第五冠 飛翔
ユクを抱えたナッツは獣の健脚で地を踏みしめて中庭の花壇にドスリと着地する。木の葉や花弁は巨体の重みで散り散りに舞い上がり、彼女は少年を降ろしてから毛に付いたそれらを獣のようにぶるぶると振り落とす。
「してユクよ、今の状況は?」
「黒騎士の奇襲に遭った。ここには─俺の友達のヘルも居るんだ。助けに行かないと…!」
「云無!大体は承知したぞ!」
ナッツは少年の頭に付いた葉をべしべしと落としながら機嫌よく尾を振った。しかし、そうしている間にも地上館の外観は少しずつ崩壊の一途を辿っている。
ユクは悩んだ。今すぐ真っ先にでもヘルを救い出すべきなのか、それともシキ先生を信じて先に逃げ出すべきなのか。
ここで決断しなければ、そのどちらも失う事になりかねない。
「無事か!?一級最年少…!!と…──おっぱいの付いた猛獣…か!?」
だが、このタイミングで崩壊寸前の地上館を脱出して中庭の向かい側からユクに声を掛けてきたのはウォーカーという名の青年。彼はユクと同じ一級地図書きだが…ユクからすれば特に印象のない先輩だ。
「……あの!ヘルは…!!」
「あぁヘルなら無事だ!もう逃げてる!俺らも早く逃げるぞ馬鹿野郎!!」
ヘルの無事を聞かされたユクは先輩の後を追って崩壊寸前の地上館を脱出する。ナッツはこの身を愚弄されたと拗ねていたが、ここでヘルの無事を知れたのは幸運としか言いようがない。
「…なぁ最年少。真面目な話だがあのおっぱいどう思う?」
「どうって…どう?」
「いや、だからさぁ…!よく見ろよあの乳揺れ…!俺ら的にはやばいだろ…?色んな意味で!お前どこであんなやばい獣人と知り合ったんだよ!?」
「あぁ…そう言う事…。」
走る紅獅子の揺れる乳を見ながら不真面目な話をするウォーカー。ユクは今までナッツの勇姿ばかりを見てきたのでそこまで意識することは無かったが、確かにあれはおっぱいだ。
…ユクは恥ずかしさのあまりナッツの身体を直視出来ないデバフにかかってしまった。
おっぱいの事は一旦忘れてユクはこれから先の事を冷静に考える。霧のように離散する能力を持つ黒騎士には一切の物理攻撃が通じず、シキ先生の剣でもあれを仕留め切れるとは思えない。そしておそらくこの天成戦争における最大の敵も黒騎士だ。向こうは何が何でも見境なく攻撃を仕掛けてくるだろう。逃げ隠れる以外にも立ち向かう算段を立てなければならない。
──共同戦線。イスタドールと交わしたあの約束は、まだ続いているのだろうか。
*
早朝。地上館の片隅であかあかと燃える残骸。飛び散った羽根は灰となり、やがて骸は大きな灰の山となる。
「ふうぅ…。何なのじゃ…あの狂戦士は。」
積もった灰の山からもぞもぞと這い上がる赤い髪の小柄な鳥人。彼女は着物の灰を払い落としながら両腕の翼を伸ばして風を仰ぐ。
「おのれ黒い甲冑の騎士め…。口上の最中に不意打ちとはなんと卑劣な奴じゃ。わらわで無ければ大抵の剣は死んでおるわ。」
鳥人はわずかに見つけた高所から滑空し、辺獄の気流に乗ってぐるぐると旋回しながら無限に高度を上げてゆく。
「しかし残念じゃのう。不死鳥のわらわは何度殺されようと決して滅びぬ。むしろ倒したと思い込んで油断が生じる頃合いじゃろうな。わらわはこの翼で安全な空を漂いながら最後に生き残った者を仕留めればそれで終わりじゃ。実にぬるいぬるい。」
ゲヒノムの上空1000メートルから地上館を見下ろして滑空する不死鳥。辺獄を塞ぐ天蓋はおよそ1300メートルの地点に存在しており、飛行能力を持つ彼女は以前天蓋を超えた先の3000メートル地点──異常な乱気流と低温で飛行不可能になる限界の高さまでの調査を終えていたが、高度3000メートルを超えても本当の空を見る事は叶わなかった。
「…先ずは三本。
不死鳥は中空で大きく身体を翻ると、その両翼に紅蓮の炎を纏わせながら地上館に狙いを定め音速を超えた速度で急降下する。飛行能力と不死能力を持ち、かつ高高度を確保する条件が揃ってようやく繰り出せるこの技の威力は戦術的勝利を重きに置いた天成剣とは最早次元の違う戦略的な破壊力を秘めていた。
*
そして場面は変わり、南区一層の高原地帯。様々な世界から抉り取られた地形がマーブル模様に入り混じったこの高原には灰色の空の光に照らされて様々な世界の植物が乱雑に生い茂っており、高原の中心に聳え立つ巨大な樹木から腐り落ちた赤色の果実がまるでコンベアに載せられた荷物のように坂を転げて下層の淵へと落ちてゆく。
「サッチー、傷はもう大丈夫?」
「…コアに傷がなければ再生は容易だ。しかしマスターよ、その愛称は止してくれないか?」
巨大樹の根元に座るサーペントは転がり落ちる果実を意味もなく拾い上げては捨て、イスタドールの呼ぶ恥ずかしい愛称に耳を塞ぐ。
「んー…。私は良いと思うよ?呼びやすいし、ちょっと可愛い。それに好きに呼べ…って言ったのはサッチーじゃない。」
「良し悪しの問題ではない。剣に付ける愛称にしてはあまりに威厳に欠けると言いたいのだ俺は。」
「威厳…。それもそうね。ならペントはどう?」
「論外だ。君のセンスはどうかしているぞ。」
あきれた口ぶりでイスタドールのセンスを全否定するサーペント。放っておけばもっとひどい愛称が付くに違いないので彼は元のままサッチーで妥協する事にした。
「センスがひどいって…、それお父様にも同じことを言われたわ。」
「マスターの父上か。…デュオン家も因果なものだ。バベルの末裔にして初代当主のマカダミア・デュオンが第六天成戦争に参戦したのが300年前。以後代々剣属を選出しているのだから大したものだよ。」
サーペントは樹木に寄り掛かったまま数日前に目を合わせた威厳ある男の顔を思い浮かべる。一族唯一の適合者とは言えよくもまあこんな幼気な娘を天成戦争に参戦させたものだと少々苛立ちを覚えながら。
「デュオンの人間は天成戦争に勝利して天蓋の果てにある本当の空を見なくてはいけない。…それが塔を築いたバベルの悲願だから。」
「先祖の無念を晴らすか。本人の意志など何処にも無い虚しいだけの悲願だな。あの天蓋の果てに本物があるという保証も無いだろうに。」
「違うよサッチー。確かに一族の悲願かも知れないけれど、これは嘘偽りのない私自身の願いなの。かつて塔を築いたバベルの一族がそこまでしても辿り着きたかった天蓋の果てを。彼らが憧れた本当の青空を──私も見てみたいの。」
木陰のない大樹から立ち上がり、八つの天蓋に覆われた雲一つない灰色の空を見上げるイスタドール。彼女は嬉しげに手を広げて振り向き、サーペントにこう伝えた。
「…それにね。もう一つだけ信じていることがあるの。私はあのユクっていう子が──本当は天蓋の上からやって来たんじゃないかなって。…根拠もなにも無いんだけどね。なんだかそんな気がするのよ。」
「フン。バカバカしいと笑ってやりたい所だが…純粋無垢なマスターに免じて今は止しておこう。確かに身寄りのない記憶喪失の地図書きという少年の素性には俺も関心が無い訳でもないが、…それと天蓋を結びつけるのは如何せん安直すぎる。…所でマスター。あの無頼漢は貴女の客人か?」
そう言ってサーペントが坂を転がる果実の一つ放り投げると、果実は鋭利な刃によって八等分に切断され、淵の底へと落ちてゆく。人を遥かに超えた抜刀速度は勿論、四本の腕に刀を握って複眼を光らせる外骨格の姿はあからさまに人間の領分ではない。
「…違いそうだな。俺は第八十四天成剣──竜騎士のサーペントエッジ。悪いが鬱憤晴らしに付き合え。」
「是非も無し。拙者は第九十天成剣。修羅刹のハンドレッドデス。…で御座る。」
*
ドゴオォォォォォォ………ン。
「まずい伏せろっ!!!」
「っ……!!?」
背後から響く強烈な爆発音と、立て続けに発生する衝撃波。ユクは突然の出来事に何が起きたのかも分からず背中を押されてその場に転げ込んでしまった。
「一体何が…。え…?」
「
ユクは見た。ウォーカーの呼び声に応えるようにして出現した極彩色の花冠から放たれる七色の光線が、飛来する瓦礫を次々と撃ち落としていく光景を。そして彼の背後に佇む花のように寡黙な少女の姿を。
「何っ!?簡易鍛造だとっ…!?お主まさか…!!」
「…あぁ、そういやまだ言ってなかったかもな。まぁ色々と割愛するが諸事情あってこのウォーカーさんも剣属なわけよ。」
驚愕するナッツに対して頭をかきながらわざとらしく照れくさそうに喋るウォーカー。だが、彼の軽い口調に反してユクの反応は予想通りに冷たい。
「何だこれ…。何で……?」
それも当然だ。ユクは飛来する瓦礫の先に今はもう何もない──焦土と化した中央通りを見てしまった。先ほどまでシキ先生と黒騎士が戦っていたはずの地上館は…もう何処にもない。離れにある寄宿舎も。ゲヒノムの四方に通じる大通りの十字路も。地図書きの道具を揃えた文具屋も。…彼の目線の先には塵の一欠さえも見当たらない。
レスタスはどこへ消えた?アイオウルは?ヘレナは?シルフィは?オドタロスは?ルロイとクロイは?シキは──?
