第16話 安泉寺

 次の日、学校が終るとすぐ安泉寺に千鶴を訪ねに行った。この理解不能な事件について話し合うためではない。好奇心を起こして探求しようという気はさらさらなかった。はじめは頭塚に悪さをした野島をとっちめてやろうというだけのことだったのが、いつのまにか学長が襲撃された事件に関わってしまった。

 この事件は真相がどうあれ、怨恨が絡んだ大人の事件である。危ないことには関わりたくない。野島の家から持ち出した本を千鶴に返させて、さっさと手を引くのが賢明である。


 安泉寺の表門の前まで来ると、お婆さんが寺の裏山を気がかりな様子で眺めていた。俺も目をやったが、ふだんと変わりのない景色である。寺のすぐ裏に饅頭の形をした里山があり、その背後に久麻山の峰が聳えている。

「あんた、千鶴ちゃんの友達の中学生じゃないか」

 婆さんは、先日栗饅頭を置いて行ったしわくちゃ婆さんだった。

「どうかしたのか、山のほうばかり見て」

「それがたいへんなんだよ、千鶴ちゃんが攫われてしまったんだ。三十分くらい前かねえ、境内が騒がしいから覗いてみたら、千鶴ちゃんと男たちが大ゲンカしてるんだ。あたしゃ急いでやめさせようとしたんだけども、そんなひまがあるものじゃない。あっという間に千鶴ちゃんを男たちが囲んで山のほうへ行ってしまったんだ」

「男たちって?」

「ほら、宿坊に年に何度か集まってくる、気味の悪い男たちさ。修行のお坊さんだと言っているが、あんないかつい大男たちがお経を読むお坊さんかねえ」

「住職には報せたのですか」

「大声で叫びましたとも『お嬢さんが攫われましたよ!』って、それでも住職様は、庫裏の窓を開けて手を振るだけなんだもの、どうしたものかと思ってねえ、警察に電話しようかどうか、迷っているんだよ」

 門から千鶴のお母さんが出て来た。俺はいつもおばさんと呼んでいる。

「先ほどは千鶴がお騒がせしました」と頭を下げて、果物の入ったレジ袋を婆さんに渡した。

「あら、すみませんねえ。こちらこそつい大声を出してしまって、千鶴ちゃんの身になんともないのならいいのですよ」

 婆さんは嬉しそうにして帰って行った。


「おばさん、宿坊に来ている人たちは、どういう人達なんだ」

「心配ないのよ、どなたも修行の行者さんで信用できる方々だから」

 おばさんは俺を夕ご飯に招んでくれた。

「千鶴もじきに戻るでしょう」

「どうして山へ行ったのかな」

「さあ、なにか事情があったのでしょう」


 庫裏へ行くと、住職は炬燵で呑気に新聞を読んでいた。娘が男たちに山へ連れて行かれたというのに、どうしてそう泰然と構えていられるのだ。婆さんが気味が悪いと言い、俺も怪しく思っているあの男たちに、おばさんも住職も絶対の信用を置いているらしい。それでも俺はやはり心配だった。

 千鶴の部屋は居間のすぐ後ろにあった。勝手に入ったら注意されそうなものだが、千鶴の家族に叱られたことはない。小さいころから出入りしているので慣れっこになっているのか。しかし、俺はこの寺の子じゃないんだが。

 千鶴の部屋にある物といえば怖い物ばかりだ。壁にはUFOの写真が貼られ、本棚には池内紀だの澁澤龍彦があり、勉強机の上には四谷シモンを真似て千鶴が自分で作った半分骨組みが露出した金髪のビスクドールが、青い目をこちらへ向けて座っている。いつも通りの景色だが、ベッドの上に厚い本が数冊積まれているのに気が付いた。手に取ってみると図書館の貸出し印がついている。『出かけるところがある』と言っていたのは、どうやら図書館だったらしい。『毘陀羅経』は俺が想像したよりはるかにつよい興味を千鶴に起こさせたようだった。

 

 夕食を遠慮して庫裏を出た。三月になっていたので夕方の五時はまだ明るかった。千鶴の両親が心配していないのだから、俺も安心していいのかもしれなかった。だが、やはり気になった。娘をおもう両親ほどでなくても、俺にとっても千鶴は友達だ。いや、それ以上の存在かも知れなかった。

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