【第4話】みりあフレーバー

 夕刻、僕の住む学生寮・星見荘ほしみそう


 自室のドアを開けるとすでに部屋が暗かったので、電灯をつけることにする。

 築50年の寮の天井から垂れ下がる裸電球が部屋を照らすと、この部屋に場違いなくらいの華やかな女の子がずかずかと入ってきた。


 制服姿のつやめくツインテール、ファッションのスペシャリスト――猪熊いのくまみりあ。


 猪熊さんは部屋の中を見回して、なにやら不満そうなジト目で僕を見つめてくる。


「……もしかしてあたしがダメ丸の部屋に入る初めての女子なわけ?」

「う、うん。寮母の麻子あさこさんを除けば、そうなるかも」

「あーもーなに笑えない」


 頭を抱える猪熊さんだったけど、そんな事言われたってどうしようもない。


「うう、それに……この部屋、ダメ丸の匂いがする。スケベな男子の匂いがする……うう、体のすみずみまでダメ丸にまとわりつかれてる気分」


 いきなり失礼だった。

 そもそも今日の訪問は猪熊さんの提案だったのに。


「まあいいわ。――さあ、ダメ丸、今日あたしが来た理由、分かってるわよね?」


 猪熊さんが腰に手を当てて言った。


「もう絵馬があんたの身だしなみで心配しないように、きっちり指導するってこと。あんただってもう朝っぱらから絵馬に突撃されたくないでしょ?」


 少し前の朝。寮に襲来したスク水姿の荒ぶる神白星さんを思い出した。僕としてもあんな騒がしい朝はもう経験したくない。

 そんなわけで、猪熊さんの家庭訪問なのだった。


 このファッションのスペシャリストによる久しぶりのレクチャー。

 今回のお題は「身だしなみについて」らしいけど……。

 ただなあ……身だしなみか。

 この前の服選びは参考になったけど、身だしなみって言われても、歯を磨いたり、髪とか爪とかを清潔にしたり、そりゃもう日常で注意するしかないよな、って事しか思い浮かばないんだけどなあ……。


「あ、ダメ丸、いつも通りにナメた顔してる」

「い、いや、してないけど……?」

「あのね、身だしなみっていっても、そんな簡単なものじゃないんだから。てか、簡単じゃないからサボっちゃうんでしょ?」

「う……」

「あたしは身だしなみを整えることって難しい事だと思ってる。だから教えに来てるんだけど」


 言われてみると、注意する「だけ」のことを注意できてないのは、それが実は簡単じゃないっていう事の証拠なのかもしれない。


 猪熊さんの瞳に光が灯って、宝石みたいな輝きを帯びる。

 この宝石の瞳は、猪熊さんが真面目な事を言う時のサインだ。こうなると、この女の子が話す事を聞かなきゃいけないって気持ちになる。


「これね、普段なんで努力が三日ボウズになるかってことにも通じるから覚えておいて」


 僕が頷くと、猪熊さんが、びしい、と僕を指さしてきて、


「要するに、努力するための『目的』が決まっていないからなのよ」


 努力と目的、これだけ並べると普通の響きだけど、そこに「身だしなみ」が入ると言葉のつながりが感じられなくて、確かに意識していなかった事だったと気づく。


「具体的な目的のない努力は、個人だろうが集団だろうが絶対に失敗する。だから必ず目的を設定するの」


 言われてみれば当然のことではある。

 でも……身だしなみの目的ってなんだ?


「ただまあ知ってる。目的を設定する事だってひと苦労なのよ。現実的で要所を抑えた目的を作るなんて簡単じゃない。だから、ここだけあたしが言うわ」


 猪熊さんが、僕の身体の輪郭をなぞるように指を動かして、


「身だしなみを整える目的として、一番に意識すべき事は――『匂い』よ」

「に、匂い?」

「そう、匂い。結局は、匂いを気にするかどうかに身だしなみのほとんどが集約されると思ってるの」


 そうは言われても、匂い、か。そういえば特別しっかり気にした事はなかったかもしれない。


「ダメ丸は台所の匂いがする。モテなさそう。今の髪型とか普通に格好いいんだけど、まああたしが髪を切ったんだから当然なんだけど、なんだか清潔感とか空気感がキマってないのは、やっぱり匂いを気にしてないせいだと思うのよ」


 髪は普通に格好いい、の言葉に救われるけど、うう、なんだその台所の匂いとか妙にリアルで嫌な表現は……!?


「そこで、今から『匂いへの意識』を教えていくわけだけど……じゃあ訊くわ。『今から良い匂いにしよう』そう思ってなにか行動しなきゃいけないとしたら、ダメ丸はまず何を思い浮かべる?」


 僕は考える。

 手っ取り早く良い匂いにする、という点でいえば……香水とか?


