第一章 3
五月に入り、風は暖かくなり、日によっては少し汗ばむ陽気になる日もあった。桜の木は緑にその色を変え、新吾が名も知らない草も花を咲かせて生命に満ちていた。
季節や環境の変化の中で、新吾と両親の関係も変化を始め、少しずつ会話が増えていた。
新吾は両親を許したつもりはなかったが、月末に迫った修学旅行の準備のために仕方なしに会話をする機会が生まれていた。
新吾自身、怒りは薄らいでいたのだが、振り上げた拳を今更下すことができずに怒っているという雰囲気を出し続けていた。
転校してから一ヶ月が過ぎたが、新吾は未だに一人だった。
転校してきた当初は積極的に声をかけてきた級友も、新吾のつれない態度に段々と話し掛ける回数が減っていき、ひと月経った今では誰も新吾に話しかけることはしなかった。
当の新吾も友達を作ろうとしていなかったので、この状況を積極的に変えようとも思わず、一人で本ばかり読んで過ごしていた。
ひと月も経てば自分の通う教室の内情は段々と見えてくるもので、新吾は自分の前に座る男子が大野泰介という名前だと知った。
大野はクラスの男子生徒の中心人物であり、少々乱暴な部分はあったが、基本的には面倒見が良く、いわゆるガキ大将という言葉が当てはまる人物だった。
他にも数人の名前を覚えたが、大抵は大野に便乗して授業中に騒いで倉田に注意されている男子ばかりで、嫌でも大野の名を覚えてしまったという具合だった。
嫌でも耳にするといえば、もう一つ。この学校では異常なほど怪談話が流行していた。
休み時間や放課後には、怪談を集めた本を家から持ってきた生徒の周りに他の生徒が集まり、熱心に耳を傾けている光景をどこの教室でも見かけることができた。
もちろん本の中の話ばかりではなく、この学校にも七不思議の言い伝えがあり、クラスの中には真偽を確かめる為に、夜の学校に潜入する計画を企てる生徒達までいる程、その熱気は高まっていた。
七不思議の多くは全国の小学校のどこにでもある、「夜になると音楽室のベートーヴェンの自画像の目が動く」や、「屋上へ続く階段が昼は十二段なのに、夜になると段数が一段増えて十三段になる」といったありきたりな話が多く、新吾はどうしてここまで熱くなれるのか、やっぱり田舎は娯楽が少ないからかなと思いながら、遠巻きに流行を静観していた。
「帰ったら指切り様の居場所を突き止めようぜ!」
修学旅行先の宿泊旅館の真っ暗な一室で大野が数人の仲間と頭を突き合わせて息巻いていた。
親の監視から解放された子供達は、消灯時間を過ぎても一向に眠る気配はない。
新吾もまた少なからず興奮し、目が冴え、なかなか寝付けずに周りの話を布団の中で盗み聞いていた。
初めは大野とその仲間達がプロレスをしていたが、見回りにきた先生に見つかり、今は輪になって怪談話を始めていた。
大野が話していた「指切り様」というのは学校に伝わる七不思議の一つであり、新吾はこれまで一度も耳にしたことが無い、この学校にしかない特有の怪談であった。
「十年くらい前にも指切り様に殺された生徒がいるらしいよ。警察は事故だって言ってたらしいけど、絶対にそうだって」
どうして彼に事故ではなく、指切り様とやらの仕業だと断言できたのか、新吾は疑問に思ったが、話し声が小さくなって詳しくは聞き取れなかった。
「あのさ、指切り様を見つけたら誰をお願いする?」
輪の中の一人が冗談混じりの提案を口にする。
その瞬間、あれだけ騒がしかった室内が、しんと、静まりかえった。
新吾はまた見回りの先生が来たのかと思い、薄く目を開けて入口の方に目をやったが、そこに教員の姿は無かった。
何か気不味い沈黙が部屋の中に下りていたが、新吾にはその正体が何なのか掴めずにいた。
静まり返った室内では、風が窓枠をガタガタと揺らす音と、布団の生地の擦れる音が、やけに大きく聞こえていた。
新吾はこの異様な空気に戸惑いを覚えた。
それと同時に、指切り様とは一体何なのか、俄然興味が湧いてきた。
「俺は、家庭科のババアがいいな」
沈黙を破ったのは、大野だった。
すると大野の言葉で室内の緊張が解け、大野の言葉に賛同する声や同調する声がふつふつと上がり、やがて先ほどまでの暗い雰囲気はすっかり忘れ去られてしまい、いつしか皆が口々に家庭科の教師に対する不満を漏らしていた。
「それじゃあ、指切り様のところへ行ったら、ババアの事を頼もうぜ」
大野が高らかに宣言をしたところへ運悪く見回りの先生がやってきて、二度目のカミナリが落ちたところで、この日の夜会はお開きとなった。
新吾はもう少し指切り様について話を聞いていたかったが、大野達は観念して寝てしまったようなので、これ以上の情報を得ることはできなかった。
