第三章 3

 翌日も、朝から校内は指切り様の話題一色だった。けれど、やはり新吾だけは話題の外にいた。

 昼休みになり、新吾は図書室にやって来ていた。

 いつもなら教室で本を読んだり、机に突っ伏して寝たふりをしていたりするのだが、教室にいると指切り様の話が嫌でも耳に入ってきて、とても耳障りだったので人気の無い場所を求めて歩き回っていたら、新吾は図書室に辿り着いていた。

 入り口に立って室内を見渡すと、数人の生徒の姿が見受けられた。

 皆一様に本に没頭し、聞こえてくる声は校庭で走り回っている生徒のものだけだった。

 いつまでも入り口に突っ立っている新吾を訝しむ生徒が本から顔をあげてその姿を一瞥し、また本に向き合っていた。

 新吾はここでなら時間が潰せると思い、大人数が座れるように設置された長い机の横を通り過ぎると、奥に並んだ書架の間を眺め歩いた。

 新吾は目についた一冊を手に取ると、パラパラとページを捲り始めた。

「佐竹君」

 いい加減立って読むことにも疲れ、読み続ける集中力も失いかけていた新吾は、誰かが近づいていることには気が付いていたが、まさか名前を呼ばれることまでは想定しておらず、声に驚いてそちらに顔を向けた。

「そこまで驚くことはないだろ」

 そこに立っていたのは、前田だった。

「何を読んでるの?」

「……別に」

 新吾は動揺を見せないように振る舞いながら、読んでいた本を抜け落ちた歯のようにぽっかりと空いた隙間に戻した。

 新吾は、突然前田が接触してきた意図が読めずに不審に感じた。

「珍しいね、図書室にいるなんて」

「……教室はうるさくて」

 新吾は自分が夏祭りのときに言葉を交わさずに擦れ違ったのは、この前田だったのか自信が持てなくなっていた。

 物静かだと思っていた前田は、言葉を交わしてみれば、なかなかに饒舌だった。

「ああ、指切り様か。うちのクラスもそればっかりだよ」

 このとき、新吾の頭の中で一つの妙案が閃いた。

 前田ならば指切り様のことを話してくれるのではないか。この饒舌であれば、少し誘導してやるだけでべらべらと喋るのではないかと、新吾は画策していた。

「程度が低いよね」

 しかし、新吾の思考は前田の発した言葉によって凍り付いた。

「怪奇現象とか、今どきそんなものを本気で信じているのなんて、お子様くらいだよ」

 前田の口調は完全に指切り様を信じている者達を馬鹿にしていた。

 ここで指切り様について追求すれば、前田はきっと新吾のことも下にみるだろう。新吾は、こんなことで自尊心を傷付けられることは我慢できなかった。

「……そ、そうだね。あいつら、はしゃぎ過ぎだよな」

 新吾はこの場は仕方なしに前田に話を合わせた。

 前田はそんな新吾の心を知ってか知らずか、その後も一人で指切り様を信じる者達を馬鹿にし続けた。ただ、本心では指切り様について知りたい新吾からしてみれば前田の愚痴に付き合わされるこの時間は無駄でしかなかった。

 前田の話に新吾が適当に相槌を打っていると、校内放送で昼休みの終了を知らせる音楽が流れ始めた。

「あ、昼休み終わったね」

 いつもは何とも思わない曲が、今の新吾にとっては苦痛からの解放の鐘の音となっていた。

「そうみたいだね」

 前田の声は今までの勢いが削がれていて、少しだけ残念そうに新吾には聞こえた。

「じゃあ、俺は戻るから」

 新吾はそれだけ伝えて、前田に背を向けて歩き出した。指切り様の情報を得られないのであればあまり深く関わりたくはなかった。

 関心があった前田との対面も、今の会話で急速に熱を失ってしまった。

「佐竹君」

 新吾は再び前田に呼び止められ、少し鬱陶しさを感じながら、そちらを振り返った。

「俺、昼休みは大体ここに居るから、明日はもっと話そうよ」

 転校してきたばかりの頃以来の突然の友好的な申し出に、新吾は思考が停止し、意思とは無関係に頷いていた。

「……君が想像した通りの人で良かったよ」

 前田が自分をどんな風に想像をしていたのか、新吾には見当もつかなかったが、当の前田は満足そうに先に図書室を出て行った。

 本を読んでいた生徒も全員が既に教室に向かっていて、司書の先生も教室に戻るよう促している。慌てて新吾も廊下に出ると、既に前田の姿は見えなくなっていた。

 ――走って戻ったのか?

