第九章 "にごあい"の舞台「あやばみ」
第36話"にごあい"の舞台「あやばみ」①
立見もあるかもしれない。
準備を済ませ、舞台袖から客席をこっそり覗き見たこのめは、それでも控えめな表現だったのだと思い知って震えた。
備え付けの座席を取り囲むように、人、人、人。校内の男子学生も多いが、それ以上に女性客の姿が目立つ。他校の制服を着ている者、姉の冬香よりも年上に見える者。年齢層の幅広さに、本家『あやばみ』の人気を目の当たりにした。
これだけ人が多くては、理事長の姿はおろか、「絶対優良席を勝ち取ってやる……!」と息巻いていた冬香もどこにいるのかわかりやしない。
しかしなるほど。この状態ならば混乱を避ける為と、正面玄関からではなく裏口からの入館を手配されたのも頷ける。
舞台袖から繋がる控室への入室は、開演時刻の三十分前からが割り振られている。本来ならば、講演を終えた二つ前の団体と入れ違うようにして正面玄関から入るのだが、実行委員会の手配で、このめ達はこっそりと裏口から入ったのだ。
確実な緊張を背負いながら、控室へと戻る。迎え入れてくれた部員達も準備が終わったようだ。衣装にウィッグ、メイクも完了した状態で、各々寛いでいる。
「なにフラついてんだよ。これからが本番だろうが」
呆れた顔で吹夜が嘆息する。
「わかってるって、大丈夫だよ……。ちょっ、ちょっと衝撃が大きかったってだけで……」
「初舞台が満員どころかキャパオーバーなんて、僕を連れて逃げ回ってた頃のこのめに言っても、絶対信じなそう」
「オレは信じるッス! 凛詠サンが出るんだから当然ッス!」
「そういう迅くんもなんか顔色悪いですけど、大丈夫ですか?」
「ばっ! バッカ言うんじゃねーよ! オレは! ビビってなんかねえ!」
図星だな。おそらく部員の全員が胸中で思ったが、誰も指摘はしなかった。優しさだ。
壁に掛けられた時計を見遣ると、開演十分前をきっている。そろそろだろうか。そう過ぎった時、「皆、準備は終わったか!」と焦り顔の武舘が飛び込んできた。やや遅れて、濃染と文寛兄弟も戻ってくる。
「こっちは完了してます。濃染先輩達は?」
このめが尋ねると、濃染は常の落ち着いた顔で、
「こちらも問題ない」
「そうかっ! なら、皆落ち着いてな!」
「どっちかって言うと」
「シゲちゃん先生が一番落ち着いてー」
『ホント倒れないでくださいよー』
「だ、大丈夫だ! 昨日は早く寝たからな!」
言うもなんだか不安げだ。このめは苦笑する。なんだか緊張も、随分とほぐれてきた。
見計らったように、吹夜が「このめ」と呼んだ。部員の視線が集まる。このめが小さく頷いて歩を進めると、他の部員も同じ様に歩を進めた。誰が言うでもなく、円形に集う。
こうやって集まるのも、今日で最後になるのだろうか。
「……今ね、凄くワクワクしてる」
「っ、成映先輩」
「これまでも、これからも。どっちも考えられないくらい、舞台の事ばっかりなんだ」
ああ、そうだ。まだ何も始まっていない。まだ何も、終わってなんかいない。
薄く閉じた瞼の裏には、眩い照明と独特の世界。
高揚感。このめはゆっくりと瞼を開いた。心臓が、バクバクしている。
「……俺は、言葉が上手くないから」
並ぶ顔を見回す。頼もしい顔ぶれを。
「楽しみましょう。俺達の、舞台を!」
笑みと共に差し出された十本の腕。
やっぱり、向日葵みたいだ。このめも笑んで花弁を足す。肺いっぱいに息を吸い込んで、
「にごあいっ!」
『かい・まくっ!』
***
期待、興奮、好奇。ガヤガヤとした会場に、ビーッと開演を知らせるブザーが鳴り響いた。空間が黒に染まる。
途端。和の風を吹き込むように篠笛の音が流れ込み、節目を強調する和楽器を従え、静から動へとうねりを上げた。
上げられた幕。桃よりは桜色に近い光の中、朱い着物に真紅の番傘を担いだひとりが、金の髪に挿した派手な簪を揺らし、ゆったりと振り返った。
