第二章 2

 夏休みに入り、新吾にとって四十日余りという期限付きではあるが、束の間の安息の日々が始まっていた。


 両親はどうやら学校内での新吾の置かれている状況を察してはいないようで、新吾の持ち帰った通知表の出来に、それなりに満足している様子だった。


 友人のいない新吾は今年の夏休みは誰とも関わらない、暇な夏休みを覚悟していたが、中学受験に向けての夏期講習が毎日のように組み込まれていて、休みは実質のところ、一週間程度しかなかった。


 そして、その僅かな休みも母方の実家に遊びに行く予定になっていたので、小学生最後の夏休みは大して楽しくはないが少なくとも退屈を感じる暇は無かった。




 その日は台風一過で、新吾がベッドから抜け出す頃には、昨夜の荒れた天気が嘘のような青い空が広がっていた。


 大きく伸びをしながらベランダに出ると、昨日の分を取り戻すかのように、朝から蝉がやかましいくらいに鳴いていた。


 部屋に戻って着替えを済ませ、朝食を食べ終えると、新吾は居間のテレビを何となく眺めていた。


「新吾は夏休みの宿題、終わってるの?」


 二日分の洗濯物を干しながら、信子が新吾に問いかけた。


「終わってるよ。ちょっと前にも言ったよ」

「じゃあもう一回、忘れている宿題がないか確認しておきなさい」


 信子は洗濯物を干す手を止めることなく、作業的で平坦な口調だった。


 母の言葉にうんざりした新吾は、これ以上何か言われる前にテレビの電源を落とし、早々に自室へ戻った。


 いつものことながら苛々する。


 夏休みや冬休みの宿題を早く終わらせろと言う信子の言葉に従って新吾が課題を終わらせていたとしても、信子は先程のように何度も確認をする。


 一度、休みの期間全部を使って宿題を分割したことがあったが、休みが終わる間際になってまだ終わらせていないことを告げて、新吾はこっぴどく怒られたことがあった。


 そんな矛盾ばかりの母に苛立ちながら塾までの時間潰しとして、新吾は読書感想文のために買った小説を読み返すことにした。


 昼食を終え、塾の支度を済ませると新吾はバス停へ急いだ。


 講習の時間にはまだ一時間以上の余裕があったが、それでも新吾には急ぐ理由があった。


 塾には冷房が備え付けられていて、講習が始まる前の時間に快適空間で屯することがいつの間にか塾生達の習慣になっていた。

 何の面白味も無い夏休みの中で新吾にとって、この時間が数少ない楽しみになっていた。


 丁度やって来たバスに新吾が乗車すると、大きな揺れもなく滑らかに走り出した。


 いつもより多い乗車率で蒸し暑い車内の後方の座席に座ると、新吾は立て付けの悪い窓を開けた。


 吹き込んでくる風を顔に受けながら、新吾は車窓から流れる景色を眺めていた。


 今朝の天気予報は真夏日を告げていて、それを裏切らない太陽光が窓枠に乗せた新吾の半袖のから伸びた腕を焼いていた。


 しばらくバスに揺られていると、地域で一番大きな神社の前の停留所に到着した。

 どうやら祭りが催されているらしく、敷地の周辺は普段とは違い、大いに賑わいをみせている。


 乗り合わせていた乗客も大半がここで降りていき、新吾はそれを車窓から見送った。


 歩道を歩いているのは、男の人、女の人、老人、老婆、新吾と同じくらいの少年少女。家族連れだったり、仲の良さそうな若い男女だったり。

 老若男女、顔ぶれに違いこそあれ、その場に集まった人々は一様に笑顔だった。


 その顔がどうしても疎ましく思えてしまい、新吾は視線を車内に移した。

 すると、車内の暗がりに慣れない新吾の目には真っ暗な世界が飛び込んできた。


 その真っ暗な光景がまるで自分の内心を映し出しているように思えて、新吾は自分でも気付かないうちに目を瞑っていた。


 やがてバスは神社から遠ざかり、祭囃子や人々の活気に満ちた声も耳に届かなくなっていった。