「たぶん、香水を思い浮かべると思うのよ。でも――香水はダメ」

「な、なんで?」

「使いこなすのがすごく難しいアイテムなの。まず客観視ができないから、ちょうどいい量をつけるなんて至難の業。それにTPOっていうか、香水って周囲に香水をつけてる人間がいる前提でつけるモノなのよ。例えば――クラブに踊りに行くとか、着飾ったパーティーとか、普段から着飾るような派手な社会生活を送ってるとかね。周りがだーれもつけてないのにつけるモノじゃないのよ。ふだん香水をつけない人間にとっては『これは香水!』ってすぐに違和感を感じるものなんだから。あんただって香水の匂いで嫌な思いしたことあるでしょ?」


 それはそうかもしれない。例えば電車の中で隣り合った中年の人のきつい香水に顔をしかめた経験は何度もある。


「それに香水って、キリッて決まった人間がファッションとしてもう一味って感じで使うモノだから、身だしなみの道具としては使うべきじゃないのよね。そもそも身だしなみについて『香りを加えてごまかす』って考えは厳禁でもあるし」


 それならいい匂いにするにはどうしたらいいんだろう?

 香りを「加える」のがダメ。それならば――。

 僕は部屋の片隅にあるものに目を向けた。緑のノズルのスプレーだ。


「それと、このスプレーみたいに『匂いを隠す』。これは限りなく正解に近いのよ」


 猪熊さんが、僕が見ていたのと同じモノを指をさした。


「このファ○リーズは1999年に発売された、まさに人類の叡智よ。悪臭を消すスプレーという画期的な発明として、世界を変えた商品だわ。人類はもはやこれなしの生活なんて考えられない」


 でっかいスケールの話になった。

 でも、そんな革命的なスプレーでも完全な正解ではないらしい。


「ダメ丸の場合も、ファ○リーズを用意してるだけ上等な部類よ。匂いを消したり隠したりする意識があるだけまだマシ。でも、そこからもう一歩踏み出すには――そもそも『匂いを生まない』って意識が重要になるの」

「匂いを、生まない?」

「このファ○リーズは、素晴らしい商品であると同時に、ひと噴きして消せばいいという便利さで『匂いを生まない』という人類の意識をスポイルした商品でもあると思ってる。要するに――じゃあ悪臭って何? といえば、これは『あぶら』の匂いなのよ」


『脂』の言葉に揚げ物とかステーキとかを思いついてしまうけど、どうやらそうではない感じだった。


「人間は生きている限り食事で脂を取り続けるし、摂取した脂を皮脂として出し続ける。その脂が酸化したり、脂をエサに雑菌が繁殖することで悪臭が生まれるの」


『脂』は食事全体の油と、皮脂の事だったらしい。

 それに猪熊さんの言った悪臭発生のメカニズムも、洗剤とか消臭スプレーのCMとかでなんとなく見た事がある気がするな。


「そして悪臭がどうやって身体の匂いになるか。例えば、この部屋はキッチンから遠いけど……料理をして食事をする、後片付けが遅ければ酸化した脂の悪臭が部屋に充満する。髪や体をマメに洗わなければ当然皮脂がたまるし、衣類の洗濯や寝具の取り換えをマメにしなければ皮脂がこびりついて汚れと悪臭になる。その臭いがすべて身体に染みついていく」


 猪熊さんが、僕の部屋のハンガーにかかった衣類やベッドを指さしていく。

 今朝まではそんなに汚れてるわけじゃないと思っていたのに、改めて厳密に指摘されると、なんだか皮脂が溜まって臭そうにも見えてしまった。


「要するにね、匂いを生まないためには、生活全体をきっちりしなきゃいけないって事なの。『脂』の処理という意識をしっかり持つ、脂への関連度の高いお風呂や洗濯、掃除を優先順位の低いものとしない、そこにすべて出るって事なのよ」


 さっき猪熊さんが言った「身だしなみは匂いへの意識に集約される」の意味がなんとなく分かった気がする。


 掃除、洗濯、入浴・洗髪、生活全体の事について、それ単独の意識だといまいちやる気が湧かなかったけど、「脂の処理」という目標を認識してみると「全体を通して倒すべき敵」みたいなイメージが具体的に見えて、マメにやらなくちゃいけない事かな、と思えた気もした。


「とりあえずこの部屋、裸足はだしで歩きまわってるくせに、あんまり拭き掃除してないでしょ? そういうのも匂いの原因になるんだからね」

「う……」


 この寮のほとんどは寮母の麻子さんが掃除しているけど、自室については生徒の管理としている。まあ……拭き掃除はけっこうサボりがちだったかもしれない。


「今日来たついで、拭き掃除手伝ってあげるわ。雑巾ある?」

「い、いや、それは自分でやるよ。さすがに猪熊さんに任せられないって」

「は? なめてんの? あたしだって自分の部屋くらいは自分で掃除してるんだから。確かに他の部屋はメイドに……違ったそうじゃない」

「……?」

「とにかく! どうせ先延ばしにする未来しか見えないんだから、いま手伝うわ」


 なんだ? メイドって言葉が聞こえたけど、猪熊さんの家ってたまにお手伝いさんが来る家なんだろうか?

