第一章 2
「佐竹新吾です。よろしくお願いします」
何の面白みのない新吾の自己紹介に、教室の異様な熱気は戸惑いで一気に鎮静化した。
「……じゃあ佐竹は、一番後ろの席に座れ」
担任の倉田も少しばかり面食らったようだったが、ざわつきを取り戻し始める教室を治めるために出席簿で机を叩きながら、声を張り上げた。
新吾は指定された席に着くと、方々から送られてくる視線を全て無視して、何とも無しに前方の黒板の方を眺めていた。
すると新吾の前の席に座っている男子が振り返り、話しかけてきた。
「前はどこに住んでた? 野球、どの球団が好き?」
好奇心を前面に押し出し、自らの名乗りを忘れている彼の質問に新吾は答えなかった。
前の席の彼はしばらく新吾の返答を待っていたが、倉田に注意されて残念そうに向き直りはしたものの反省の色は無く、すぐに隣の席の女子と雑談を始めた。
朝の会が終わると、前の彼がまたしても新吾に話し掛けてきた。すると、それが合図であったかのように教室中の全生徒が新吾の席に寄ってきて、あっという間に黒山の人だかりができた。
新吾が無遠慮な質問攻めにうんざりしながらすっと立ち上がると、転校生の最初の言葉に興味津々の教室中の耳目が新吾に向けられた。
「……俺、トイレ行くから」
新吾は可能な限り冷たい声色で告げ、引き止める隙も与えずに教室を後にした。
残された生徒達は新吾の突き放した態度に、男子は一人として一緒に行くとも言えずに戸惑いを隠せずにいた。
新吾が廊下に出ると、噂を聞きつけた他の教室の生徒達が待ち受けていた。
新吾はそれすら無視して間を進むと、人垣は遠慮無く新吾を観察しながら、聞き取れない声で何かヒソヒソと囁き合っていた。
元よりトイレに入るつもりのなかった新吾はトイレを素通りし階段を下り、そのまま校内をぶらつき、予鈴のギリギリになって教室に戻った。
新吾が教室に入ると、それまで騒がしかった室内が水を打ったように静まり返った。
新吾が席に着くと、三度目となる、前の席の男子が話しかけようとして振り返ろうとした。
しかし、丁度倉田が教室に入ってきたので、彼は何かを惜しむように黒板の方に向き直り、新吾は一息ついてから筆箱だけを机の上に出した。
結局その日、新吾は休み時間や授業中に、クラスの数人から何回か話しかけられたが、全てのらりくらりと躱し、碌に相手をしなかった。
新学期初日ということで、半日で学校は終わり、新吾が帰り仕度をしていると、前の席の彼が椅子の背もたれを抱え込むようにして新吾を見ていた。
新吾はその視線に感付きながらも無視をしていた。
「なあ転校生。午後から野球やるんだけど、来いよ」
今日一日、散々あしらっていたにも関わらず、ここにきてまだ遊びに誘う屈強な精神に新吾は少なからず感心した。
「……まだ引越しの片付けがあるから」
新吾は、とっくに終わっている引越しの片付けを言い訳にして、その誘いを断った。
「そっか。じゃあ、また今度な!」
そう言って彼は新吾に笑顔を向けながら勢い良く立ち上がり、潰れた通学鞄を肩に掛けると仲間数人と元気に教室を飛び出して行った。
配られた連絡事項の紙や真新しい教科書を鞄に詰めて、ずっしりとした重みを感じながら、新吾は一人校舎を後にした。
――本当なら俺だって!
新吾は一人の帰り道の途中、心の中で不満を吐き出した。
――転校なんかしなければ、帰ってすぐに昼ご飯を食べて、いつもの公園で日が暮れるまで野球でも何でもして遊んでいるのに!
嬉しい誘いがあればこそ、新吾の心には鬱屈とした想いが堆積していく一方だった。
新吾が帰宅すると、信子が電話をしながら片手を挙げて出迎えた。
「ただいま」とも言わずに、新吾は信子の脇を通って、真っ直ぐ自分の部屋へ向かった。
部屋の中に入ると、新吾は机の上に鞄を置いて、ベッドへと倒れ込んだ。新吾は手持ち無沙汰なこれからの時間をどう過ごして潰すか、考えることすら億劫になっていた。
しばらくそうしていると、台所から信子の声が聞こえた。
「お昼ご飯、できたわよ」
新吾はもぞもぞと起き上がると、昼食を摂りに居間へ向かった。
居間に行くと、既に机の上には焼きそばが向かい合うように並べられ、新吾が片方の皿の前に座ったところで信子が台所から箸を持ってやってきた。
「学校は、どうだった?」
「別に」
「別にって、何かあるでしょう」
やはり母としては早く学校に馴染んでほしいらしく、同級生の事や学校の雰囲気、通学路の事など色々と質問をしてきだが、新吾は適当に返事をしながら焼きそばをかき込むように平らげると、さっさと自分の部屋へ引き上げようとした。しかし、新吾は居間を出るところを信子に呼び止められた。
「この後、今度通う塾にご挨拶に行くから、準備しておいてね」
「は?」
新吾にとっては寝耳に水だった。
「何それ、聞いてないけど」
「受験するのだから、それくらいしないと。一人で勉強なんて出来ないでしょう?」
新吾は、またか、と虚脱感に襲われた。
新吾は勉強を得意としていたが、確かにいったいどこまで勉強すれば良いのか参考書だけでは分からないし、誰かにこれだけやったのなら大丈夫、と後押しをしてもらえたならきっと新吾も自信を持って受験に臨めるだろう。
そのために塾に通うことが最良の選択であることは、新吾にも理解できた。
理解ができただけに相談すらしてくれない母に新吾は不満を募らせた。
「とにかく、三時になったら出かけるから、ちゃんと準備しておくのよ」
それだけ告げると、信子はお皿を重ねて、新吾の脇を通り、台所へ洗い物に行ってしまった。
新吾は苛立ちを覚えながら、足早に自室に戻った。
「準備するったって、何すれば良いんだよ」
一人愚痴りながら、椅子に乱暴に座ると机に置かれた読みかけの文庫本に手を伸ばし、続きを読み始め、三時までの時間を潰した。
信子が選んだ塾は駅前にできたばかりの進学塾で、新吾の家からはバスを使い、二十分程かかった。
信子が進学率や授業体制などをいくつか質問している横で、新吾はバスに乗って一人で駅まで通うことになったら、まるで大人みたいだと、それまでの怒りを忘れ、今度は気分を良くしていた。
その晩、帰宅した祥悟とも相談して、新吾はこの塾に通うことになった。
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