第三章 4
日の傾きが早くなり始めた、ある放課後のこと。いつもの通り、新吾が帰り仕度をしていると、そこに大野達が机を囲うようにして詰め寄って来た。
指切り様に執心して新吾への嫌がらせも忘れていた大野達だったが、最近になって再び新吾への攻撃が行われ始めていた。
大野達は少し前に指切り様の出ると言われている、通称お化けビルを探険したらしいが、何も収穫が無かったことで興味を失ったらしく、興味の矛先が新吾に戻ったという表現が適切だった。
「おい。お前、最近あの前田と仲良くしてるらしいな」
「……は? 何を言ってるのか分からないんだけど」
新吾は机の中の教科書を全部通学鞄に移し終えると席を立った。
「お前が前田と図書室から出てくるところを見た奴がいるんだよ」
大野は机に手を置くと、少し身を乗り出すようにして凄みを効かせた。
大野はここのところ、目に見えて身長が高くなっていた。転校してきたばかりの頃は新吾よりも少し背が高いくらいだったが、夏休み明けには新吾の頭一つ分くらいの身長差が生まれていた。それに伴って声も低くなり、相手を威圧する行為に一段と厚みを持たせていた。
しかし、新吾は大野の威圧に屈するわけにはいかなかった。ここで負けてしまうと連鎖的に秘密の場所が知られて、最悪の場合、あの場所を大野達に乗っ取られてしまう可能性があった。
「いつも図書室には行くけど、一人で本を読んでるだけだよ」
新吾は最悪の状況を回避すべく、前田との無関係を主張した。
「別に俺は、お前が誰と仲良くしようと気にしないけど、しょうもない奴がしょうもない奴とつるんでて、お似合いだなってことが言いたかっただけだから」
大野が言い終えると、周りにいた仲間達が一斉に笑いだした。
新吾は話が食い違っていたことに安心する一方で、馬鹿にされた怒りが込み上げていた。
「お前らこそ、類友で馬鹿ばっかりの集まりだろ」
新吾の言葉に大野達から笑いが消え、今度は一斉に罵倒が新吾に浴びせられた。
内の一人が新吾の襟を掴むと、後ろのロッカーまで無理矢理に引っ張っていく。
放課後の教室は一気に騒然となり、教室に残っていた生徒だけではなく、騒ぎを察知した他のクラスの生徒も廊下から覗いていた。
ロッカーに押さえつけられた新吾は力一杯抵抗したが、なかなか抜け出せそうになかった。そして襟を掴んでいない方の腕に、弓の弦を引くかのような力が込められているのが、抵抗する新吾の目に飛び込んできた。
「お前の人を馬鹿にした態度が、最初からむかついてんだよ!」
「何をやっているんだ!」
怒りの念の込められた拳が新吾の体に突き刺さる直前に、その場を静止させるほどの怒声が教室に響き渡った。
新吾達が驚いて、その声のする方に顔を向けると、そこには職員室に戻ったはずの倉田が立っていた。
教室に残っていた生徒全員がその迫力に全身を強ばらせ、自分に飛び火しないように下を向いてやり過ごそうとしていた。
新吾は自分の襟を掴んでいる手に力が入っていないことに気が付くと、その手を乱暴に払いのけた。
「お前達は話があるから残れ。他の奴は、さっさと帰れ!」
再び怒声が響くと、教室に残っていた生徒や野次馬をしていた生徒は我先にとその場から走って離れていった。
「廊下は走るな!」
三度目の怒声も今までの声量と変わらないくらい張っていたが、走る生徒の足音に掻き消されて聞き取りづらくなっていた。
足音が聞こえなくなると、今度は打って変わって静寂が辺りを包んだ。
倉田は少々呆れた顔をしていた。
「それで、原因は何なんだ?」
倉田は近くの席に座ると、頬杖を着きながら新吾達に問いかけた。
新吾達は誰一人として口を開こうとはせず、倉田はあからさまに面倒臭そうな顔をしていた。
「早く言わないと帰れないぞ」
倉田は足を組み、空いていた手を机に置くと指で一定の調子を刻み始めた。
廊下から元気な女生徒達の話し声が聞こえ、段々と近づいていた。女生徒達が新吾達の教室を通過する際に、新吾はその中の一人と目が合った。向こうもこちらの異様な空気に気が付くと、急に声を小さくして教室の様子を窺いながら通り過ぎていった。
新吾は教室に備え付けられた時計を見た。