 それはともかく本当に掃除を手伝ってくれるだなんて、猪熊さんってやっぱり優しい子なんだよな。いつも言いたい放題で口は悪いんだけど。


「でも、掃除の前に――」


 猪熊さんがおもむろに僕の部屋の外に出た。

 小さな体をドアに隠すようにして、ジト目で僕を見つめてきて、


「……どーせスケベなやつ部屋にたくさん貯め込んでるんでしょ? 押し入れに隠す時間あげるから、早く」

「か、隠してないって!」


 そうは言いつつも、見られたらまずいものをさっと押し入れに隠したのだった。


          ○


 その後、猪熊さんが制服姿のままてきぱきと雑巾で床を拭いて、掃除の手伝いをしてくれた。六畳の部屋を二人で掃除したおかげか拍子抜けするくらい早かった。

 終われば、やはり部屋の空気が清々しい。


「さて、香りを加えるのは厳禁とはいったものの、加えても良い香りってのもあるのよ」


 爽やかな空気の中、猪熊さんがバッグから何かを取り出して棚の上に置き、ライターで火をつけていた。


「これ、あたしがたまに使ってるお香なんだけど、控えめな香りで使いやすいから何個かあげる。こういう感じで、お香とか、あとは毎日紅茶を淹れて飲むとか、良い香りのする習慣をつけておくと髪も服も自然に香るようになるわ」


 いったんレクチャーが始まると至れり尽くせり。これも猪熊さんの特徴だった。

 僕は「あ、ありがとう」とお礼しつつ、お香からうっすらとあがる煙を見つめる。柑橘とかハーブとか、甘くて優しい香りがした。


 と、香りに目を細めていると、猪熊さんが僕の顔をじっと見つめていた。

 そのままずんずん近づいてくる。小さい身体でちょっと背伸びをしてきて、なんだかキスする体勢みたいになった。

 ただまあ頬をむすっと膨らませて、そんな色気のある話ではないんだろうけど。


「ダメ丸、眉毛まゆげ伸びるの早くない? スケベな事ばっかり考えてるからでしょ?」

「それ髪の毛では…?」

「いいから、ちょっと眉毛整えるからベッドに座って」


 思い出す。髪のカットと一緒に眉毛も猪熊さんに整えてもらったんだけど、あれ死ぬほどの激痛だったんだよなあ。


「い、猪熊さん……お、お願い痛くしないで?」

「あーもーなんでそういうキモい言い方するの……!?」


 猪熊さんは頬を引きつらせつつも、毛抜きと小さなハサミをバッグから取り出し、ベッドに座った僕の対面へ。

 毛抜きが顔に近づいてきて、ぷちりと小さな痛み。またぷちり、ぷちりぷちり、前回よりは優しく抜いてくれているみたいだ。

 ただ……さっきもだったけど、このくらい接近すると鼻腔にふわりと香ってくるんだよな、猪熊さんの匂いが。

 やっぱりレクチャーしにきた師匠なだけあって、すごくいい匂いだった。

 今焚いているお香の柑橘とハーブ、それに混じってミルクや石鹸みたいな女の子の匂いが混じった香り。ドキドキするような、安心するような、なんだかずっと嗅いでいられそうな匂いだった。


「――終わりよ。もう少し痛がるかと思ったら、おとなしくできたんじゃない」

「ふあ!? あ、うん。……ありがと」


 猪熊さんの香りにぼーっとしているうちに、いつの間にか眉毛のセットが終わっていた。意外に早くて一安心だったけど、至近距離でこの香りを嗅ぐのもこれで終了かと思うと、ちょっと名残惜しい気もした。


「うーん……」


 猪熊さんが、まだまだ至近距離で僕の顔をじーっと見つめている。


「ちょっと笑ってみて。笑顔の練習。ダメ丸の笑顔ってまだなんか固いのよね」


 以前、猪熊さんが以前教えてくれたことを思い出した。


『――感情は表情筋を動かして、二四時間三六五日鍛えられた表情筋はその人の「顔つき」になる。これが――可愛いと褒められて笑う人間はより可愛く、不細工と馬鹿にされて悲しむ人間こそさらに顔がゆがんでいく、この世の残酷な仕組みよ』


