第三冠 乖離


 絶望を見た。耐え難い程の絶望を見た。

 救いようの無い絶望を見た。

 自身の絶望を見た。誰かの絶望を見た。

 未来を見た。過去を見た。

 赤い華のように咲いた血糊の絨毯の上で、己の腹に突き刺さる二又の剣を見た。


 ああ、自分は何度この憎しみを味わったのだろうか。

 心は既に死んでいる。身体もいずれは朽ち果てる。

 それでも彼は立ち上がる。死に場を失くした屍のように。


 憎悪に焦がれる彼の魂は、この世すべての不条理を焼却し続ける。



「彼女との契約を破棄し、天成戦争の舞台から退いてください。」


突拍子もない彼女の言葉に、ユクは目を瞑った。思い悩んでいる訳ではない。答えるまでもないと、そう思ったのだ。


「だったら今。この場で力ずくにでも俺から剣を奪えばいい。」


 ユクはイスタドールの正面に立ち、強気な言葉を投げつける。イスタドールは彼の態度に異議を唱えようとしたが、思い留まった。ユクがそう返してくることも、彼女はある程度予想していたのだろう。


「そうですか。…ではユクくん。今この場で私達に剣を奪われても文句は言わないでください。」


 イスタドールは寂しげな表情を浮かべて彼の姿から目を背ける。交渉は決裂した。彼がそれを望むのであれば、後はなるようになるだけだ。


「殊勝な心掛けだな、マスター。…だがあんたも知っての通り俺は子供騙しが嫌いな性分でね。その少年の薄皮のような首をうっかり跳ねてしまうかもしれん。」


 サーペントエッジはイスタドールの判断に従い、誤魔化しようのない明確な敵意に満ちた眼でナッツ達を睨む。


「吻無。やはりそう来るか…。こちらとしても厄介な相手を早々に潰せるとなれば好都合だぞ。」


 向こう側がその気だと分かればナッツも手元に二又の剣を鍛造し、サーペントエッジを視界の中央に見据えて臨戦態勢に入る。


「やれやれ。恩を仇で返すとはまさにこの事か。聞き分けのない獣を叩くのは満更退屈でも無いがね…!」


 先手を仕掛けたのはサーペントエッジ。彼は鋭く伸びた直剣を構えて素早くナッツ懐に接近したのち、彼女の首筋を削ぎ落とすようにして居合いの如き斬撃を放つ。当然ナッツも棒立ちではない。彼女は斬撃の間合いを瞬時に見計らい、持ち前の反応速度と獣の如き身体能力を以て難なく攻撃を躱す。


「云無!この程度他愛もない…!」


 斬撃は確かに素早いが、決して見切れない程ではない。ナッツはこの機を逃すまいと受け身の姿勢から攻勢に転じ、二対の豊満なものを揺らして二又の剣を大きく振りかぶった。彼女の見据える視線の先ではサーペントエッジがにやりと笑う。


「…何か来る!ナッツ…!」


「……!?」


 何かを勘付いたユクの咄嗟の一声でその場に伏せるナッツ。彼女の頭上を通過するのは空気のように透き通った不可視の斬撃。獣人は研ぎ澄ました聴力で斬撃が空を斬る音を正確に聞き分け、それを辛うじて回避した。


「吻無。あの黒騎士を撤退させる程だ。よほどの大技が来るだろうと睨んではいたが…なるほど見えざる斬撃とはな。それにしてもあれを見切るとはでかしたぞユクっ!!」


「…カンだけどね。…次、来るよ!」


 ナッツにやたらと大声で褒められたので、ユクはちょっと照れくさそうにした。ところで今の二人にこんな事をしている余裕は無い。剣を振り上げたサーペントエッジは今まさに第二第三の斬撃を繰り出さんとしている。


「俺の剣を初見で躱すとは面白い。見切った少年も大したものだ。」


 竜人は一つため息を吐くと、もはや隠す必要も無いだろうと不可視の斬撃を惜しむ事なく繰り出した。しかし、剣を振るう度に折り重なる無数の斬撃は空気密度による光の屈折によって軌道が露呈し、不可視攻撃のアイデンティティを失ってしまっている。


「数を撃てば当たるものでも無かろうに…!」


 見えている斬撃ならば先ほどよりも回避は容易い。そう踏んだナッツは二又の剣を二対の剣に分離させ、より多くの手数でそれらの斬撃を相殺した。反撃はそれに留まらず、あわよくば双剣を振るう勢いのまま追撃を繰り出そうとする。


