第14話 岸井女史
町なかは車が渋滞していたが、排気ガスより磯のにおいがした。学長の家がある辺りの空には、海の水平線があった。運河のように両側に建物が迫った川には漁船がいくつか浮いている。松崎町は猪野川河口の右岸で、海に突き出た地形をしていた。
黒塀のなかに高い松のある家が学長の官舎だった。その門の前に女が一人立っていた。学長を待っていたようだ。
「岸井くんじゃないか、何の用だろう」
学長が目を瞬いた。
岸井といえば、嘘を吐いて立子をひどい目に会わせた教務主任だ。大学勤めの女なら不細工と相場は決まっていそうなものだが、その女性は赤いコートを着て、先のカールした長い髪を栗色に染めて妖艶な感じだった。美魔女というのか。俺はうっかり、学長がバーに溜めたツケを催促に来た水商売の女性かと思ってしまった。
車から降りると、カモメが飛んでいた。海に近いせいか空は少し靄がかってみえる。
「何か用かね」
学長は岸井女史の出現に戸惑っているようだ。
「決まっているじゃありませんか、学長が襲われたと聞いたから自分の目で様子を確かめに来たのですわ。でも、ご無事だったようですわね。残念だわ」
自分の上司が危難に遭って無事であれば、ふつう安心したとか、喜ばしいと、口に出すのではないのか。それをこの女史は、あからさまに不服そうな顔つきをみせた。
「ああ、運がよかったのだ」
消沈した声でこたえて、学長は目を伏せた。
岸井女史の態度はあきらかに非礼である。しかし、目下の者にそんな態度をとられても、学長は怒りもせず、かえって自分が悪いような顔をしていた。これはどうしたわけだ。よほどこの女史に何かの引け目を感じていなければ、こういう様子にはならないだろう。
「あら、亀山先生もご一緒だったの。先日はごめんなさいね、予定表を見間違えたのよ、悪くとらないでちょうだい。それじゃ失礼」
岸井女史は赤いコートの背中を見せると、コツコツとブーツの音の立てながら行ってしまった。
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