この後は塾が控えていて、新吾としては早く帰りたかった。受験への追い込みが本格的に始まり、その一環として授業開始時間が三十分繰り上げになっていたため、このまま長引くと授業に間に合うバスを逃してしまいそうだった。
「こいつらが、先にケンカ売ってきたんです」
自分でも気付かないうちに緊張していたのか、言葉の始めが掠れてしまったが、新吾の言葉で沈黙は破られた。
「佐竹はこう言ってるけど、どうなんだ?」
倉田は新吾の話を聞き終えると、体は動かさずに視線だけを大野達に向けた。
すると、大野が一歩前に出た。
「違いますよ。こいつが未だにクラスに馴染めてないから、話し掛けてあげたんですよ」
大野は成績の方はあまり良さそうではなかったが、自分の不利益になる状況を回避する、いわゆる処世術に長けていた。大人からしてみれば、憎めない性格に見えるのだろう。
「じゃあ、何でケンカになるんだ?」
「佐竹が俺達のことを馬鹿にしたから、こいつが頭にきちまっただけです」
新吾に手を出した少年は、大野に指をさされて罰が悪そうにしていた。
「仲良くしようとしてケンカしてたら意味ないだろ。それから佐竹も少しはみんなに合わせろ」
倉田は、これで説教は終わりと体現するように席を立った。
「返事は?」
「はーい」
大野はお調子者の仮面を被り、この場をやり過ごそうとしていた。
大野の返事に呆れながらも、倉田は新吾の返事を待っていた。
「……はい」
新吾は絞り出すようにして、やっと微かな声で返事をした。
「おし。お前達、気を付けて帰るんだぞ」
倉田は双方からの返事を和解と見なし、教室から出て行った。
新吾はバスの時間が差し迫っていたので、去った倉田の悪態を付いている大野達をよそに、教室から飛び出した。
大急ぎで家に帰り、バス停まで走ったが、無情にもバスは目の前で新吾を置いて走り去り、新吾はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
二十分後のバスに乗り、遅れて教室に入ると、新吾は先生に叱られてしまった。
新吾は遅刻の理由を説明したが、気が緩んでいると、それも一蹴されてしまった。
その後の授業は大野達への怒りや、事情を理解しようとしない講師の頭の硬さに苛立ち、和気藹々としていた塾生からも馬鹿にされている気がして、全く授業に集中できなかった。
翌日の昼休みに、新吾は昨日の出来事を前田に話した。
「どうして相手なんかしたのさ? らしくないよね?」
前田は新吾の味方になるわけでもなく、率直な疑問を口にした。
前田の質問を受けて、確かにそうだと、新吾は思った。秘密の場所の存在は気付かれていなかったのだから、普段の自分なら相手をせず適当に躱していたはずなのに、昨日に限って何故対抗心など持ってしまったのだろう。
新吾は自分の琴線がどこに張られているのか、自分でも分からなかった。
「ま、面倒事が嫌なら、次からは気をつけるんだね」
そう言って前田は、自分のことを話し始めた。またお前の愚痴か、と思いつつも新吾は聞き役にまわった。
新吾は前田の人を見下した話し方にも、いつの間にかすっかり慣れてきていた。
初めのうちは言動に対して密かに苛立つことも多かったが、しばらく共に過ごしてみて、強い言葉を使うことで自身を守っているのだと分かると、何だか滑稽に見えるようになっていた。
加えて前田の話はどこか誇張されていて、自分に有利な展開ばかりだった。嘘をついているとまでは言わないが、話半分くらいに受け取るのが丁度良い具合だと理解できるようになっていた。
そうして、前田の一人語りに適当に相槌を打っていると、昼休みの終了を知らせる放送が始まった。
前田はまだ話し足りなそうにしていたが途中で切り上げ、二人はそれぞれの教室に戻った。
新吾は自分の気持ちを他人に話したことで、鬱屈していた気持ちも幾分晴れた気がしたが、今度は前田の言った通り、何が原因で自分らしくない行動を取ったのか、それが気掛かりになっていた。
新吾は、自身を冷静に分析できると自負していたが、心の中に降って湧いた未知の感情をどう処理したら良いのか分からずに、無視したくてもはっきりとその存在を感じる、口内炎のような煩わしさを覚えた。