 ─そう。それこそが彼女の誤算だった。


「……が、ぁ…!?」


「…見えないものが見えるようになれば、その慢心が見えていたものを見失わせる。まるでお前は不正解の模範だ。」


 吐血し、攻撃の姿勢を崩すナッツ。彼女の背に深く突き刺さる空色の刃は、サーペントエッジが初めに繰り出したはずの不可視の斬撃だった。躱したはずの斬撃は死んでおらず、ブーメランのように弧を描いて彼女の腹を貫いたのだ。


「云…無!この程度ぉ……ッ!!」


 挫きかけた膝を保ち直してナッツは立ち上がる。ぐらつく身体を押し留めて双剣を構え、せめてもと見え透いた空元気をユクに見せつける。


 ──だが、一度敗れた者に二度も立ち上がる資格は与えられない。


「……!?」


 ナッツは本能的に違和感に気付く。この状況は何かがおかしい。先程から耳を劈く風切り音は何だ?何故サーペントエッジは追撃をしない?


 ─その答えは明白だった。彼女の周囲には少なくとも先ほど竜人が剣を空振りした回数と同数の斬撃が。ヒュンと音を立てる空色の刃が。回避しようのない見えざる殺意が無数に飛び交っているのだ。不可避の剣幕を前にしたナッツにもはや勝ち目は存在しない。そう確信しているからこそ、サーペントエッジは傍観に徹しているのだ。


「朽ちて眠れ。獣の剣よ。」


「貴様あああぁーーーーッ!!!」


 ナッツは吠える。腹を貫かれた身体は躯のように重く、踏み出す脚に力が入らない。


「ぐ、ぐがぁ………ッ!!!」


「…安心してください!ユクくんは私たちが必ず守ります!」


 失望するナッツに、せめてもの言葉を投げかけるイスタドール。そして悔いなく逝けと剣を振り下ろすサーペントエッジ。穿たれた腹から赤い鉄錆を撒き散らしながら、せめて最期にもう一度だけ姿を見せてくれと、ナッツはユクの方を振り向く。


「……負けるな。」


 振り向くナッツに、ユクはその一言を呟いた。


「無理だ…。」


 ユクは弱々しく泣きつくナッツの素顔を見た。


 ──いいや、もっと多くのものを見た。もっと多くの絶望を見た。耐え難い程の絶望を見た。救いようの無い絶望を見た。自身の絶望を見た。誰かの絶望を見た。未来を見た。過去を見た。何もかもが死ぬ様をこの目で見た。


「ユクくん…!?何をする気!?」


 ああ、本当にその通りだ。…と、ユクは思った。自分でも何をする気なのかさっぱり分からない。彼はただ、初期鍛造プロトフォージで天成剣へと戻したナッツ・クラッカーの柄を強く握りしめ、ありったけの殺意を込めてサーペントエッジへと振り下ろす。たとえ無数の斬撃に包囲されていようと躊躇いなく。


「サッチー…!彼への攻撃を止めて!!」


「この馬鹿がっ……!!死にたいのか…!?」


 ユクの無謀な行動にはさすがのサーペントエッジにも動揺を隠せなかった。だが、敵の懐に飛び込んで自滅を狙う発想は何も間違いではないのだ。

 サーペントエッジの斬撃は彼の意思とは無関係に敵を追尾し続ける。発動した斬撃を中断させるような器用な真似は出来ない。この少年を蹴り飛ばして被害を避けること自体は容易いが、そうなれば少年は確実に死に、主の意思に背く事となる。とは言え少年を庇えば今度は自らの身を危険に晒す事に繋がる。


「ふんがぁァーーーッ!!!」


「何だと…!?」


 だが、行動を躊躇う一瞬のスキがサーペントエッジの反応を僅かに鈍らせた。ユクの握った天成剣は再び真珠色の獣人へと姿を変え、スキを見逃さず勢いのままに体当たりを食らわせたのだ。


「云無…!我が胴を容易く貫くその刃……!こうして覆い被されば貴様もろとも貫いてくれよう…!!」


 ナッツは倒れた竜人の身体を上から抑え込むと、まるで盛りのついた巨獣のように腕を握ってこれ以上剣を振らせまいとする。


「正気かっ!?深手を負うのはお前だろうに…!!」


「それで良かろうなのだっ…私はぁ……ッ!!」


 そして、組んず解れつの両者に無数の刃が降り注ぐ。道連れに巻き込まれたサーペントエッジは伸し掛かる巨体を押し退けようとしたが時既に遅く、両者ともに致命的なダメージを負った事で勝敗の行方は有耶無耶になってしまった。



