32歳 横浜

 ボストンから直行便で成田。

 成田から自分の家に向かう前に、新しい職場となる大学の研究室へ挨拶に行った。

 その後、気まぐれに横浜駅行きの電車に乗ってみた。 


 横浜は多くの観光客で賑わっていた。

 みなとみらいの綺麗さは横浜駅の隅ずみまでを侵食し、怪しい五番街付近は近代的な商業ビルに変わっていた。

 川沿いのラーメンの屋台はもうなかった。ちょっと寂しい。



 両親は敷地内に2軒家を建て、1軒に住んで、1軒は賃貸用にしていた。兄夫婦が実家に両親と一緒に住んでいたから、オレは賃貸用の家に住むことになった。それほど広くもなく、ちょうどいい。


「ねぇ大和。コリー犬飼わない?」


 唐突に母から勧められた。


「は? なんで?」

「ブリーダーさんのとこに予約入ってた子がいたんだけどね、飼い主さんの都合が悪くなっちゃって飼えなくなったんだって」


 犬を飼ったところで、オレは2年後に死ぬ予定なんだけど。


「なんでオレ? 欲しいならお母さんが飼えばいいじゃん」


 ここで母が声を小さくした。


「子供のわがまま聞いちゃダメってお兄ちゃんに怒られるから」


 どうやら子犬を欲しがっているのは、兄夫婦の子供。つまりはオレの甥と姪。5歳と3歳。世間一般通り、母は、孫には甘いおばあちゃんなんだな。


「オレ、ときどきかわいがるぐらいしかムリ。忙しーもん」

「大丈夫。世話は全部私がするから。大和の家に住まわせることにしてくれるだけで」

「ならいいけど」

「ほらほら、この子。すっごくかわいいでしょ?」


 母はスマホの写真を見せてくる。


「うわっ。こんなかわいいの? すげっ」

「もう、今、1番かわいいとき」

「欲しい。今すぐ欲しい」


 3日後にはオレの部屋に子犬がやってきた。ついでに両親も兄の家族も。見学に。


「ねえねえ、叔父さん、名前は?」


 子犬は耳が垂れてふわふわもこもこ、てけてけと歩く。ちょっと首を傾ける仕草が似ていた。一番似ているのはタレ目。


「フラウ」


「ふらう?」

「うん。フラウ。フラウ・N・37142MA250YADE」

「なんだ? 大和、その番号」

「よくね?」

「よー分からん」


 そばにいた兄と父は首を傾げる。


「おじしゃん、だっこしていい?」


 3歳の姪が訊いてくる。いやいやいや、大きさ的に無理だろ。持ち上がんねーって。


「そっとね」


 ダメと言えない甘々なオレ。姪は兄嫁似のスーパー美少女。


「あ、ママと一緒に抱っこしようね」


 子犬のフラウは鼻をすぴすぴさせながらみんなの愛情を一身に集めていた。


「あ、そうだ、大和。これ、表札にして。門の枠のサイズに合わせてあるから」


 母から渡されたのは一枚の木のプレートだった。

 

 !


 これじゃん。


 20センチ×15センチの木の板は、初めて会ったときにフラウが見せてくれたものに間違いなかった。


「ねーねー叔父さん、それ何?」

「表札だよ。ここに叔父さんが住んでますって」

「この子も。この子も住むんでしょ?」

「フラウ」

「おじしゃん、フラウもしゅんでますってして」


 これがフラウとオレを繋ぐんだ。


「そうしよっか」


 オレは横浜市から始まる住所、自分の名前、そして、忘れてはならない1行を書いた。「フラウ・N・37142MA250YADE」。


「フラウのおうち、フラウのおうちだぁ」


 5歳の甥は、プレートを両手で持ってソファの上を飛び跳ねる。


「さあ、そろそろお暇(いとま)しましょ。叔父さんは研究で忙しいの。フラウも休ませてあげようね」

「ねぇ、おじしゃん、またあそびにきていーい?」

「おう、いつでもおいで」

「おじゃましました」

「「ばいばーい」」

「じゃな、大和」

「じゃ」


 最後に母が小さな声で耳うちした。


「ありがとね。大和」


 両親と兄一家が去るとリビングが広くなったよう。

 窓から降り注ぐ日光は、空になったリビングを燦燦と照らす。日光はキッチンまで届く。みんなが使って兄嫁が洗ってくれたガラスのコップの雫をきらきらと眩しいほどに光らせる。その光り方は星宿海の間の沼地をちろちろと流れる、湖と湖を繋ぐ水を思い出させた。

 抜けるような濃い青空とそれを映した星宿海。

 夜は星々が湧いているようだったっけ。

 失ったフラウを追い求めて辿り着いた場所。あのとき、たとえ幻影でもよかった。

 もう風化して欲しいとさえ願った熱い感情が胸を突き破る。

 今だって追い求めている。決して触れられないフラウを。

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