新吾は帰宅後、前日に塾で出された宿題を前にしながらも、全く手をつける気にならなかった。
口内炎を気にしているわけではなかったが、今は何に対しても無気力になっていた。
いつの間に眠ってしまっていたのか、新吾は信子の呼ぶ声で意識を取り戻した。
点けていたはずの電気の消された真っ暗な部屋は、見慣れた家具も僅かな光で朧気に輪郭を認知することができた。
「新吾、電話」
扉を開けて呼び掛ける信子の顔が逆光になっていて、新吾の方からでは表情を確認することができなかったが、新吾には母の声がどこか弾んでいるようにも聞こえた。
「……誰から?」
口を開けて寝ていたのか、喉がカラカラになっていた。
「出れば分かるから。ほら、早く」
新吾の気のせいではなく、信子は上機嫌になっていた。
新吾は浮かれる母に少しの面倒臭さを感じながら、椅子から立ち上がった。
新吾は電話を取りに行く途中に、相手は誰なのかと想像を巡らせてみたが、見当もつかなかった。前田とは電話番号を交換していなかったので、彼からでないことは間違いなかった。
新吾は椅子に座りながら寝ていたことが原因とみられる首の張りをほぐしながら、相手の分らない受話器を耳に当てた。
「もしもし?」
「もしもし。久しぶり、分かる?」
新吾は受話器越しに聴こえる懐かしい声に、脳が一気に覚醒した。
「え、トウちゃん? どうしたの?」
電話の相手は、以前の学校で仲の良かった東浩太だった。
東とは入学してすぐに意気投合し、偶然にも一年生から五年生になるまで同じクラスで、一番の親友だった。新吾は東を音読みして、トウちゃんという愛称で呼んでいた。
「トウちゃんって、懐かしい呼ばれ方だな」
新吾は初め、自分にトウちゃんと呼ばれることが懐かしいという意味だと思っていた。
「最近みんなで麻雀を始めてて、そこからトンちゃんって呼ばれるようになったから、なんか懐かしかったよ」
東の声は友との久しぶりの会話を素直に楽しんでいるものだったが、新吾は同じ気持ちを共有することはできなかった。
そもそも、東のあだ名を決めたのは新吾だった。
国語の授業で東という漢字を習った際に、新吾が初めてトウちゃんと呼び始めてから、クラスメートもずっとトウちゃんと呼んでいた。
それなのに新吾が転校してたった半年で、クラスメートは新吾を忘れてしまったかのように、東のあだ名を変えてしまっていたことに、悲しいとも悔しいとも形容し切れない、やるせない気持ちが込み上げていた。
「それより、そっちの学校はどう?」
「え? ああ、別に普通だよ」
新吾は気落ちしていることを悟られないように、努めて明るく答えた。
「普通って何だよ。普段は友達と何してんだよ?」
東の口調は変わらず、新吾の気持ちには気付いている様子はなかった。
「放課後は受験対策で塾ばっかりだから、あまり遊んでないよ」
「ふーん。確かに夏休みもこっちに来ると思ってたのに、来られなかったみたいだし。やっぱり、受験って大変?」
「そこそこ大変だよ。やっぱり」
新吾は、話題が学校生活から受験に移ったことに安堵した。
その後も、東は自分のことや学校のことを色々と語ってくれた。修学旅行に京都に行ったことや、かねてから噂になっていた二人が話さなくなったこと、今年入ってきた先生が面白いことなど、東の話に耳を傾けていると、その光景を容易に想像することができた。
しかし、その想像の中に自分が登場することは決してなかった。
どんなに光景を思い浮かべても東やクラスメートが今、何を考え、何を感じ、何を見ているのか、それを想像することはできなかった。
あれほど身近に感じたクラスメートや仲間だと思っていた東が、ひどく遠く離れてしまったみたいだった。
「……そろそろ、晩御飯だから」
これ以上電話を続けていると何かを失ってしまうような気がして、新吾は電話を終わらせるために嘘をついた。
「もうそんな時間か。長々とごめんな」
「いや、そんなことないよ」
「久しぶりに話せて良かったよ」
「俺もだよ。今度は、こっちから掛けるよ」
「うん。またな」