片側の肩を斜めに落とし、視線を先に、後から顔が付いていくような緩慢とした仕草に、独特の色が滲む。帯に挟まれた扇子の飾り紐が薄く揺れ、見る者の胸中をちろちろとくすぐる。
沙羅だ。息を呑む会場を当然のように受け止め、鮮やかな紅い唇が妖艶に弧を描いた。愉悦に細まる金の双眸。その視線はやはりゆっくりと、舞台反対側へと向けられる。
「不器用な男じゃのぉ……。何故真実を話さずに、敢えて己の身を切る道をとるのじゃ?」
明るい白のライトと共に、背を向けていた男が振り返った。白から水色に変わっていく着物をスッキリと着こなし、腰に携えた刀の白い飾り紐が揺れる。
朱斗。白く跳ねる髪の奥で、紅い瞳が剣呑な光を放つ。
「真実を告げた所で、何も変わらない。今はもう、一刻を争う状態だと、お前も分かっているだろう化け狐。……それともお前は、翔を本能に従うままの、あやかしにしたいのか」
鋭く睨まれた沙羅は態とらしく身を捩り、着物の袖で顔を覆う。
覗く双眸が未だ愉しげなのが、茶化している証拠だ。
「おお怖い。まだわらわを信用出来ぬか?」
「翔を喰うつもりがないのはわかる。だが、道連れにしないとは限らん」
朱斗の声は堅い。腹の内ではすっかり『同じ側』だと認識しているくせに、こうして最後の警戒を保ち続けるのは、その生真面目さ故だろう。
ああ可笑しい。なんて滑稽な。だが、そうでなくては困る。翔の側に在る者として。
「そうじゃのお、長くを一人で生きるのは実につまらんものよ。妖かしとしての本能に狂った『烏天狗』と、暴挙の限りを尽くすのもまた魅力的じゃが……」
懐かしげに緩んだ瞳に映すのは、話に聞いていた翔の祖父。暴虐の限りを尽くした、いかにもらしい『烏天狗』。沙羅は脳内で、その姿に翔を重ねる。
次いで思い出すのは、沙羅の眼で見た記憶だ。引き裂かれた着物を引きずり、あらゆる肌から血を滴らせ、本来ならば沙羅へと突き刺さらなければならなかった仕込み錫杖を杖にし、それでも尚『一緒に』と叫んだ、『人間』の姿。
愚かで愛おしい、翔。
「……あやつは、共に在ると言ってくれた。笑えるほど阿呆で、救いようの無いほど律儀な男で。……わらわは『烏天狗』よりも、そんな愚かなあやつの方が好きじゃ」
「……なら、手を貸せ。覚醒した『烏天狗』は、オレひとりの力じゃ抑えきれんだろう」
「共に身を切れと言うか、白蛇よ」
剣呑に声を強めた沙羅にも、朱斗は怯むこと無く即座に「そうだ」と答える。
沙羅は拍子抜けした。常の朱斗ならば、斬り合いの一つでも口にするか、「ならばいい」と踵を返すからだ。
「珍しく素直じゃのお。張り合いが無くて実につまらん」
「答えは」
それだけ事態は切羽詰まっているという事。沙羅も、薄々感じ取ってはいた。
このまま捨て置けば、翔は、きっと。
「……仕方がないからの、わらわも愚行に身を投じてやろうぞ。あやつの言葉を借りるのならば」
タタンッと小鼓のような軽快音。暗転した舞台に、沙羅の姿だけが浮かぶ。
「『友』を救うのは、『友』の役目じゃ」
暗い舞台に程なくして光が戻る。先程まで朱斗が仁王立ちしていた箇所には、変わって別の姿。腰を落としてのんびりとどこかを望む青髪の男は、長い髪を一つに纏め首横から垂らしている。青地に黒文様の着物に独特の威圧感。だが、手にした黒の煙管がくるりと回ると、変わってひょうきんな気配が漂う。
キャラクターとしても人気の高い碧寿の登場に、ひっそりと沸き立つ気配。だが碧寿は一切の動揺もなく、ただ、風雅に遠くを眺める。
鳥の囀りに、水の流れる音。山奥の気配に包まれる中、また違う男が盆に湯呑みをふたつ乗せ現れた。緑の短髪に馴染む深緑の着物は裾をたくし上げ、ピッタリとした黒布がそれぞれの足を覆っている。長身と大きく開かれた襟に、碧寿とは異なる奔放さが漂う。
気づいた碧寿が、口だけを動かした。
「つまらん。実につまらん。そうは思わないか? 獏よ」
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