幻の湖へ
湖のほとりで一晩中泣き明かしたいところを思いとどまった。この寒さはヤバい。
ホテルへ戻ると、ロビーまで菊池が迎えに来ていた。そして「爆音がした」と言った。
「フラウが爆発した音」
突飛な冗談にしか思えないような言葉でも、オレの滝のような涙と鼻水を見て、菊池は信じてくれたようだった。神妙な顔をして「酒買ってこようか?」と言った。
「とりあえず寝る」
シャワーも浴びず、着替えもせず、上着とマフラーだけとっぱらってベッドに潜った。せめて夢で会えたらいい。
「上向いて目ぇこすらずに寝ろよ。瞼腫れねーように」
ボソッと菊池がアドバイスをくれた。
泣いて目が腫れるなんて、菊池には1番縁がなさそうなのに。コイツもどっかで人知れず泣くことがあるのかも。
眠れねーじゃん。
キス、されたんだ。
結局、面と向かって、会いたいって言わなかったっけ。
「好き」って伝えてねーじゃん。
後悔ばっか。
静まり返る真夜中、ベッドから抜け出してベランダから湖を見た。白鳥はいなかった。ベランダに並んだ魚釣りの道具は凍るんじゃないかってくらい冷たくなっていた。
魚臭いベランダは現実で、フラウが現れたことは夢だった気がする。
青森で防衛隊海軍に助けられたのだって夢っぽい。そうすると、中国グルメ旅行は夢の続きってことになるから、魚臭い現実と矛盾。
寝不足で迎えた朝はダルイ。
「目ぇ、ちょい腫れてる」
面倒見がいい菊池は濡れタオルを手渡してくれた。
「ごめん。せっかくの旅行なのに」
「オレはいいって。気にすんな」
「腹減った」
「よし。飯食お。飯飯」
ホテル1階のレストランはピンクのハートで溢れていた。
「あーあ。みんなさっぱりした顔してさー」
「キク、下ネタやめろって」
「日本語だからいーじゃん」
「日本人もいるかも」
「いねーよ」
ハムエッグにサラダ、スープ、パン。がっつり。
「ツアーガイドって、結局、ほとんど頼らなかったよな」
北京で新幹線の個室に案内してくれた後、会っていないかも。
「こっち来てからはそうだけどさ、オレは釣りのことで、来る前に相当お世話になったからさ」
仕事さぼってるわけじゃないのか。
「そーなんだ。キク、今日は釣り三昧?」
「大和がしたいことすっか? つき合う。一人がいいならオレは釣りしてる」
「なあ、星宿海行かね?」
「どこそれ」
「幻の湖」
「おお! 探すのか?」
「西安(シーアン)の食堂でさ、ガムの玩具に引っかかったじーさんいたじゃん。あの人が本当にあるって言ってた。地図も描いてもらった」
オレは紙ナプキンに描かれた地図を見せた。
「やっぱ本当にあるんだ」
「やっぱって?」
「オレの曽祖父がさ、大学んとき山好きでいろんなとこ行ってさ、幻の湖見たって言ってたんだよ。でもみんな『ボケてるから』って信じなくて。何度も何度もその湖の話ばっかしてたんだよなー。オレ、まだ幼稚園だった。でも覚えてる」
菊池の幻好きの原点かも。
「ホントだったんじゃん」
大雑把な地図にはひょうたん型の湖。その湖の真ん中には「星宿海」の文字。
「なあ大和、なんで湖じゃなくて海なんだろ」
「でかいのかも」
「でかかったら地図に載ってるはずなのにさ」
黄河源流碑があるオリン湖とザリン湖はしっかり地図上にある。
「地元の人は旅行客に行ってほしくないらしい」
「立ち入り禁止区域?」
「そーゆーわけじゃないと思う」
「行く!」
「自転車がいいって」
「よっし、借りるぞ。ちょうど遊歩道用のレンタルバイクがあるじゃん」
「着こまないとな」
「大和、寝不足で寒いとこって体大丈夫か?」
「栄養ドリンク飲んどく」
「食料いっぱい持って行こ」
「栄養ドリンクも」
2人で自転車を借りた。フル充電された電動マウンテンバイク。
出発。
スマホで自分の位置を確認しながら走ろうと思ってた。なのにさ、走り始めて20分で圏外。うっそー。今時圏外ってあんの? マジで? 中国恐るべし。
「大和ぉ、道合ってんのか?」
「知らねーよ。でもさ、他に道ねーじゃん」
「じじい、本当は人気のないとこでオレら捕まえて、内臓売るんじゃね?」
「だったら西安で殺されてっだろ」
たまに喋って、ひたすら進む。
漕ぐ必要のないマウンテンバイクって楽だけど寒い。凍える。景色はずっと変わらない。今ってどこ?
途中、遊牧民のテントがあった。テントの前にいた40代くらいの男の人が手を振ってオレ達を止め、にこにこと話しかけてくる。翻訳アプリで会話。
「お茶を飲んでいきなさい。寒いだろう。よかったら充電も」
充電? テントに電線は来ていない。それどころか、ここまで電柱1本見なかった。
「すっげー、テントの裏にソーラーパネルあるじゃん」
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