 天成剣ナッツクラッカー。

 天成剣サーペントエッジ。

 人の姿を失った二対の剣は淡い光を放ちながら消え、最後にはそれぞれ二人の剣属の手元へと帰属する。


「…ユクくん。あなたの覚悟は良く分かりました。…ただし。」


 背を向け、俯いてため息を吐くイスタドール。


「…せめて、共同戦線くらいは組んでもらいます。」


眉の下がった困り気味の笑顔で振り向くと、彼女は姉のような口ぶりでユクにそう言った。


「共同戦線……。」


「二人で他の剣属を倒して、最後には一騎打ちで勝敗を決める。…それでいいですね?ユクくん。」


「仲間になれって事なら、分かった。」


イスタドールが手を伸ばすと、ユクは相変わらずの無表情で握手を交わし、二人は一時的な共闘関係が結ばれる事となった。


 戦闘が終わって緊張が解けたのか、それから先のユクの記憶はとてもぼんやりとしていた。イスタドールが訳あって同行できないと告げた後、地上館で世話になっているシキ先生率いる捜索隊が折れた剣を抱えて歩くユクを救出した。それから地上で待っていたヘルに泣きつかれて、今はぼんやりと病室の天井を眺めている。

 瓦礫の地下で見た天成戦争も、こうして夢から覚めた後ではそれもすべて夢の一部のように思えてしまう。


「………。」


 ユクは枕元に転がる二又の剣を見た。刃が欠けてボロボロになったその剣は、地下から戻った時に彼が形見のように握っていたものだとヘルは言った。


「……ナッツ。」


 あの時叫んだ剣の名前と共に、戦いの記憶がまるで過去の出来事のように思い返される。もう剣は死んでしまったのだろうか。それともあれは夢だったのだろうか。今となっては確かめる術はどこにもない。


「……?」


 バサバサと鳥の羽ばたく音が聴こえ、ふと窓際を覗くユク。半分だけ開いた窓には赤い鳥の羽根のような物が落ちている。見知らぬ鳥の置き土産だろうか。地図書きの彼はそれを拾って上等な羽根ペンでも作ってみようと思ったが、赤い羽根は手で触れた途端にまるで火をつけた木の葉のように灰になってしまった。


「……ユク、入るよ。」


 おかしな事ばかり立て続けに起きて呆然としていると、今度は扉の向こう側からヘルの声がした。彼女の赤い髪は部屋に置かれた小さなランプの明かりで照らされ、見覚えのある影を形成する。


「…もう、体。大丈夫?」


「大丈夫、だと思う。」


部屋に入ってきたヘルの問いかけにユクは答える。思えば身体も不自然なまでに無傷だ。折れたはずの足は少しも折れておらず、あの高さから落ちてかすり傷一つもしていない。


「本当に…心配したんだから…。」


「…ごめん。」


「ごめんじゃなくて、そこはありがとう。」


 相変わらず陰気な返事をするユクにむすっとしたヘルは彼の口の両端を引っ張って無理やりニコっと笑顔にしてみせた。


「…ありがとう。」


「うんっ!」


 歪な笑顔で喋りづらそうに礼を言うユク。少しも元気らしさはないが、幼馴染のヘルにとってはこれぐらいの返事がいつもの元気なユクなのだ。


「…それにしても、ユクがこんなモノを持って帰ってくるなんてね…。」


「これは天成剣って言う、らしい。」


 折れた剣に興味を示すヘルに対して、ユクは獣人ナッツから聞かされた─天成戦争や剣属の話を覚えている限り話した。しかし「本当に剣が擬人化するのか?」と尋ねられてもそれを証明することが出来なかったので、ヘルが話を信じることは無かった。


「……いや、今は折れてるけど…修復すればきっと擬人化するはず。」


「……ユクもさ、結構ユーモアのある事言えるようになったんだね。」


「ヘル、信じてないの?」


「そりゃユクがウソをついた事なんて一度も無いけどさ、それさえ逆手に取るのがユクでしょ!」


「だからさぁ…。」


 お互いの主張を譲らないユクとヘル。いつもは仲良しの二人でも、その日ばかりは不毛な言い争いが続いたのであった。

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