 新吾の耳に聞こえてくるのは、いつもの聞き慣れたバスのエンジン音だけだった。


 それでも、目を閉じたままの新吾の心の中には祭りの音色や笑い声が妙にこびり付いて離れなかった。




 塾に着くと既に数人の生徒の姿があった。


「佐竹君、おはよう」

「おはよう。今日も暑いね」


 新吾は彼らと話していると、先程までの暗い気持ちが少しずつ晴れていくような気分になっていた。


「そういえば今日、神社でお祭りやってるんだよね?」

「俺、学校の友達と明日行く予定」


 予想していたことではあったが、やはり今日の話題は祭りが中心に上がっていた。


「佐竹君は転校してきたから、初めてだよね?」

「そうだけど、あんまり興味ないし」


 正直なところ、この話題には参加したくなかった新吾は少し棘のある口調をしてしまった。


「まあ、花火が上がるわけでもないし、地味だからね。思い入れのない佐竹にはつまらないかもな」


 失言だったと心配した新吾の心とは裏腹に、場は再び祭りの話題で盛り上がっていた。


 それ以降は新吾も不自然にならない程度に会話に混ざり、授業が始まるのを待っていた。


 授業は滞りなく終了し、塾を後にした新吾はバス停へ向かっていた。


 日が落ちかけても気温は高いままで、冷房の効いた部屋から出てすぐ額に汗が滲み始めた。

 オレンジ色のような黒のような、見通しが悪くなるこれくらいの明るさを黄昏と呼ぶのだと、最近の脱線話で新吾は教わった。


 バスを待ちながら黄昏の町を行き交う人々を眺めていると、塾生の一人がこちらに向かって来るのが見えた。彼も新吾の姿に気付き、小走りで新吾の隣へ駆け寄ってきた。


「佐竹君の家って、こっち方面だったね。僕、これから友達と神社で待ち合わせなんだ」

「そうなんだ。じゃあ、途中まで一緒だね」


 しばらく二人で話していると、新吾達の後ろには祭りへ向かう人々の長蛇の列ができあがっていった。


 新吾達は比較的前方に並んでいたので、到着したバスに無事座ることができた。


 車中、テレビの話題や以前新吾の住んでいた街の話などで、会話が途切れることはなかった。

 普段は一人の帰り道なので、誰かとこうして他愛もない話ができることが新吾には嬉しかった。


 しかし、楽しい時間はあっという間に終わりを告げ、バスは神社前の停留所に到着した。

 身動き一つ侭ならない程の乗客を乗せていたので、降りるだけでいつもより長い停車時間を要していた。


「あのさ」


 立っている乗客が降りている間、行きと同じように降りていく人を眺めていた新吾は、別れの挨拶だと思い、彼の方へ振り返った。


「佐竹君も一緒にお祭りに行かない? 僕の友達、みんな気さくな奴ばっかりだから、佐竹君なら、きっとすぐに仲良くなれるよ」


 全く予想外の申し出に、新吾は大いに驚いた。驚きのあまり新吾は目と口を大きく開け、一瞬だけ思考が停止した。


「……い、行こうかな」


 戸惑いながらも、言い知れぬ喜びが込み上げてきて、気付けば新吾は提案を受け入れていた。


「本当に! あ、早く降りないと発車しちゃうよ」


 そう言って彼は先を行ってしまった。新吾も置き去りにならないように慌てて後を追い、バスを飛び降りた。


 転がるように降りてきた新吾を、彼は笑顔で迎えてくれた。それがまた嬉しくて、久しぶりに新吾の胸は高鳴っていた。


 意味もなく二人はバス停から神社まで走った。

 通行人の間を縫うように走り抜け、入口の大鳥居の前まで来ると、息も鼓動も弾んでいた。


 昼間、車窓からは死角になっていた大鳥居は、首をいっぱいまで反らせないと一番上を見ることができないくらい大きく、新吾はその存在感に圧倒された。


 首が辛くなって視点を通常に戻すと、段数の多くない石段の先の本堂に続く直線には石畳が敷かれ、その両脇に屋台がずらりと並んでいた。集まった人々は、神に感謝というよりも出店が目的に見え、花より団子といった様相だった。


