老紳士
「ハイ、ボーイ。ジャパ二ーズ?」
涙を拭いていると低い声がした。
「イエス」
「キャンユースピークイングリッシュ?」
「イエス」
声をかけてきたのは、30センチほどの隙間しかない隣のテーブル席の老紳士。1人で食べていたようだ。
中国訛りのない綺麗なクイーンズイングリッシュ。妙に姿勢がいい。
「観光? それとも留学生?」
「観光です」
「そうか。どこへ行く予定?」
「明日はここで釣りをして、明後日から黄河の源流の湖に行きます。オリン湖とザリン湖」
「んー。黄河の源流碑があるけど、本当の源流は違うんだよ」
「幻の湖があるって話は聞いたことあります」
「幻じゃない。観光客に荒らされることを恐れて、あらゆる情報を消した。中国人が大切にしたい場所だから。人工衛星からもしっかり見える。まあ、真の源流は幻の湖の更に向こうだけどね。幻の湖は素晴らしいよ」
眉唾物。
「そーなんですか」
「21世紀の最初のころにはネットにも載ってたよ。旅行記もあった。そのころでも旅行会社すら紹介しなかった。行くには、自分で車か馬を手配するしか方法がなかったんだ」
ますます怪しい。
「どんな湖なんですか?」
「星が生まれる湖。星宿海(シンシウハイ)。古い地図ではひょうたんの形で。でもひょうたん型でもない」
「行ったことありますか?」
「行ったよ。普通に暮らせるようになったとき。自分のしてきたことを神に訊きたかった。本当に星が生まれているようで、伝説どおり、湖を筏(いかだ)で行くと天の川に着くと信じたよ」
ん? 普通に暮らせるようになった? 自分のしてきたことを神に訊きたい? この人、刑務所にいたんじゃね? 上品そうだけど、中国マフィアかも。
「素晴らしい景色なんですね。神様の答えはどうだったんですか?」
オレってば、いらんことを。
「神の景色にひれ伏して一晩中泣いた。そうしたら体中の血が入れ替わったみたいに心が元気になったよ」
いったいどんな過去背負ってんだよ。このじーさん。
「よかったです」
「ザリン湖まで行くなら行ってみるといい。30キロくらいだ」
「道はありますか?」
「ああ。今では遊牧民くらいしか使わない道がある」
でもさ、車ないじゃん。
「タクシーは行ってくれますか? 30キロは歩けないので」
「タクシーはないよ。地元の人は『そんなものはない』と嘘をつく。行くなら、自転車だね。地図を描いてあげよう」
お爺さんは紙ナプキンに地図を描いてくれた。すっげー大雑把。オリン湖とザリン湖の北に一本線引いただけじゃん。そしてぽつんと「廃墟」。道は廃墟の脇から南に伸びて、その先にはひょうたん型の湖。ひょうたん型じゃないって自分で言ったのにさ。ひょうたんの真ん中には「星宿海」の文字。
「この廃墟って分かりますか?」
「分かる分かる。それしかないから」
どんなとこだよ。
「危険はないんですか?」
「旅行者の居場所はWiFiルーターを基にGPSで管理されてるから大丈夫。でも、SNSには上げちゃダメだよ。出国できなくなるよ」
中国の検疫怖っ。
そんな話をしていると、眠っていたせいでガクンと体を揺らした菊池が目を覚ます。
「友達が起きたね」
「ありがとうございました」
目を開けた菊池は、お爺さんとオレが喋っていたことに気づいて、軽く隣のテーブルに会釈した。
寝起きの菊池にガムだ!
オレはリュックからガムの玩具を取り出して菊池に差し出す。
「食う?」
目向け覚ましにいいだろ?
「あ、じゃ、どーぞ」
なんと、ジェントルマン菊池は、隣のテーブル席のお爺さんにガムをどうぞと勧めやがった。
おい、こんなとこでジェントルマン発揮すんなよ。中国マフィアかもしんないんだぞ!
「ああ、ありがとう」
オレがどうしようかと迷っているほんの1秒弱の間に、お爺さんは手を出した。
ピチッ
「おう!」
イタズラに引っかかって指を挟まれたお爺さんが驚きの声を出す。
「すみません。すみません。大丈夫ですか?」
オレがこの後大丈夫だろーか。
「ははっははははっははははは」
お爺さんの大きな笑い声に店中の人達がオレ達を見る。
菊池は何が起こったのか分からずきょとんとしている。
「すみません。友達が取ると思ったんで」
「はははっははははは。ははっははははは。こんなに笑ったのは何年ぶりだろう。はっはっはっは。引っかかったよ。長生きするもんだな。ボーイ、写真を撮らせてくれ」
お爺さんと記念撮影。菊池も一緒。
中国マフィアに顔を知られてしまったかも。出国できなかったらどーしよ。
菊池とオレは大衆食堂を後にした。
泣いてたくらいなのにさ、あのデカい笑い声が気分を引き上げてくれた。
あのお爺さんは、オレが泣いてるのに気づいて勇気づけてくれたのかも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます