々しい光ではすぐに前田の着ている服の色も判別できなくなってしまった。やがて前田の輪郭しか視認できなくなると、今度はその人影が前田であることに確信が持てなくなっていった。

 新吾の心はどんどん恐怖に侵蝕されていった。

 ――もしかしたら、今背後には得体の知れない何かがいるんじゃないか?

 そう思った瞬間、新吾は地面を蹴っていた。

 前田は想像以上に牛歩だったらしく、新吾はすぐに追い付いた。

 前田は突然背後から足音が近付いて来たことに驚いた様子だったが、足音の正体が新吾だと分かると、少し気の抜けた顔になっていた。

「……俺も行くよ」

 新吾は声を震わせながら、手に持った懐中電灯を前田に差し出した。

 前田は無言で懐中電灯を受け取ると、深く頷き、暗闇へと光を伸ばした。

 二人は再び並んで歩き始めた。

 新吾は自分の心臓の音が聞こえるほど恐怖していた。膝に力が入らず、次の一歩を踏み出す度に崩れ落ちそうになっていた。それでも前田に置いていかれないところをみると、前田も同じような心境なのかもしれないと、新吾は無理矢理に笑ってみせた。

 二人は無言だった。

前田の持つ懐中電灯の光が不気味に発光する床を照らすと、何の変哲もない、ただの床が浮かび上がる。その小さく照らし出された普通の床が、今の新吾を支える大きな役割を担っていた。

「指切り様の儀式って、何?」

「え? 何?」

 新吾はこの気味の悪い空間に耐えられなくなり、せめて何か会話でもして気を紛らわせたかった。しかし、声は殆ど掠れ、前田には伝わらなかった。張り付くように渇いた喉では言葉を発することも至難の業になっていた。

 新吾は口の中を舌で舐めまわし、唾を絞り出して飲み込んだ。

「さっき、指切り様に願い事をするには儀式が必要だって、言ってなかった?」

 今度は何とかはっきりと言葉にすることができた。

「ああ、儀式……」

 前田は咄嗟に理解できなかったのか、儀式という言葉を独り言のように何度も繰り返し呟いていた。

「大丈夫か?」

「大丈夫だよ! 分かってるよ、儀式のことだろ?」

 突然大声を上げた前田に新吾は腰を抜かしそうになったが、何とか堪えた。

 前田は取り乱したことを詫びるように咳払いをしてから、儀式についての説明を始めた。

「さっきも言ったけど、指切り様がいる個室には取っ手の下に穴が開いてるんだ。それでその穴に手を入れて、指切りをするように小指を立てる」

 前田は自分の手に光を当てて、新吾に手の形を見せた。

「そのままの状態で指切り様に呼び掛けをして、指切り様が応えてくれた場合は向こうから指を絡めてくるらしい」

「絡めてこなかったら?」

「お礼を言って、諦めて帰るしかない」

 新吾の質問はこれまで何年も繰り返されてきた疑問だったらしく、予め用意されていた解答のように前田の口調は滑らかだった。

「それでこれは絶対に守ってもらいたいことなんだけど、指切り様が出てこなかったからって、帰らなかったり、指切り様の悪口を言ったりとか、そういうことは絶対にしないでほしい」

 前田の声は真剣そのものだった。新吾は薄暗い中、伝わるとも分からないのに何度も頷いていた。

「もし帰らなかったり、悪口を言ったりすると、良くないことが起きるって言い伝えなんだ」

 前田は再び懐中電灯の光を少し前方の床に向けた。

「次に指を絡ませてきた場合なんだけど、目を瞑って扉に寄りかかるように額を当てる。それでそのままの状態で願い事を正直に告白するんだ」

 新吾は説明を聞きながら、不意に遭遇する口裂け女や二宮金次郎像とは違い、自ら呼び出すあたりはこっくりさんに似ていると思っていた。

「願いを聞き入れられた場合は、どこからともなく女の声で指切りの歌が聞こえてくるらしいよ」

「願いが聞き入れられなかった場合はどうなるの?」

 先ほどと同じような質問になるが、新吾は聞かずにはいられなかった。

 前田も当然の疑問だと思っているのか、それほど気にしている様子もない。

「聞き入れられなかった場合は、指切り様に絡めた小指を折られてしまうらしい」

 お願いに失敗した際の代償に恐怖を覚えたが、人生の中で骨折の経験のない新吾はそれが人の死と釣り合いが取れているのか、本当の意味では理解できなかった。

 前田の話を聞いているうちに、二人はようやく三階のトイレの前までやってくることができた。

 トイレの扉は発光しておらず、蛍火のような明かりの中に長方形の黒が浮かび上がる、不思議な光景が二人を待ち受けていた。

 扉の先に指切り様がいると思うと、言いようのない精神的圧力に新吾は足が竦んでしまう。

「……よし、行こう」

 ビルに入って何度目か分からない掛け声と共に、前田は最後の扉に手をかけた。


 前田が扉を押すと難なく戸は開き、二人を迎え入れた。

トイレの中は廊下とは違い、真っ暗だった。本来そうあるべき景色が、逆に不気味さを増長させていた。

 新吾が扉を押さえ、前田が懐中電灯を片手に奥へ調べに入っていった。

「……あった! 本当にあった!」

 個室を順番に調べていた前田が興奮と動揺の入り交じった声を上げながら、扉を押さえていた新吾の下へ駆け寄ってきた。

「早く、こっち来てよ!」

 前田は奥の個室に光を向けたまま、新吾を急かした。

 新吾は何とか扉を開けたままにしておきたかったが、つっかえさせるものが見つからなかったので仕方なく自然に締まる扉と共にトイレに足を踏み入れた。

 懐中電灯による集中的な光しかなかったためにぼんやりとしか確認できなかったが、生まれて初めて入った女子トイレの構造は新吾のよく知る男子トイレと大差なかった。三つの個室が並び、小便器のあるべきところには洗面台が設置されていた。

「ほら! この個室にだけ穴が開いてる!」

 前田の声に導かれて問題の個室に目を向けると、扉の取れた他二つの個室とは違い、その個室だけ扉が締まっていて、確かに取手の下に穴が開いていた。穴といっても丸ではなく、縦長の亀裂のような穴だった。

 扉はボロボロなのに穴はそこにしか開いておらず、その穴の開き方もどこか不自然だったが、どうして自分がそう思ったのかは分からなかった。

「……じゃあ、儀式を始めるから。これで照らしてくれる」

 前田の声は緊張していた。

「……分かった」

 懐中電灯を受け取った新吾にもその緊張は伝染した。

 新吾が扉の穴を照らし、前田は至極ゆっくりと時折小さく悲鳴を上げながら穴の中に手を差し込んだ。そのままの姿勢で二度三度と大きく深呼吸をして、三度目の呼吸で決意を固めたようだった。

