第三章
夏休みが終わり、新学期が始まった。久しぶりの登校に生徒達は浮き足立ち、朝の会は騒がしく収拾がつかなくなり、最終的に新学期初日から倉田の怒号が教室に響き渡った。
新吾は一言も発していないのに自分まで怒られたような気がして、登校初日から嫌な気分になった。
新吾は夏祭り以来、前田のことが気になっていたが接点があまりに少なく、自分の立場と前田の評判を考慮すると、積極的に自分から関わろうとはしなかった。
その前田は新学期に入っても相変わらずクラスのおもちゃとして扱われ、何事か言い争いをしているところを全校朝礼の帰りに彼の教室の前を通った時に新吾は目撃していた。
自分から声をかけることはないが、向こうからは何かしらの接触があると踏んでいた新吾は、いつもと変わらない前田の態度に勝手に肩透かしを食わされた気分になっていた。
夏休みの宿題を提出するだけの集中力の無い半日授業が終わり、まだまだ勢いの衰えない夏の太陽が南中を少し過ぎた頃、下校時間となった。
教室では放課後の時間の過ごし方についての話し合いが其処此処で行われていた。それを横目に新吾は昇降口に向かった。
塾も休みで家に帰っても特にすることもなく、どうやって時間を潰そうかと考えているうちに、新吾は下駄箱の前までやって来た。
とりあえず思案の続きは昼食を終えてからにするとして、新吾は下駄箱の扉を開いた。
そこにはちゃんと新吾の運動靴が置かれていたが、靴の中にぎっしりと砂が詰められていた。
新吾は腹の底から熱が失われていくのを感じた。
いつの間に砂を詰められていたのか、誰の仕業なのかなど、いくつも疑問は浮かび上がったが、新学期になればこんなことは終わるだろうと根拠の無い希望を持っていた自分自身の甘さが心の熱を奪っていった。
機械的にその靴を手に取ると、屈辱の分だけ、見た目よりもずっと重く感じた。
新吾が靴を裏返すと、中の砂が地面に向かって落下する。いっぱいになるまで詰められていた砂は、全部が落ちるまでにそれなりの時間を要した。
靴を片方履き替えると、まだ中に小さな石が残っていて不快感を覚えたが、下校する生徒が増えて昇降口が騒がしくなり始めていたので、新吾は無様な姿をクラスの人間に見せるわけにはいかないと思い、そのままもう片方の靴も履いた。
外に目を向けると、容赦なく照りつける日差しがアスファルトに反射して、白く眩しかった。その光景と自分の心との対比が皮肉に思えて、新吾は自嘲気味に笑いが込み上げてきた。
新吾はピラミッドのように堆積した足元の砂を踏み崩すと、昇降口を後にした。
三十二度の日差しの下では、歩いているだけで汗が次から次へ溢れ出す。
しばらく歩いていると、通学路の途中にある公園の前に差しかかった。
新吾は辺りを見回して、知っている顔がいないことを確認すると、公園の中へと足を踏み入れた。
この公園は、新吾の通う学校ではどんぐり公園と呼ばれていて、名前の由来となっている大きな橡の木が生えていて、多くの生徒は放課後をこの公園で過ごしている。
新吾は木の下にできた木陰に入ると、木に寄りかかるようにして地べたに座った。木陰に入るだけでも気温の違いがはっきりとしていて、時折感じる微かな風が背中に張り付いた服を乾かし、とても心地良かった。
もうしばらくそうしていたかったが、同じクラスの女子生徒が数人で公園の脇を歩いているところを見かけてしまい、新吾は急いで靴を逆さにして中の異物を揺さ振って取り除くと、公園を飛び出し、再び帰路に着いた。
新吾が玄関をくぐると、いつものように忙しく家事をこなす信子の姿があった。
「あ、新吾。おかえりなさい」
「……うん、ただいま」
毎日飽きもせずに家事をする母は、目に見えた成果も無い繰り返しの日々に嫌気がさしたりしないのだろうかと、新吾は何気なく疑問が浮かんだ。
「まだ帰って来る時間だと思わなくて。お昼ご飯の準備、これからするから待っててね」
「ん」
この人はそこまで考えてないかと新吾は信子の言葉に適当な返事をすると、昼食ができるまで自室に籠っていた。
程なく信子の声が聞こえ、新吾が居間へ行くと、昼食は素麺が出されていた。
夏休みの間、父の会社の御中元として沢山贈られてきて、散々食べていたので正直なところ食傷気味だった。
「あと一箱だから我慢してね」
新吾の不満そうな表情を読み取った信子が言った。
「いいよ、別に」
信子が色々と工夫しているのは知っていたので、さすがの新吾も文句を言うことはなかった。
「久しぶりの学校、どうだった?」
「どうって、何が?」
「友達とか」
「遊んでる暇なんかないよ。受験はこれからが大事な時期なんだから」
「そうかもしれないけど……」
触れて欲しくない話題を振られ、新吾は言葉を被せるようにして、それ以上の追求を許さなかった。
信子も言葉の端にそれを感じ取り、そこから昼食が終わるまで二人が言葉を交わすことはなかった。
昼食が終わると新吾は自室に戻った。受験のことを口に出した手前、新吾は自室で机に向かって参考書を開いていたが、全く手をつけられずにいた。
クラスでの嫌がらせが続くことは考えていないわけではなかったが、それでも終わってくれることを期待していた新吾は、やるせない気持ちを隠せなかった。
それでも、新吾の一人で戦う姿勢や信念が揺らぐことはなかった。
――あと半年。
半年経って中学に上がってしまえば、同級生に会う機会は殆んど皆無となるだろう。
それまでの辛抱だと、新吾は決意を新たにして、開かれたままの参考書に取り掛かった。
始業式から数週間が経ち、夏の日差しも和らいで、日が落ちると気温もぐっと下がるようになり始めた。新吾の学校では運動会の練習が始まり、秋は目前に迫っていた。
新吾は受験への現実味が増して、塾での濃密な勉強に毎日のように励んでいた。夏休みまでの和やかな雰囲気は薄らいでいたが、同級生達が遊んでいる時間を受験という将来のために使うことが学校の人間よりも一歩先を進んでいる気がして、この緊張感も悪くないと新吾は感じていた。
最近は嫌がらせもネタが尽きてきているようで、新吾は自分の中で一定の勝利を勝ち取った気になっていた。
そして、このままの調子で半年なんてあっという間に過ぎていく、そんな予感がしていた。
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