 そんな世界の不条理に対抗するために、笑顔を作れと猪熊さんは言ったんだ。


「ダメ丸の笑顔って思いきりが足りないのよ。もしかして、笑うと顔が汚くなると思ってる? 大丈夫よ。あたしが保証するから、思い切り」


 僕は言われた通り、思い切り笑顔を作ってみる。

 そうすると、そこそこ満足いく出来だったのか、


「うん、まあまあ」


 猪熊さんがにっこりと笑い返してくれた。


 ちょっと卑怯だった。

 部屋で二人きり。こんな近くで甘い匂いをさせて、その笑顔は、ちょっとずるい。


「なんかお茶でも淹れてよ」


 突然、猪熊さんが言った。

 確かに、いろいろ頑張ってくれたのにお茶の一つもないのは失礼だった。

 僕は「わ、わかった。ちょっと待ってて」とキッチンに向かうことにする。


 自室を出る寸前、振り返ると、猪熊さんがベッドに座って足を組みながら、テレビをつけていた。

 いきなりリラックスしすぎで苦笑したけど、小さなお尻がベッドの枕元に近いとこに押し付けられていて、なんだか寝る時に猪熊さんの匂いがしそうだな……って何考えてるんだ変態か僕は。


『本日は30周年を迎えたギャルコレ! 満席のアリーナから中継です! さて、私の隣には「エイト」専属モデルの蛇乃目じゃのめ杏南あんなさんが――』


 テレビではファッションショーみたいな番組が放送されていた。

 猪熊さんは無表情の無言。テレビに映ったスタイルのいいモデルを、なぜか神妙な顔でじっと見つめている。


杏南あんな……」

「……し、知り合い?」

「……同期のモデル」

「そ、そっか」


 ファッションのスペシャリストな猪熊さんだけど、本業のモデルで恵まれたキャリアを築けているわけではないのだ。

 今現在、一方はきらびやかなアリーナ、一方は築50年の寮の部屋にいる。


「ま……あたしはあたし、か」


 そう言って猪熊さんが肩の力を抜く。


「それより、早くお茶」

「あ、うん。ごめん!」


 僕は急いでキッチンに向かった。

 途中、テレビを見て寂しげに目を細めた猪熊さんの表情が、また脳裏に浮かぶ。


 ただ、僕は――そうやって悩みながらも立ち向かう猪熊さんの姿に勇気づけられたし、そこが猪熊さんの魅力だとも思っているんだ。


          ○


 翌日。今日の昼休みは裏山での昼ピクニックだった。


「えへへ、かめまるくん……いい匂いする♪」


 レジャーシートの上、さっきからずっと白星さんがべたべたしてくる。

 子犬みたいに僕の頭や耳や首元をくんくん、身体をすりつけるようにしてくる。


「えへへ、えへへ、いい匂い♪ かめまるくんのにおい、すき♪ えへへ、すき♪」


 昨日のお香のおかげだと思うけど、なんだかヤバいものでも入ってたんじゃないかってくらい、白星さんが恍惚こうこつとしていた。


「ダメ丸、ちょっと新しいお香を試そうと思うの」


 猪熊さんが笑顔だった。でも、目が笑ってない。


「今からダメ丸を縄で縛って木に吊り下げるわ。その下で焚火を燃やして香りをつけようと思ってるの。けっこうスモーキーな香りだけど、ダメ丸にぴったりだと思う」

「スモーキーっていうか、それ単なる煙だよね!?」

「燻製よ燻製! ダメ丸なんて燻製にしてやるんだから!」

「でも燻製になった亀丸くんおいしそうかも……亀丸くんたべるね、かぷかぷ」

「きゃああああ、絵馬っ! そんな雑菌口に入れないでええええ!」


 白星さんが僕の肩を甘噛みして、唇をぷにぷに。

 と、なぜか鷹見たかみさんも横から鼻をくんくんさせてきて、


「亀丸くんから、みりあみたいな匂いがする。まさか……まあ別にいいのよ、貴女あなたが亀丸くんと一晩中全身をこすりつけ合っていたとしても。もしそうならば私の手間が省けてとっても助かる。案外、お似合いのカップルだと思うわ」

「ああああ、んなわけないでしょーーーー!?」


 今日も変わらず爆発炎上する猪熊さんだった。


 ちなみに後日談として……僕にくれた柑橘のお香とかぶらないようにするためか、この翌日から猪熊さんの匂いがイチゴみたいな香りに変わったのだった。

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