やっぱり前田は変わった奴だと新吾は思った。

 前田の自分本位な話し方を聞いていると、何となく彼を虐げる連中の気持ちも理解することができた。

 しかし、新吾はそんな彼と関わりになることを選んだ。

 無意識に頷いたことが、自分の本心では誰かを求めていたということを物語っているような気がして新吾は自己嫌悪に陥りそうになったが、実のところ、その胸に去来しているのは、明日からは一人ではないという温かな感情だった。


 翌日の昼休み、一晩寝て冷静になった新吾は図書室に行くべきか迷っていた。

 残り半年を平穏なものとするため、これまで通り他の級友と同じように前田とも関わらないよう過ごし、それで前田が新吾から興味を失い離れてしまえば何も心配することはないが、前田の普通ではない性格を推察して考慮するに、下手に逆恨みされて騒ぎになってしまった場合、新吾としてもそれは都合が良いとは言えなかった。

 余計な波風は立てない方が賢明だと判断して、結局新吾は図書室へ向かった。

 新吾の通う学校は、ほぼ鏡文字にしたL字型の構造をしている。L字の縦線部分に当たる一階には校長室や職員室、保健室が設置され、二階は一年から三年までの低学年教室、三階は四年から六年までの高学年教室が配置され、今から向かう図書室は横線に当たる部分に設置されている。