「……指切り様、指切り様、指切りしましょ」

 ついに儀式が始まった。

 前田の話からすると、ここで指切り様が現れるかどうかが最初の関門だった。

 前田の声が霧散してから、張り詰めた沈黙が空間を支配していた。

 新吾にはどれほど待てば指切り様に断られたことになるのか、その判断を下すことができなかったので、ただ前田の動向を見守り、照らし続けることしかできなかった。

「うわあああっ!」

 いつまで続くのか分からない静寂の中に、突如前田の悲鳴が室内に反響した。

「何! どうした?」

 見たこともないような前田の取り乱し具合に新吾は当惑した。

「か、絡められた。指切り様が出てきた!」

 実際に指が結んでいるところを目撃しているわけではないので半信半疑は否めなかったが、新吾には前田が演技をしているとも思えなかった。

「じ、じゃあ、早く願い事しないと」

 新吾の言葉に、前田は細かく何度も頷いた。

 新吾は前田の後ろに回って、さりげなく手の差し込まれた穴に光を当ててみたが、前田の手が邪魔になって奥は良く見えなかった。

 前田は次の動作に移り、扉に額を着けていた。

「……俺は、学校で山口ってやつにいじめられています。今日も何もしていないのに殴られました。もう、我慢するのも辛いんです」

 最初こそ声が震えていたものの、願い事を口にし始めてからは、前田からは堰を切ったように言葉が溢れ出していた。

 口調もいつもとは違い、昼間、新吾を問いただしたときのような、相手にすがりつく弱々しい印象を新吾は受けた。

「だから指切り様。どうか山口を消して下さい!」

 新吾は前田がここまで追い詰められていたなんて思ってもみなかった。少なくとも、今まで一度たりとも前田の口から辛いという言葉は聞いたことがなかった。

 念押しをするように扉に額を押し付ける真剣な前田の顔がほんの少しだけ新吾の位置から見て取れた。

 ――ゆーびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます、ゆーびきった。

 再び降りた沈黙の中に、どこからともなく指切りの歌が聞こえてきた。透き通るような声で、新吾達よりも幼い女の子の声だった。

 はっきりと聞こえるのに、どこから聞こえるのか分からない声の主を探そうと、新吾はあちこちに光を当てた。しかし歌が終わるまでに新吾は歌の主を見つけることができなかった。

 前田の話では女の声ということだったので、てっきり大人だとばかり思っていた新吾は、前田の間違いを指摘しようと彼に光を当てた。

 暗闇に浮かび上がった前田は自分の手を見つめながら、閉じたり開いたりを繰り返していた。

「願い事、聞いてもらえたかな?」

「……多分」

 新吾は自然と思っていたことと違うことを口にしていた。

 前田が放心しているのか、感慨に耽っているのか、新吾にそれは分からなかったが、何となく今は揚げ足を取る気にはなれなかった。

「……帰ろうか」

 新吾が声をかけると、前田はからっぽに頷いた。

行きとは違い、今度は新吾が先頭に立って扉を開けた。

 不思議なことに壁の発光は収まっていた。塵一つ落ちていなかった床には下の階と同じように椅子や机が、少ないが散乱していた。

 しかし新吾も前田も、さほど驚きはしなかった。単純に慣れてしまったのか、感覚が麻痺しているのか、多少の異常現象に対する恐怖心は無くなっていた。

 一つ角を曲がったところで、割れた窓から猛烈な風が吹き込んできた。

 新吾は態勢を低くして踏ん張った。足元のゴミや空き缶が風によって飛ばされ、転がっていく。

 そんな中、背後で何かが激しくぶつかるような大きな音が轟々と吹き荒ぶ風の音の中でも、はっきりと新吾の鼓膜に届いた。

 やがて風が止むと、カラカラと空き缶が惰性で転がっていく音だけが残っていた。

「凄い風だったね」

 新吾があまりの風に呆れたように振り返ると、前田も少し笑っているようだった。

 ――ひた、ひた。

 新吾は風でぼさぼさになった髪を整えながら、出口に向かって歩き始めた。

 ――ひた、ひた。

 新吾は違和感を覚えた。初めは後ろを歩く前田の足音が反響しているのかと思っていたが、それとは違う何かが二人の後ろから近付いてくる気配がした。

 ――ひた、ひた。

 前田も音に気が付いたらしく、立ち止まって振り返っている。

 近付いてくる音はまるで風呂上がりにフローリングを素足で歩いたような、皮膚が床から剥がれるときの足音に似ていた。

 ――足音? まさか!

