第二章
長かった梅雨も明け、代わりに強烈な直射日光の降り注ぐ季節が到来した。
テレビではスーツの上着を脱いで、ハンカチ片手に忙しなく歩くサラリーマンの映像をよく見るようになった。
新吾の小学校でもプールの授業が始まり、家では扇風機が活動を始めていた。
「今日も暑くなるみたいだから、帽子被るの忘れないでよ」
信子が靴を履く新吾の頭上から注意する。
「分かってるよ。行ってきます」
新吾は玄関に置いてある野球帽を掴むと、振り返ることなく家を出た。
道すがら新吾が空を見上げると、遠くに大きな入道雲が浮かんでいて、背後から吹き抜けた風が一瞬の心地良さを運んだ。
どこまでも爽やかな自然と、この先に自分を待ち受けているであろう人間の醜さの落差に気を落とさずにはいられなかったが、帽子を深く被りなおすと少しばかり重い足取りで新吾は学校へ向かった。
新吾はあの決意の日を境に、クラスで行われる嫌がらせに対して一切を無視することで対決の姿勢をみせていた。
効果の程は現時点では芳しくなかったが、夏休みに入って時間を置いたら、二学期には連中も飽きるだろうと新吾は想像していた。
加えて、連中の行為を受け流すと決めてからは、状況を客観的に見ることができ、子供染みた彼らと自分に精神的な成長の差が生まれたような気がして、新吾はこの状況も悪くないと思っていた。
だから、初めて前田を見かけたときは、上手く立ち回ることもできない馬鹿な奴という印象を新吾は持った。
ある日の水泳の時間、自由時間を与えられた生徒達は皆、思い思いに泳ぎ始めた。
新吾も変に絡まれないように大野達と充分に距離を置きながら、水に体を漂わせて涼を満喫していた。
新吾が水でしか味わえない浮遊感を楽しんでいると、プールサイドが急に騒がしくなり始めた。
新吾は大野達が近くに来たのではないかと、そちらを警戒すると、新吾のすぐ脇に何かが放り込まれ、大きな水柱が立った。
新吾が呆然としていると、水中から勢い良く一人の生徒が飛び出した。
「何するんだよ!」
どうやら隣のクラスの男子生徒数人が悪ふざけをして、新吾の隣で憤慨している彼をプールに投げ込んだようだった。
「落ちた先に誰かいて、ぶつかって怪我でもしたらどうやって責任とるつもりだよ!」
投げられた彼は正しいことを言っているはずなのに、どこか癇に障る口調で、ふざけていた男子達の嗜虐心の火に益々油を注いでいるようだった。
「ごちゃごちゃうるせえよ、前田!」
彼らは人を馬鹿にした笑いを湛えながら、水面を蹴って、前田と呼ばれた少年に水を掛け始めた。
新吾にもその水が掛かっていたので、そっとその場から離れると、直後、背後で倉田の叱責する声が聞こえた。
そして授業が終わり、更衣室で着替えていると、一角で言い争う声が新吾の耳に入ってきた。
薄暗い室内で着替えていた生徒達は一時その手を止めて、好奇心から事態に何かしらの期待を持って、視線を注いでいた。
新吾もまた、でき始めた人垣の隙間から、それとなく様子を窺っていた。
「お前のせいで、先公に怒られたじゃねーか!」
騒いでいるのは先程の彼ららしく、倉田に怒られたことを逆恨みして、前田に八つ当たりをしているようだった。
「何だよ! あんな危ないことしたんだから、怒られて当然だよ。むしろ、僕にも謝罪の一言があってもおかしくないんじゃない?」
前田の不遜な態度に、怒りを覚えた一人が掴みかかろうとした。
しかし、寸でのところで前田はその手を躱し、人垣を摺り抜けて教室へ走っていった。
「待てよ!」
誰が発したか分からない声を合図にして、数人が後を追って更衣室を飛び出し駆けていった。
静かになった室内では、着替えを再開した生徒達が目の前で起きた事をネタにして話に花を咲かせていた。
「……馬鹿な奴」
自分への嫌がらせを受け流すようになってから、気持ちに少しだけ余裕ができた新吾は、自分の周りに目がいくようになっていた。
そして、隣のクラスにも新吾と同様に悪質な嫌がらせに遭っている人間がいることを知った。
新吾が移動教室の時や、昼休みなど教室の前を通りかかると、毎日のように何かしらの揉め事が起きているのを目撃する。
この前田という少年は新吾とは違い、自分に降りかかる火の粉は全て払わないと気が済まない性格らしく、いつも徹底抗戦の姿勢をみせていた。
加害者は被害者の反応を楽しんでいるきらいがあると新吾は考えていたので、そんな奴らに付き合ってやる前田の思考が理解できなかった。
「ウチのクラスも、あれくらい反応してくれれば、面白味があるのにな」
出入口から一番遠い角に陣取った大野が、更衣室に残っていた全員に聞こえるような大きな声を出して、仲間と談笑していた。
その声は勿論、新吾の耳にも届いていたが、新吾は聞こえていない振りをして、手早くプールバッグに水着を詰めると、更衣室を後にした。
その直後、更衣室内から爆笑が上がったが、新吾はその声も聞こえない振りをして、教室に向かって一人きりの廊下を歩いた。
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