新吾は、静かに受話器を置いた。
それと同時に、自分でも驚くほどに大きな溜め息をついた。
「トウちゃん、元気してた?」
何も知らない信子の脳天気な声に一気に頭に血が昇り、新吾は叫び出したくなった。しかし、その気持ちを抑え込むと無言で部屋に戻った。
後ろ手に扉を閉めると、灯りを点けずにベッドに飛び込み、顔を枕に押し当てて、抑えていた叫びを解き放った。新吾は枕が声の拡散を防いでくれると信じて、自分の鼓膜に残響がするほど叫び続けた。
やがて、幾分気持ちを落ち着かせた新吾は枕から顔を離すと、仰向けに寝返りをうって真っ暗な天井を見つめた。
少し酸欠気味になっていた新吾の胸は、呼吸を整えるために大きく上下していた。
呼吸が整ってくると、再び心の底の不満の種火がじりじりと熱を取り戻し始めた。
「……薄情者」
新吾は暗闇に浮かぶ懐かしい面々に向かって、心中を口にした。新吾の言葉は一秒も留まることなく、闇に吸い込まれて消えた。
みんな変わってしまった。たった半年離れただけで、新吾を忘れ、毎日を楽しく過ごしている。自分が毎日孤独に耐えている間も、みんなは笑顔で生活していたのかと思うと、悔しくて非難せずにはいられなかった。
しかし一方で、もう一人の分析家の自分が囁きかける。
――本当にみんなが変わってしまったのか? 電話越しのトウちゃんは昔のままだったぞ。本当に変わってしまったのは、自分の方じゃないのか?
新吾は勢い良く体を起こすと、枕を掴み、思い切り壁に投げつけた。
壁に当たった枕は力無く床に落ち、整えたはずの新吾の呼吸もまた荒くなっていた。
新吾も心のどこかでそれに気が付いていた。気付いていたから認めたくなくて、目を当てないようにしていた。
許さないと決めたはずの両親とは、今では関係が修復されようとしている。一人を決めたはずの学校では前田と仲良くなり、あまつさえそれが原因で、自分が見下していたはずのクラスメートに見下されてしまっている。
自分の本心と向き合っていると、新吾は昨日の自分らしくない行動に出た原因に、はたと気が付いた。
あのとき激怒したのは前田を友達と認めてしまうことで、散々嫌っていたはずの新しい学校に馴染み、当初の決意を忘れてしまったことと同義になる。新天地において新たに居場所を作ることで、別れた東や友達を忘れてしまう気がして、頑なに交流を拒み続けていたが、自分と同じ境遇の人間と傷を舐め合う形で交流を持つようになってしまった。そのことを自覚しながらも、人の温かみに抗うことができなかった新吾は、心に頑丈な蓋をして、可能な限りその事実に目を逸らしていた。そしてそれを昨日の放課後、大野が無遠慮に蓋を開けようとしたから、あんなに過敏に反応してしまったのだと新吾は気が付いた。
新吾にとって、これは良くないことだった。学校生活において、余計な波風を立てないように過ごすつもりだったが、ここにきて弱点を作ってしまった。
きっと大野達には、新吾が何に反応しているのか理解できないだろう。しかし、理解できなかったとしても、今まで無反応だった新吾が食い付いてくるのであれば、容赦なくそこを突いてくるだろう。
そして、そこを突かれる度に新吾は、薄情者、裏切り者、と責められている気分になる。結果、そんな罵声を我慢できるはずがなく、毎日のようにケンカに発展することは火を見るよりも明らかだった。
だから、大野達がそれに気付く前に弱点を消し去らねばならなかった。
――もう、秘密の場所には行かない。前田にも……、会わない。
これ以上の弱点を作らないために、新吾は再び一人になる決意をした。
翌日、新吾は秘密の場所に行かなかった。
ここ最近はずっと秘密の場所に通っていたので、久しぶりに昼休みを教室で過ごすことに新吾はどことなく居心地の悪さを覚えた。持参した本に全く集中することができず、文字の羅列を目で追う作業を一行ごとに繰り返しているだけだった。
早く休み時間が終わらないかと本を手にしながら時折時計に目をやるが、時計の針は時間の流れが狂ってしまったのかと錯覚するほど進みが遅く感じられた。
――今も前田は、あの場所で俺が来るのを待っているのだろうか?