 図書室や図工室といった特別教室は、全てがこの横線に収められている。

 三階の横線の突き当たりには図工室があり、図工準備室を挟んで手前に図書室がある。二階は奥の教室が家庭科室、手前の教室は多目的室、一階は共に倉庫になっている。

 そしてL字の交点で、本来伸びない方向に向かって特別教室が一つ設置されている。

 三階は音楽室。二階は理科室。一階は、三年生だけが使う下駄箱になっている。

 T字とも取れるが、校舎を倉田に案内してもらった時にL字と表現していたので、新吾の認識はTではなくLが定着していた。

 図書室に着くと、昨日と変わらず数人の生徒しかおらず、室内は閑散としていた。

 その中に前田の姿は無かったので、新吾は前田と会った後方の書架の方へ向かった。等間隔に並ぶ本棚の間を探し歩いたが、どうやら前田は図書室にはいない様子だった。

「自分から誘っておいて、何なんだよ」

 新吾は誰にも聞こえないように不満を口にした。

 しかし不満はあったが、これを武器にして前田を牽制することもできると思うと、新吾は今日ここに来た価値があったと思えた。

 新吾は頬の緩みを自覚しながら昨日の読みかけの本を手に取ると、空いている席に座り、早速文字を追い始めた。

 新吾の意識が本の世界に引き込まれかけた頃、突然新吾の隣の席に誰かが腰掛けた。

 新吾が顔を上げてそちらを見ると、座っていたのは前田だった。

「悪い、遅くなった」

 前田は新吾の方を見ることなく、肩を上下させていた。

 新吾は、ここまで走って来たのかと思ったが、それにしては前田の耳が異常に赤くなっていた。

「何かあったの?」

 新吾が問いかけると、前田は目だけを動かして新吾を見た。

「山口と手下の馬鹿どもが、やけに絡んできただけだよ」

「山口?」

「俺の教室で偉そうにしている馬鹿だよ!」

 前田の語気は荒く、怒りの炎が再燃したようにどんどん顔が真っ赤になっていった。

 怒りと比例するように前田の声が大きくなり、新吾達は図書室にいた他の生徒から非難の目を向けられていた。

「……ちょっと、こっちに来て」

 さすがに前田も居た堪れなくなり、新吾を誘って席を立った。

 新吾は自分は関係無いと主張したかったが、もはや前田の仲間と認識されていて、視線が自分にも突き刺さっているのを感じていた。

 新吾は仕方なく本を閉じると、前田の後を追った。

 本棚の間を進むと、前田は図書室の一番奥の窓際に立っていた。

 前田は窓を隠すようにカーテンを引くと、口の前に人差し指を立て、カーテンの裏に入っていった。

 新吾が前田の行動を見守っていると、下半身しか見えていなかった前田の足が見えなくなり、直後、小さな足音が聞こえた。

 新吾がカーテンを捲ってみると、前田は外に設置されたベランダの上に立っていた。

「見つからないうちに。早く」

 言葉を失う新吾に向かって、小声で前田が急かす。

 新吾は俄に心が踊り、持っていた本を近くの本棚に突っ込むと、誰も見ていないことを確認してから窓枠に足を掛けたまま、残っていた足で床を蹴って窓を乗り越えた。

 着地したベランダはとても狭く、半身にならないと擦れ違うことも難しい。

 しかし、窮屈さより今、新吾の心は解放感や高揚感で溢れていた。

 ベランダから見る景色は視界を遮る物が無く、校庭全体を見渡すことができた。

 校庭は生徒で溢れかえり、新吾達の方など気にかけるはずもなく、誰もが無邪気に走り回っている。

 普段は窓から顔を出すことしかできないが、全身が外に出るだけでこんなにも受ける感情が違うものかと、新吾は一種の感動を覚えた。

「見つかると厄介だから、早くしゃがんで」

「ああ、悪い」

 校則でベランダに出ることは禁止されていたので、いつまでも突っ立っている新吾に前田が注意した。

「窓締めて。こっち来て」

「ああ」

 新吾は言われた通りに静かに窓を締めると、中腰になった前田に倣って後を追った。

 前田は一番端まで進むと、そのまま地べたに座った。

 新吾も座ろうとしたが、その前に無人の図工室に目が止まった。誰もいない教室にどことなく新鮮な印象を受けて、新吾は少しの間、教室を見渡していた。

「ここなら職員室から一番遠いから、見つかりにくいんだよ」

「え? ああ、そうだね」

 前田の言葉に答えながら、新吾は図工室から目を離し、前田の隣に座った。

 確かに職員室と図工室は対角の位置にあり、一階と三階という高低差がある分、下手に動かなければ見つかることはなさそうだと新吾は納得した。

「ここには、よく来るの?」

 新吾はサッカーをする男子生徒を見ながら、何気無く問いかけた。

「教室にいると山口達がケンカ売って来るから、無駄な争いを避けるときは来るよ」

「そうなんだ」

「まあ、調子付かせるわけにはいかないから、たまには相手してやるんだけどね」

 言葉だけなら勇ましいとも思えたが、新吾が盗み見た前田の横顔はどこか悔しさを湛えているようにも見えた。

 そこから少しの時間、二人の間に沈黙が降りた。

 沈黙が長引くほど気不味さが増大していった。新吾は何か話題がないものかと思考を巡らせてみたが、そもそも何故今更前田が近づいてきたのか、その真意が掴めないままでは何を話せば良いのか分からずに、結局は沈黙することしかできなかった。

「佐竹君は、何で六年生になってから転校してきたの?」

 沈黙を破ったのは、前田だった。

「え? ……ああ、志望校に近いからだよ」

 新吾は、視点を校庭から随分と高くなった空に変えながら答えた。

「志望校?」

 前田は寄りかかっていた壁から上体を起こしながら、鸚鵡返しのように新吾に聞き返した。

「俺、中学は公立じゃなくて私立に行くんだ。それで第一志望がここから近くて、通学に便利だからって親が」

「何それ? まだ受かったわけでもないのに転校を決めたの? 大した自信だね」

 前田の言うことはもっともだが、相手への配慮というものが欠けていて、新吾は少なからず苛立ちを覚えた。

「……このままの調子でいけば、合格するとは思うけどね」

「へえ。まあ、頑張ってよ」

 前田は新吾の小さな抵抗にも気が付いていないようだった。

 その後も、どちらかが質問をして、それに答えるという断続的な会話が続き、やがて昼休みの終わりを知らせる音楽が校内に流れ始め、曲と共に放送委員の生徒による、校庭に出ている生徒への呼び掛けも行われた。