「指切り様っ」

 新吾の思考の結論を前田が口にした瞬間、突風と共に、窓枠がガタガタと音を立て始めた。それはまるで目に見えない怪物が、二人に早くここから立ち去れと強迫するかのようでもあった。

 新吾達は駆け出していた。

 暗闇の中、色々な物に躓き、ぶつかり、転びながらも二人は足を止めなかった。階段を転がるように駆け下り、障害物の置かれた一階の階段は途中から飛び降りた。奇跡的に着地点には何も無く、激しく手を着いたくらいで大きな怪我はしなかった。

 二人が建物を飛び出すと、外は猛烈な風が吹き荒れていて、一面に伸びたススキは起き上がる間もなく風によって押し倒されていた。

 二人は風に煽られて、何度も転びそうになりながらも、無事に敷地の外まで逃げることができた。敷地の脇に出たところで、もう走ることはなかったが、二人は常に背後には気を配りながら学校の方へ向かって歩いていた。

 音を立てて吹き抜ける風を正面から受けて、新吾のシャツの背が脹れ上がる。上気した頬や恐怖から滲み出た油汗が冷やされて、気化熱が余剰な興奮を奪っていくようで、とても心地良かった。

 隣を歩く前田を横目に見ると、下を向いていて、かなり疲れているように見えた。懐中電灯で道を照らすことも忘れていたが、街灯の灯りがあるだけで新吾に不満はなかった。

 無言のまま、待ち合わせをした正門の前までやって来ると、二人は何となく歩みを止めた。

「……あ、そういえば、今、何時?」

 折れそうなほど大きく揺さぶられる桜の木を見上げていた新吾に、敷地を出てから初めて前田が声を掛けた。葉と葉の擦れ合う音がうるさくて、隣に立つ新吾に話し掛けるだけでも、前田は口に手を添えて声を張っていた。

「え? ああ、十時半を少し回ったくらい」

 丁度通りかかった自動車のヘッドライトの明かりで時計の文字盤を見て、新吾も精一杯大きな声で答えた。

 新吾の言葉を聞いた前田は、少し思案するように顎に手を当てていた。

「何かあるの?」

 一層強くなる風の中で、新吾は殆ど叫ぶようにして問いかけた。

「指切り様の特徴のもう一つなんだけど、指切り様はお願いをしてから二十四時間以内に必ず呪った相手を殺してくれるんだ。それで……」

「ちょっと待って」

 前田が説明を始めたところで、新吾は前田の目の前に手を突き出して、言葉を遮った。

 前田は不服そうにしていたが、新吾が問題の方へ指をさすと、しぶしぶそちらへ顔を向けた。

 新吾が指をさした先には、先ほど通過したはずの自動車がハザードランプを点けて停車していた。

 二人が無言で見つめていると、車内灯が点き、運転席の人影が運転席と助手席の間へと移動した。

 見られていると新吾は思った。

 すると運転席の扉が開き、大きな人影が車から現れた。そして人影はそのまま真っ直ぐに新吾達の方へ向かって歩き始めた。

 新吾は指切り様のところに行ったことが知られるかもしれないと急に怖くなり、隣の前田をチラリと横目で見た。表情を窺い知ることは難しかったけれど、前田が既に逃げる態勢を取っていることは分かった。

 もう一度向かってくる人影に目を向けると、聞き取れはしないものの、二人に何か声を掛けているようだった。

 新吾は前田の肩を叩くと、それを合図にして走り出した。前田は少し反応が遅れたが、迷いなく新吾とは別の方向へ走り出した。

 新吾が走りながら背後を窺うと、人影はどちらを追いかけるわけでもなく、立ち尽くしていた。

 その姿が何だか滑稽に見えて、新吾は自分でも気付かないうちに声を上げて笑っていた。

 新吾はその笑い声が風に紛れて自分の耳に届かないことが分かると、今度は黒く濁った夜空に向かって吼えた。

 今日体験した説明のつかない不思議な現象や、今まで我慢していた家族や学校や自分のことも、ついでにまとめて吼え散らしながら走り続けた。

 何かが変わる気がした。何かが動き出す気がした。

 これから自分を取り巻く世界が一変するという確信の中で、小さな獣は希望に向かって吼え続けた。

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