「…今のでシキとフラメアが両方死んだ。こいつが
「………。」
ユクは膝を付いて落胆した。彼は目の前にある光景を理解する事が出来ず、どう受け止めれば良いのかも解らなかった。果たしてあの爆発から逃げ出せた人間が自分達の他にどれくらい居たのだろうか。あの場にいた身近な友人の名前を並べるだけでも手足が震え、頭の中が真っ白になる。
「…ヘルは。」
「あの子なら無事だぜ最年少。俺が避難させたって言ったろ?あー、これも言い忘れたがクィーンには未来予知的な能力がある。もちろんお前を救えたのもこの能力のお陰だ。要するに俺はお前の命の恩人だな。理解出来るか?」
頭を抱えてヘルを心配するユクに、ウォーカーはそう呟いた。彼はこうなる未来を知った上でヘルを逃がしてシキを見捨て、そしてユクを助けたのだ。きっとウォーカーは自分一人で逃げ出す事も出来たのだろう。もし彼の呼びかけが無ければユクはヘルを探して地上館に戻り、そのまま死んでいたに違いない。
「…俺と、ヘルを救ったの?どうして…?」
「理由は単純明快!…ずばり俺の味方になってくれ!最年少!!」
またそれか。ユクは再び困惑した。しかしイスタドールと交わしたのはあくまでも黒騎士を倒す為の共同戦線だったので、別に寝返っても大丈夫かなと彼は思った。
*
「…ユク!?よかった!無事だったんだね…。」
「ヘル……。」
ユク達は南区三層方面にあるモニュメントの近くでヘルと再会する。クレーターから大分離れたこの時点でも倒壊に巻き込まれるなどしてかなりの負傷者が出ており、彼女はここで怪我人の救命に尽力していた。
「ユク…良かった…。生きていてくれて…。でも今は…それどころじゃないの。お願いユク。血を止められるものをたくさん持ってきて…。」
「…分かった。ナッツも手伝ってくれ。」
「吻無…。」
ユクは状況をいち早く飲み込むと、ヘルの頼み通り布を持ってきて応急処置を手伝った。復活早々雑用を任されたナッツはやや不満そうな顔を浮かべたが、仕方ないと割り切って大人しくユクの命令に従った。
「…俺は向こうを見てくる。ここは任せてもいいか?二人とも。」
「私たちは大丈夫です。ウォーカーさんとクィーンさんも気をつけてください。」
「ユクよ!私は!?」
「ナッツは─…とりあえずこの布を自分に巻いて。」
「これを私に巻くのか…?私はケガなどしていないのだが……。」
ウォーカーとクィーンに他の場所を任せ、怪我人の応急処置をするユクとヘル。そんな中でいまいち役に立てていないナッツはユクから謎の布を渡されて困惑する。
「…いいから巻くよ。」
「吻無…。なぜ乳房にそんなものを…。」
結局ナッツはよく分からないままユクに布を巻かれてしまったが、この簡素な下着のおかげで胸の揺れがだいぶ抑えられ、結果的に戦いやすさも向上したのであった。
*
「さぁ~て狙いは南区一層の高原地帯だ。竜騎士と修羅刹の二人を今戦わせるのはマズい。適当な威嚇射撃で妨害してくれるか?クィーン?」
「……了解。」
南区二層。ウォーカーは二人と一匹を置いて廃墟の屋上に移動し、ここからでも目立つ巨大樹の根元を指で差す。浮遊する極彩色の花冠から放たれる七色の光線は見た目こそ派手だが大した威力は無い。一帯を焦土へと変えた不死鳥の技に比べればせいぜい木の根を焦がす程度だ。
だが、彼は他の剣属が知り得るよりも遥かに先の結末を見据えている。
たとえこの先何度死ぬ事になろうとも、それは些細な失敗でしかない。
「…撤退、確認。」
「ありがとなクィーン。…あぁ言っちまったし、一応怪我人探して戻ろうぜ。」
ウォーカーは何気ない笑顔で微笑む。それを見てもクィーンはまだ、笑わない。
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