第一章 4
日の光が雨雲に遮れ、平時よりも暗い街道をヘッドライトで照らしながら、バスは五分遅れで停留所へ到着した。新吾はタラップを上がり、空いている席に座った。
乗客の数は多くないが、駅へ向かうのか、高校生の姿が目立った。
バスは新吾達を乗せると、少し乱暴に揺れて走り出した。
新吾は窓の外の流れる景色を漠然と眺めながら、これからどうしていくべきかを考えていた。
両親に相談しようかとも考えたが、何となく格好悪いし、力を借りたくもなかった。
新吾は自分の力だけで解決しようと決め、何をすれば良いものかと新しく考え始めた頃に、バスは終点の駅前に到着した。
料金を払ってバスを降りると、運悪く雨が降り始めた。
「……最悪」
新吾は空を憎らしく見上げながら、傘を持たなかった自分の迂闊さを悔やんだ。
降り出してすぐに雨足が強くなりだし、新吾は鞄を傘変わりにして塾まで走った。
新吾が塾に着く頃には、雨は本降りになっていた。
「おはよう。傘、持ってなかったのか?」
新吾に声をかけてきたのは、新吾のクラスを担当する若い男の先生だった。
「おはようございます。家を出るときには降ってなかったんですよ。バスを降りた途端に降り始めて。もう最悪ですよ」
新吾はこの先生に信頼を寄せていた。
授業は分かり易く、余った時間に色々な雑学を教えてくれる。
生徒を子供扱いせずに、きちんと話しを聞いてくれるところも新吾は好きだった。
「天気予報も降るか分からないって言っていたからな。そういう時は、折り畳みでも持って。備えあれば憂いなしって言うだろ」
「今日は、たまたまですよ」
新吾は必要以上ににやけてしまい、普通の顔をしている自信がなく、顔を背けながら答えた。
「おはようございます」
「すっごい濡れた!」
新吾よりも少し遅れて、続々と塾生が到着し、建物が騒がしくなり始めた。
「佐竹君も、おはよう」
「おはよう」
新吾も彼らと挨拶を交わし、連れ立って二階の教室へ向かった。
新吾にとって塾での時間が、今の生活において唯一とも言える、心から楽しいと思える時間になっていた。
塾で勉強している時間は、学校生活における妙な緊張感や、そこから生じる両親に気付かれたくないという焦燥感を忘れることができた。
ここで知り合った塾生の中には、進路希望が同じ生徒もいて、彼とはすぐに打ち解けることができた。
出された問題をみんなでワイワイ騒がしく解きあったり、ちょっとした時間に先生の脱線話に盛り上がったりと、楽しい時間は瞬く間に過ぎていった。
「さようなら」
「気を付けて帰れよ」
授業が終わり、新吾は教室の窓から外を見た。
依然として雨は降り続けていて、行き交う車のライトが地面に乱反射していた。
「うわ、まだ降ってるよ」
「俺なんかチャリだから、濡れて帰らなきゃならないんだぜ。ツイてないよ」
教室のあちこちから不満の声が上がっているが、雨に濡れても許される免罪符を手に入れたような喜びも綯い交ぜになっているようにも新吾には聞こえた。
新吾もバスに乗るまではそれほど濡れないが、バスを降りてから家まで少し歩かなければならないので、少なからず憂鬱な気持ちになった。
このまま待っていてもバスの時間を逃してしまうと思い、新吾は行きと同じように鞄を傘変わりにして塾を出て、バス停まで走った。
バス停までやって来ると、まだバスの姿はなく、会社帰りのサラリーマンが既に行列を作っていた。
行列は長く、最後尾に並んだ新吾の頭上まで雨除けの屋根が届いておらず、バスを待つ間、新吾は雨に濡れ続けた。
新吾と同じように屋根の下に入れなかった大人達は、多くが傘をさしていた。
子供が雨に濡れているのを知っていて知らぬふりをしているのか、誰も新吾を気にかける様子はなかった。
後からやって来たサラリーマンは、列の長さを見てタクシー乗り場へ向かった。
やはり世の中、自分を助けられるのは自分だけなんだと、新吾は痛感した。
挙げた腕が辛くなり始めた頃に、ようやくバスが到着し、バスは並んでいた客を一杯に詰め込むと、それぞれの帰路へと向けて走り出した。
車内は薄暗く、エンジン音と運転手の告げる案内が流れるだけで静まり返っていた。
湿気のせいで窓ガラスは全て曇り、外の様子を窺い知ることはできなかった。
新吾の周りの大人達は皆一様に俯き、目を閉じて車の揺れに耐えていた。
新吾もまた、最近になってやっと届くようになった吊り革に掴まりながら、自分の降りる停留所が呼ばれるのを待った。
新吾の降りる停留所の一つ手前に集合住宅地の停留所があり、そこでバスは大量の乗客を吐き出す。
そこを過ぎて、すっかり閑散とした車内の解放感を味わう間もなく、バスは新吾の降りる停留所で止まった。
新吾が料金を支払い下車すると、バスはあっという間に走り去り、闇に溶けていった。
停留所では簡素に作られたトタン屋根に雨粒の当たる音がする。
「新吾」
家に向かって歩きだそうとしたその時、背後から誰かが新吾を呼んだ。
聞き間違えるはずのない声に驚きながら新吾が振り返ると、そこには信子の姿があった。
「え? 何してるの?」
新吾は信子がいることに驚いた。
それと同時に、学校での事が信子の耳に入ったのではないかと全身に緊張が走った。
「何って、傘を持っていくのを忘れたみたいだから持ってきてあげたんでしょ」
本当にそれだけなのかと、新吾は真意を探ろうと次の言葉を待った。
「雨に濡れて、風邪でもひいたら困るでしょ」
そう言って信子は、新吾に傘を差し出した。
「……別に、母さんは困らないだろ」
憎まれ口を叩きながらそれを受け取ると、新吾は傘を開いて先に歩き始めた。
「新吾が困ると、同じだけお母さんも困るのよ」
信子は新吾の隣を歩きながら言った。
「何それ? 訳分かんない」
信子の言葉が鬱陶しくて、それと同じくらい照れくさくて、新吾はぶっきらぼうに答えた。
「新吾も大人になれば分かるようになるわよ」
新吾はまた子供扱いされたと思ったが、不思議と嫌な気分にはならなかった。
それ以上、二人が言葉を交わすことは無かったが、母がどことなく嬉しそうにしている雰囲気が隣を歩く新吾には伝わってきた。
そして新吾は考えていた。
自分と同じだけ困ると言った母に、今自分が感じている惨めな気持ちを同じだけ与えても良いのだろうかと。
そんなこと、できるはずもなかった。
どうしてと聞かれれば、新吾にも上手く説明することはできなかったが、それでも理由を付けるならば、自分が男だからという答えがしっくりくると新吾は思えてならなかった。
学校でのことは自分だけで何とかしようと、改めて新吾は決心した。
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