二泊三日の修学旅行はあっという間に過ぎ去り、新吾は平凡で退屈な日常に帰ってきた。
気になっていた指切り様の話も、二日目の夜は好きな女子の暴露会になってしまったために、より詳しく聞くことはできなかった。
新吾が帰り仕度をしている目の前で、大野達が近々指切り様の出るという校舎裏のお化けビルに探検に行くと盛り上がっているのを見ると、前に通っていた学校の友達を思い出して、新吾は少しだけ感傷に浸った。
修学旅行で同じ班だった男子二人は、修学旅行の解放感から声をかけてくれていただけらしく、今では挨拶すら交わしていない。
「行くぞ!」
大野の号令に続き、仲間達が徒競走でもするかのように我先にと教室から走って出て行った。
「あれ?」
飛び出していった大野達を目で見送り、片付けを再開しようと視点を机に戻すと、そこにあった新吾の消しゴムが無くなっていた。
大野達が出て行った時に床に落とされたのかと、新吾は周辺を探してはみたが、結局消しゴムを見つけることはできなかった。
しばらく考え込んでいた新吾だったが、時計を見ると塾へ行くバスの時間が迫っていた。
塾の授業前に駅前の文房具屋で買うしかないかと、無くなった消しゴムのことは諦めて、新吾は足早に校舎を後にした。
六月に入って本格的に梅雨が始まり、雨の降らない日は一週間の内に一日か二日あれば良しと言える天候が続き、それに加えて気温も高くなり始めて、日本特有の高温多湿の夏へ向け、地球が準備運動でも始めているんじゃないかと新吾は疎ましく思っていた。
信子もまた、長雨に洗濯物が片付かないと、不機嫌な日が多くなっていた。
「……あのさ、上履き、新しいのを買ってほしいんだけど」
家中に下がる洗濯物を掻き分け、新吾は洗濯機の前で信子を見つけた。
「なんで? 今のはどうしたの?」
「なんか、きつくなってきて」
新吾は早口になったり、どもったりしないように、できる限り平静を装った。
信子は宙を見上げるようにして、少し考えてから、
「分かった。じゃあ今度の休みに、一緒に買いに行きましょう」
そう提案する信子の声は、どこか嬉しそうだった。
「分かった。じゃあ、塾に行ってくる」
信子の傍から早く離れたくて、新吾は逃げるように家を出た。
バス停に着いて時刻表を確認すると、次の便が到着するまで、十五分ほど時間があった。
備え付けの長椅子に座り、新吾は鞄から文庫本を取り出して読み始めたが、文字を眺めるだけで内容は頭に入ってこなかった。
新吾は指で栞をすると本を読むことをやめて、大きな溜め息と共に頭を垂れた。
バスを待つ間、新吾は信子が何かに感付いて追っては来ないだろうかと、気が気ではなかった。
新吾は今、学校で来客用のスリッパを借りて過ごしている。
数日前、登校して靴から上履きへ履き替えようと下駄箱に手を突っ込むと、そこにあるべきものが無くなっていた。驚いて下駄箱を覗いてみると、昨日まであったはずの上履きが忽然と姿を消していた。
しばらく辺りを探してはみたが、結局上履きは見つからないまま、朝の会の時間が迫ってしまい、仕方が無いので新吾は靴下のままその日一日を過ごした。
後になって、倉田に上履きを履いていないところを見つかり、家で洗っていたら裂いてしまったと言い訳をして、特別にスリッパを貸してもらい、現在に至っている。
ここのところ、新吾の身の周りではこういった事が多くなっていた。
以前にも、授業中に指されて黒板に答えを書いて自分の席に戻ると、使っていた鉛筆の芯が折れていたことがあった。
この時にはまだ気付いていなかったが、また別の日に新吾がトイレから戻ると、机にコンパスが突き立てられていた。
それを目の当たりにして、初めて自分が悪質な嫌がらせに遭っているのだと新吾は理解した。
そして昨日、新吾は無くなっていた上履きが校庭の隅っこで泥まみれになって転がっているのを体育の授業前に見つけた。
新吾は未だかつて、これほど惨めな気持ちになったことがなかった。
新吾はボロボロになった上履きを拾い上げると、同級生の誰の目にも着かぬように学校に隣接する畑に向かって思い切り投げた。
放たれた上履きは、勢い良く縦回転をしながら、高く飛んでいった。
今にして思えば、あの無くした消しゴムも誰かの手によって隠されたのだろう。
あの時、あの場で気付くことができなかった自分の間抜けさが、何より一番悔しかった。
投げた上履きはすぐに勢いを失い、新吾が期待するよりもずっと手前に落下した。
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