昼休みの半分が過ぎたあたりから、新吾の頭の中でそればかりが浮かんでいた。
しかし、昨日の今日で誓いを破るわけにもいかず、悶々とした気持ちのまま残りの時間を過ごし、昼休み終了の放送が流れ始めた瞬間に、新吾は思わず安堵の溜め息を漏らした。
校庭から帰って来る生徒達の声で俄かに校舎が騒がしくなる。
新吾は本を閉じて、次の授業の準備をしながら休み時間が早く終わって欲しいと思う学生なんて相当珍しいだろうなと声を殺して笑っていた。
新吾が席に座ったまま何気なく廊下に目をやると、開けっ放しになった扉から途切れることなく行き交う生徒の姿が見えた。
廊下いっぱいに広がって歩く女子集団や、その女子達の間を、大声をあげながら走り抜けていく数人の男子。
そして新吾の目はゆっくりと通過する前田の姿を捕えた。
瞬間的に目を逸らさなければと顔を逸らそうとしたが、前田と目が合ってしまい、それは適わなかった。
前田は少しだけ顔を教室の方へ向けて、あたかも他クラスを興味本意で覗いているといった素振りだったが、その目は真っ直ぐ新吾を見据えていた。
新吾を見つめる瞳は怒っているわけでもなく、また許しているというわけでもなく、心情の読み取れない不気味な目をしていた。
やがて前田が視界から消えると、新吾は自分が息を止めていたことに初めて気が付いた。
前田のことだから嫌味の一つでも言ってくるのかと思っていたが、以外にも穏便だったことに新吾は驚いた。しかし、それが他人の目を気にして声を掛けなかったのだと気が付くと、前田の方が冷静さを保っているような気がして、どことなく悔しかった。そして、入れ替わるように倉田が教室に姿を現し、立っていた生徒が慌てて自分の席に着く見慣れた光景が今日も繰り返された。
新吾は授業中も前田のあの目を思い出していた。
元々約束を取り付けているわけでもなく、つまり毎日のように通う義務などなく、気が向いた時に利用させてもらうだけの関係なのだから自分が負い目を感じる必要はないのだと、新吾は午後の授業を使って自分に言い聞かせた。
午後の授業が終わり、掃除を終わらせると新吾は走って家に帰った。
季節は着実に秋へと移り変わり、過ごし易い日々になってきているものの、それでも走っていると、じんわりと全身に汗が滲む。
しかし、多少汗をかいたとしても今は一秒たりとも学校に長居していたくなかった。
走っただけのことはあり、いつもより早く家に着いた。塾の授業開始までに少し余裕があったが、新吾は早めに家を出ることにした。
バスに揺られて駅に着く頃には、背中に張り付いていた服も乾き、すっかり汗は引いていた。
塾に着くと挨拶を済ませ、新吾は教室へ続く階段へ向かった。階段入口の枠と天井の僅かに空いている壁面に、切磋琢磨、と一字ずつ印刷された紙が貼られていて、受験に臨む生徒達を鼓舞している。他にも諺や慣用句、まだ全ての読み方は分からないが英語で書かれた掲示物が階段の壁に所構わず貼り付けられている。
字面が格好良いと思った言葉は、意味を調べるなどして知識を深めることになったが、努力と根性だけは無骨で好きになれなかった。
階段を上がって二階の教室に入り、定位置に座って参考書を机の上に並べると早速手持ち無沙汰になってしまった。
一人しかいない静かな室内は自分の息づかいが聞こえてくるようだった。じっとしていると、どうしても前田のことが頭に浮かぶので、新吾は構内をぶらついて時間を潰し、しばらくそうしていると塾生が続々と姿を見せ、授業が始まった。
最近は塾に行くのが億劫になっていたが、余計なことを考える暇が無いくらいに詰まった授業内容が今の新吾には助けになっていた。
