第12話 水明庵

「あの刑事が私の幻覚だと判断するのはもっともだな」

 学長は頭を上げて虚空をみつめるような表情をした。

「車載カメラに映像もなく、運転手も確信が持てないという。存在したという客観的な証拠は何もないのだからね。私は襲われてこの目で目撃したつもりだし、実際身体もぶつけられたのだが、しかし、そいつは首のついていない大男だった。それ自体、あり得るはずのないことだ。私は夢を見ていたのだろうか」

「私、信じますよ」

「どうしてだね」

「科学者だから」

 立子がニカッと笑った。

 車中、俺も考えていた。首のない人間が徘徊しているなど、とうてい信じられるはずがない。が、想像の産物と決めつけることはできない。事実、俺も公園で見ているのだ。

 市民ランナーのおっさんたち、俺、そして学長。信じがたいことでも、二度三度と重なれば、その事象は再現性を持っていることになる。再現性をもって繰り返されるということは、それが事実であるということだ。

 俺は、立子がちょっとえらくみえた。


 お寺といえば、立派な門や本堂の大屋根、石灯籠とか仏塔があってよさそうなものだが、連れて来られたところは、ふつうの古いお宅だった。ただ、瓦屋根が載った門がある。敷地も広いようだ。立子にはそれなりの家格の家はみな寺に見えるらしい。ずいぶんいいかげんな識別である。


 主人は隠居した酒造会社の社長で、寒河江といった。ここは別宅で『水明庵』と号していた。立子とは自社の醸造所の研究室を通して以前から知り合いだったらしい。

「おっちゃん家、お寺じゃなかったのう」と、とんまなことを言っている立子を相手にしないでいる。かなり扱い慣れているようだ。

「見事な梅ですな」

 座敷のガラス戸越しに見える梅の木に、学長は大いに感心していた。

 築山の木立が覆いかぶさってくるような景色の中に、古木の梅が五、六本、見事な紅白の花をつけていた。紅白といっても、紅いうちにも色の明るいもの、濃くて黒っぽい花、八重のもの、白だが青みがかった花と、色とりどりの枝を綴っている。

 学長ならずとも見とれてしまいそうだ。警察署というこれ以上ない無粋な場所で時間を過ごして味気なく凝り固まった気持ちが、梅林の幻想的な風情に触れてほぐれていくような気持ちがした。

「うぐいすは鳴かないの」と、立子がまたヘンなことを言ったので、老人二人の座談は、紀貫之の侍女が歌を詠んで、帝に取られた大事な梅の木を返してもらった話などでにぎわった。


「先生もひとつ詠まれますかな」

 寒河江老人が茶箪笥から短冊を出してきた。

「おかまいなく、紙ならあります」

 学長は手に持ったノートの切れ端と梅林を見比べながら、しばし思案をしていたが、やがて万年筆を動かして、青インクの字を書きつけた紙を寒河江に渡した。

 お世辞のひとつも頂戴できるものと、学長は早くも照れ笑いを浮かべて半白頭を掻いていたが、寒河江は一瞬目を瞠ったのち、妙な具合に顔をしかめた。それをあからさまな不快の表情と取った学長は落胆した。

「そんなにいけませんか」

 そう言う学長の顔を、寒河江はジーッと穴のあくほど覗き込んだ。

「端に書いてある、これはどういう意味ですかな」

 その質問の仕方が、あまりに深刻な調子を帯びていたので、学長は驚いて俺を振り向いた。

 学長が歌を書いたのは、俺のポケットから出た紙だった。寒河江の指が『毘陀羅』の文字を指していた。

 

「よくわかりました」

 寒河江老人は懐手を解いて、作務衣の襟を直した。そして何度もうなずいた。

「それはピダラと訓みます、ピと撥ねるのが正しいのです。しかし、そういう本がまだこの世に残っているとは驚きました」

 一般人の隠居なら、仏教と関わるのは老人会のお寺参りか葬式の時くらいだろう。なのにこの年寄りはいやに詳しいではないか。

「若いころ、紀伊の霊山で修行僧をしておりました。行者ではありませんが、学僧として内院の仕事を勤めておりました」

 見かけだけでは人の素性はわからないものだ。おっとりした丸顔の、ごく平凡なお年寄りのこの老人が、かつて大寺院の僧正の位まで登ったえらいお坊さんだったという。還俗して郷に帰り、家業を継いだのが二十年前だそうだ。

 

 俺と学長がこのふしぎな事件について話すのを、寒河江はしずかに聞いていた。 

「学長を襲ったそれは、尸半尸、シハンシ。と言いましてな、首のない死体です。呪法によって死体をよみがえらせて人を襲わせるのです。平安時代の頃、盛んに暗殺に使われました」

 俺と学長はおもわずゴクリと唾を飲んで緊張した。こんな不思議な話に、寒河江は筋道を立ててみせたのだ。

「平安時代っていいですね」

 周りの空気に動じない立子は、源氏物語の世界でも思い浮かべたか一人うっとりした。

 平安時代がどんなものだったか知らないが、俺は千鶴の寺の展示棚に広げられてる『地獄極楽図』の絵巻物の、極彩色の残酷な場面しか頭に上ってこなかった。

「誰かが毘陀羅の呪法を使って学長を襲わせたとしか考えられません」

「しかし、そんなことが本当にあるのですか」

 寒河江は、つと立ち上がって、庭と仕切っていたガラス戸を開けた。冷たい風に混じって梅の花の香りが吹き込んできた。

「この梅は、私が吉野から持ち帰ったのです。今では桜ばかりが有名な山ですが、千三百年ほど昔、奈良時代の遣唐使によってはじめて日本へやってきた梅がまだ残っているのです」

「ずいぶん古い話ですな」

「時代と共に滅ぶものもありましょう。ですが、いったん根付いたものは、なかなかしぶとく後世へ続いているのです。吉野にいた頃の物をいろいろお見せしましょう、どうぞこちらへ」


 老人二人は、別の部屋へ行ってしまった。立子は庭へ下りて、輝くばかりの梅の花盛りを鑑賞している。平安時代の中期以前は花見といえばそれは梅の花だったそうだ。

 俺は急に千鶴の身が心配になった。あいつが野島の書斎から無断で持ち出した本は、なんだかとても危険なものらしかった。

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