星宿海
「めちゃ大変。チャリ置いてきた方が良かった?」
オレもいい加減弱気。
「チャリなかったら荷物運べねーって。大和、自分で言ったのに」
「そっか」
「寒いからな」
どうせなら星を見たいという菊池の要望に答え、テントや敷物まで持ってきた。だから荷物が嵩張ったんだよ。
「ホントにあんのか?」
あのお爺さんが嘘を言ってるようには見えなかったけどさ、やっぱ幻かも。
「大和ぉ諦めるな」
あ、立場逆転してきた。
「この歩き方じゃ進んでんのかどーか分かんねーじゃん」
極力、沼地を回避しながら進むから、真っ直ぐには進めない。目的の方向に進んでいるのか不安。スマホにGPS機能があっても地図が紙ナプキンのあの絵じゃ意味ねーし。
「大丈夫だって」
「キク、なんでそんなこと言える?」
「これだけの沼地なら、さっきの山の上の草原より湖に近づいてるってことじゃん」
心折れているときだった。
「な、キク、水の匂いしねぇ?」
「は? 水って匂うっけ」
更に真っ直ぐに進んでいく。
視界の先にいくつも広がる青い水。
抜けるような濃い空の青色を鏡のように受け止めた多数の湖。
「すっげぇ!」
「なんだここ!」
お爺さんは1つのひょうたんの絵を描いてくれた。ちげーじゃん。湖がいっぱいある。湖と湖の間は沼地の部分もある。そこにも湖と湖を繋ぐ水がちろちろと輝きながら流れる。
星宿海ってのは、1つの湖じゃない。いくつもの湖が点在する一帯だったんだ。
ぱたぱたと優雅に黒鳥のような鳥が飛んで行く。
遠くには水を飲むヤク。
「オレ、星見たい。見る!」
感動に浸っていると、菊池はテントの袋をどさっと土の上に降ろした。
「向こうの方も行きたい」
オレがマウンテンバイクに跨ると、菊池は腰に手を当てて、悲しそうな顔をした。
「大和、お前まで消えるなよ」
「何言ってんだよ」
今日初めて出たフラウの片鱗。
「こんなすげぇ景色だとさ、湖の向こうの方に別の世界ありそうじゃん」
菊池は無数の湖が広がる彼方を指差す。
「そんな世界に繋がってるなら行きてーよ」
そこにフラウがいるかもしれない。
「おい」
「冗談」
「スマホ通じる?」
「んー。圏外じゃね?」
「だったらオレも一緒に行く」
菊池はテントの袋を再びマウンテンバイクに積み直す。
湿地帯は進んでも進んでもいくつもの湖がある。遠くからウサギがこっちを窺っているのが見えた
「おとぎばなしみてー」
「うん。寒さ忘れる」
「あー、キク、その言葉。寒さ思い出させんなよ」
「あれ? 遊牧民のテント」
「ホントだ」
オレ達の姿を見つけた遊牧民のお婆さんが、こっちに来いと手招きする。
翻訳アプリで会話。
「お茶を飲んで行きなさい」
遊牧民、お茶振る舞うの好きだなー。
「「おじゃまします」」
ここが日本だったら遠慮する。「お茶」なんて社交辞令だから。
これは本当のお誘い。
「温かいです。ありがとうございます」
そして勧められたのは、またまた塩バター茶。遊牧民の定番なんだな。今度は美味しいかも。
うっ。変な味。
このテントもテレビはあるわパソコンはあるわスマホはあるわ。遊牧民とは思えない。
ん? パソコンにスマホ?
「ここって、ネットできますか?」
「できるよ。税金の振込をしたくても銀行が遠いから、ネット銀行だよ」
チベットのお婆さんまで近代化。
遊牧民も税金払うのか。よく考えれば当たり前なんだけど軽いカルチャーショック。
「ちょっと、ホテルとレンタルバイクのところに連絡させてください」
オレはホテルに電話して、今夜、外泊する旨を伝えた。その間に菊池はネットでレンタルバイクの借用時間を延長。これでよし。無断外泊でも星を見ようって思ってた。でも、そんなことしたら、日本人2人が帰らないって警察沙汰になってたかも。
「1泊するのかい?」
「はい。テントを持ってきました」
「良かったら、夕食を一緒に食べよう。私1人なんだよ」
驚き。どう見ても目の前のお婆さんは60オーバー。60オーバーでも女は女。きちくきくちの色気は全女性を征するのか。いや。遊牧民がもてなし好きなんだろな。
「ご家族は?」
オレの問いかけに、お婆さんは寂しそうに首を横に振った。
「長男は西寧(シーニン)の会社に勤めてる。次男はオリン湖のホテルで働いてる。長女は嫁に行ったよ。昔は街の学校に行っても、こっちへ帰って来てヤクの世話をしたもんだったけどねぇ」
ということは、パソコンもスマホもこのお婆さんが使うってこと。秘境の幻の湖に住むのは仙人じゃなくて、近代人。中央には古いストーブがあって「遊牧民のテント」って感じなのに。
ストーブの温かさがに強張っていた体が溶けるよう。はあぁ。
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