 すっかり日が落ちて、普段なら真っ暗になっているはずの空間が、提灯や出店の白熱灯の灯りに照らし出されて、不思議と幻想的な空間になっていた。


「台風が来てたから、中止になるかと思ったけど、なくならなくて良かったね」

「あ、うん」

「随分熱心だね。やっぱり誘って正解だったよ」


 周りの景色に心を奪われていた新吾は、ただ返すだけの返事になっていた。そこを指摘され、新吾は何だか恥ずかしくて申し訳ない気持ちになった。


「ごめん。これだけ盛大な祭りとは思わなくてさ」

「いや、本当にいいんだよ。喜んでくれてるみたいで、こっちも嬉しいよ」


 そうして二人で立ち話をしていると、彼の名前を呼びながら二人の男の子が新吾達の傍へ近付いてきた。


 初めは新吾の存在に驚いていたが、事情を説明すると、戸惑いはあるものの二人は一緒に回ることを了承してくれた。


互いに自己紹介を済ませると、四人は早々に境内へと足を踏み入れた。


 新吾は塾への往復のバス料金しか持っていなかったので眺めることしかできなかったが、それでも雰囲気を充分に楽しみ、誘ってくれたことを心の中で大いに感謝した。


 しかし、次第に前を行く三人の空気が重くなっていくのを新吾は時間が経つごとに感じ取っていた。


 誘ってくれた彼が新吾に気を使う度に、きっと普段の三人の調和が少しずつずれていって、それが積み重なって大きな歪みになってしまっている。新吾にはそんな風に見えた。


 だから今日、こんなにも嬉しい気持ちを与えてくれた彼に、新吾はこれ以上気を使わせたくなかった。


「ごめん、みんな。向こうに学校の友達を見かけたから、そっち行くね」


 新吾は自分を止める声も聞かずにその場から走り、雑踏の中に飛び込んだ。




 がむしゃらに走り、本堂の前まで来ると、新吾は後ろを振り返った。


 雑踏の中を彼らが追って来ることはなかった。

 少しだけ残念だったが、今はそれでも良いと思えた。


 辺りを見回すと新吾以外に人はまばらになり、まるで本堂の前に建てられた石灯籠を境にして、喧騒と静寂に境界線でも引かれているのではないかと新吾は思った。


 それを裏付けするかのように、気温が人ごみの中にいたときよりも低くなっているように感じた。

 それが人々の熱気から離れたからなのか、本堂を木々が囲んでいるからなのか、新吾には判断つかなかった。


 新吾は神社に来たついでだから何か願掛けでもしようかと賽銭箱の前に立った。

 しかし、何を願うべきか思いつかず、お賽銭も無いので、結局何もせずに賽銭箱の前を後にした。


 もう帰ろうかとも考えたが初めての場所に探究心が疼き、新吾は本堂の周りを一周回ってみることにした。


 建物の脇を通り、社の裏まで来ると、灯りは届かず喧騒は更に遠くに聞こえ、また別の世界が新吾を待っていた。


 しかし、辺りを見回しても特別に何かあるわけでもなく、新吾は身勝手に落胆した。


 今度こそ本当に帰ろうと思い、踵を返そうとした際、新吾は視界の端にあるものを見つけた。


 それは林の奥へと続く、一本のけもの道だった。


 新吾は傍まで行って、目を凝らして道の行き着く先を窺った。しかし、月明かりは木々に遮られていて、奥に何かあるのか、窺い知ることはできなかった。


 興味はあるが恐怖心がそれを上回り、また後日、明るい時間に探索をしようと決めて、新吾はその場を去ろうとした。


 その時、新吾の耳に神社特有の荒々しい鈴の音が入ってきた。


 本堂の鈴を誰かが鳴らしているのかと思ったが、どうやら発信源は林の中からのようだった。


 一瞬で心の天秤は逆転し、新吾は好奇心に任せ、暗い林の中へと入った。


 林の中は背の高い楠の木が立ち並び、うっかりしていると木の根に躓いて転びそうになる。


 新吾は慎重に奥へ奥へと進み、やがて開けた場所に出た。

 丁度、学校のプールと同じ面積くらいの砂地が広がり、月光の下、奥の方にぽつんと小さな建物が一軒建っているのが見えた。


 一見してその建物以外に何も見当たらないので、とりあえず新吾はそちらへ歩を進めた。


 祭りの喧騒は遠い彼方へと追いやられ、一歩一歩踏み出すごとに新吾の耳には足の裏で砂の潰される音が聞こえてきた。


 すると突然、建物の下で動く人影のようなものが新吾の目に映った。


 驚いてその場に立ち止まり、人影の正体を窺おうにも、建物の庇が影を作ってしまい、新吾の位置からではその正体を確認することはできなかった。


 新吾は進むことが怖くなり、その場に立ち尽くしていると、その人影は新吾の方に向かって動き出した。


 迫る人影は月に照らされ、足元から徐々にその風貌が明らかになっていく。


 新吾はすぐにでも逃げ出したかったが、足が地面と同化してしまったのではないかと錯覚するほど重くなり、体を自由に動かせなくなっていた。


 向かってくる人物が庇から離れて全身が照らし出されるようになりはしたものの、新吾の目にはまだはっきりと誰なのか分からなかったが、背丈がそれほど大きくないことが分かり、それが幾分新吾の緊張を解いた。


 やがて顔が確認できる距離まで近付いたとき、新吾はその正体に驚いた。


「前田……」


 緊張から解放され、新吾は安堵と共に一人呟くように明らかになった人物の名前を口にした。


 あまりに小さな新吾の声は前田の耳には届いていないらしく、新吾の隣を通り過ぎる直前に一瞥しただけで、一言も言葉を発さずに前田は林の奥へと姿を消した。


 前田の態度に少しだけ不満があったが、今は前田があそこで何をしていたのか気になり、新吾は駆け足で建物へと向かった。


 近くで見ると、建物は小さいながらも紛れもなく社殿だった。

 賽銭箱は無かったが、鈴を鳴らすための紐はちゃんと柱から垂れ下がっていた。


 きっと先程自分が聞いた鈴の音は前田が鳴らしたものだろうと新吾は推察し、前田が鳴らしたのなら、彼は何を願ったのだろうと、疑問が生まれた。


 暗がりでも建物の痛みの見て取れる、こんな寂れた誰も踏み入れないような所で一体何を望んだのか、新吾には分からなかった。


 新吾は目の前に下がった紐を掴むと、力一杯左右に振った。


 辺りに鳴り響く鈴の音は新吾の聞き馴染んだそれと遜色なく、そこからはここで願わなければならない特別な何かを感じ取ることはできなかった。

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