「そろそろ戻ろか」

 新吾が中腰になって図書室に向かうと、前田も無言でその後に続いた。

 先を行く新吾が図工準備室を通り過ぎる直前に、背後から前田の呼び止める声がした。

「そういえば、この準備室の窓。一箇所だけ鍵が壊れていて開きっぱなしなってるんだよ」

 そう言って、前田は壊れている窓を開閉した。

「雨の日は、ここに入ったりするんだけど、たまに先生が来たりするから、あまりお薦めはできないけどね」

「そうなんだ」

 準備室を覗いていた新吾は、前田に促されて再び図書室に向かった。

 二人は図書室の窓の下までやって来ると、慎重に中の様子を窺い、誰もいないことを確認すると、窓枠を乗り越えて室内に戻った。

 新吾は窓枠を乗り越える際に、体重で手のひらがサッシに押さえつけられて痛かったが、前田が何も言わなかったので口にしなかった。

 二人はどちらともなく歩き出し、一定の間隔に並ぶ書架の間を抜けた。

 本を読んでいた数人の生徒の姿は既に無く、それぞれの教室に戻ったようだった。

 校内には校庭からの賑やかな声だけではなく、校舎に戻ってきた生徒の声も混じるようになっていた。

「一緒にいるところを見つかると色々面倒だから、普段は他人でいよう」

「ん? ああ、分かった」

 新吾も他人の目を気にしていて、一緒にいるところを見つかりたくはなかったので、前田の提案を素直に受け入れた。

「じゃあ、先に行くから」

 そう言って前田は出入口に向かって歩いて行った。

 新吾が何となく後ろ姿を見ていると、前田は廊下に出たところで振り返った。

「俺、大抵の昼休みはあの秘密の場所に居るから、佐竹君ならいつでも来て良いよ」

 前田は自分の用件だけを伝えると、返事を聞かずに新吾の視界から姿を消した。新吾の耳には廊下を駆ける前田の足音が聞こえてきた。

 段々とその足音は小さくなり、やがて完全に周囲の喧騒に紛れて聞こえなくなった。

 どうして前田が自分の秘密にしている場所を教えてくれたのか、新吾には理解できなかったが、秘密の場所という言葉は新吾の心に心地好く響いた。


 それから新吾は、頻繁に秘密の場所に訪れた。

 前田も毎日通っていて、二人はほぼ毎日言葉を交わすようになっていた。

 前田の姿が見えないときは、いつも教室で騒ぎが起きていた。そして、そういうことが起きた次の日はいつも前田が先に来ていて、新吾は彼に愚痴を聞かされていた。

 初めのうち新吾は彼の愚痴を聞き流していたのだが、いつからか自分の愚痴も口にするようになっていた。

 新吾はこの学校に来て、初めて充実した日々を送っていた。

 他人の目を気にしなくてはいけないことだけが面倒だったが、言葉一つ発すること無く、ただ毎日決められた時間を漫然と費やすだけの今までに比べたら、それはとても些細なことだった。

 晴れた日は、いつもの場所で誰にも邪魔されずに好きなことを好きなように話し、雨の日は先生の目を盗んで準備室に潜り込む緊張感を楽しんだ。それは、以前の学校には無かった楽しみだった。

 いつしか新吾はこの時間があれば、今度は良い意味で、半年という時間は瞬く間に過ぎていくと思い始めていた。

 だから、この時間を守るためであれば、二人の関係を秘密にすることくらい、新吾にとって大した苦労にはならなかった。

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