そして二時間の授業が瞬く間に終わり、新吾は荷物をまとめると少し憂鬱な気持ちで靴を履いて帰路に着いた。
停留所には既に目的のバスが到着していた。
バスに乗り込む列に並び、新吾が乗車する頃には身動きが取れないほどの乗客率になっていた。新吾が乗り込んだところで機械的な警告音と共に扉が締まり、バスは滑るように夜の町へと走り出した。
新吾は追い越していく車のナンバーを十になるように四則演算をしながら、自分の降りる停留所までの時間を潰していた。
初めは寝てしまおうと目を瞑っていたが、そうしていると必要のない罪悪感が心を侵蝕して、明日すぐにでもあの場所へ走り出したくなってしまうので、その衝動を紛らわすために意図的に頭を別の事で働かせていた。
バスを降りると先程まで感じなかった風が吹き始めていた。風は湿気を帯びて、雨の気配を含んでいた。新吾は雨を警戒して、少しだけ歩調を早めて家に向かった。
家に着くと新吾は用意されていた晩ご飯を食べた。急に口数が減った息子に対して両親は少し困惑していたが、それでも原因を問いただすことはしなかった。
それが有難く感じる一方で、全てを見透かされている気がして、新吾は苛立ちも覚えていた。
新吾は風呂を済ませると、いつもより早く床に就いた。布団の中で目を瞑っていると、いつから降っていたのか、雨粒が窓を叩く音が聞こえた。その音が荒れてひび割れた心の大地に染み込んで潤いを与えるようでとても心地良く、耳を傾けているうちに新吾はいつの間にか眠りに落ちていた。
翌日、新吾が目を覚ますと、昨晩の雨が朝になっても降り続いていた。いつもなら煩わしく思う雨も、今朝は悪くない気分だった。
新吾は朝の仕度を全て済ませると、いつもの時間に傘を差して登校した。
道中、時折吹く風が少し肌寒く感じるようになった。新吾はそろそろ長袖を出してもらおうと思いながら、季節の移り変わりを肌で感じていた。
学校に近付くにつれて、色とりどりの傘が花畑のように道路を埋めていく。
あまり会いたくない前田とは家の方向が逆なので登校中に遭遇することはないが、校舎内で不用意な遭遇をしないことだけを祈りながら新吾は正門を潜った。
幸いにも下駄箱で会うこともなく教室へ向かうことができた。その後もつつがなく午前授業を終え、昼食を済ませた後、新吾は昼休みを迎えた。
雨は午後になっても降り続け、教室には普段なら校庭へ飛び出して行く生徒が残っていて、校内はいつもより賑やかになっていた。
大野達も教室で箒と雑巾を使って野球をしていた。数人の女子が止めるように訴えていたが、大野は全く聞く耳を持たなかった。
新吾は面倒事が起きる前に早々と教室を出て、騒がしい校舎をぶらついた。
前田がいる特別棟を避け、一階の職員室の先にある渡り廊下を使って体育館まで新吾はやって来た。
体育館脇のコンクリート製の廊下からは校庭を見渡すことができる。
新吾は土足と上履きの境界線になっている三段しかない階段に腰掛けると、雨に濡れる校庭を眺めた。
どこかで数人の男子生徒が鬼ごっこでもしているのか、体育館の方まで元気な声が響いてくる。
新吾は少しだけ視線を上げて、校庭から特別棟に目を向けた。視線の先には、いつも二人で並んで座る図工室のベランダが見える。
どんなに目を凝らしても、そこに人影を見つける事は出来ず、きっと前田は準備室に潜り込んでいるのだろうと、新吾は思った。
新吾は再び校庭に視線を戻すと、暇潰しの本を忘れてしまったことをぼんやりと後悔しながら、昼休みの終わりが来るまで、ただただ雨を眺めていた。
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