第11話 警察署

 途中、警察署に寄った。学長が被害届を出した事件の捜査の進捗具合を聞くためだった。

 警察というのは市民の安全を保全してくれる公機関なわけだが、俺には灰色の建物がことさら厳めしく見えて首がすくんだ。今朝家宅侵入罪を犯したばかりだ、後ろめたいことがあると、ちっぽけなことでも怯えてしまうものらしい。

「健ちゃんは車の中で待ってる?」

 立子と学長が車を降りた。俺は一人で残されるのがいやだったので同行することにした。


 担当刑事は不愛想な男で、簡単な挨拶をすると、すぐに大判のファイルを開いた。

「二月二十五日の夜十一時ごろ、飯田さん、あなたは松崎二丁目の新栄ビル角付近で暴漢に襲われた。間違いありませんね」

「ええ、その通りです」

 学長は背筋をピンと立てて答えた。質問されたときの人の礼儀と心得ているらしい。

「当時あなたは飲食をした帰りだった。そうですか」

「はい、大学では県の後押しで産業界と一緒のプロジェクトをいくつかやっておるのですが、その一つの集まりでした」

「打ち上げパーティーでしたね、ええと『近未来型空調設備の完成を祝う会』ですか」

「その通りです。しかし、なぜそのようなことを尋ねられるのです」

「お酒は出ましたか、アルコールには強い方ですか」

「出ましたが、私は乾杯のときと、あとはまあ、注がれれば飲むくらいでした。それほど酔ったわけではありません」

「薬は服用なさっておられますか、睡眠導入剤か安定剤のようなものを」

 事件の捜査をしているのなら、被害者に尋ねることは、調書に記載された以外に、後になって思い出したことはないかとか、事件についてきくのが本当だろうに、この刑事は、学長がそのときどんな状態だったかばかりに質問を向けてくる。

「それで、犯人は捕まえられそうなんですか」

 学長はやや戸惑って反問した。

「それがですな」

 刑事は学長の顔をまじまじと見た。

「タクシーのドライブレコーダーを調べたところ、あなたがおっしゃっているような暴漢の姿は映っていないのですよ」

「いや、しかし、私は暴漢にタクシーのヘッドライトが当たったのを見ている。運転手も見たはずだ。彼はなんと言っているのです」

「はじめは目撃したと断言したのですが、何も映っていないドライブレコーダーを見せると『思い違いだったかもしれない』と証言を変えました。当然でしょう、機械は見間違いをしませんから。遅くまでの乗務で目も疲れていたでしょうから責められません。あと、犯人に関わる遺留品、足跡、その他、現場には、あなた以外の何者かが存在していた痕跡が何もないのですよ」

「どういうことなんです」

「それはこちらがお聞きしたい」

 うす笑いを浮かべた顔が『夢を見ていたのじゃないですか』と言っていた。刑事の目にはこの年老いた被害者が、ありもしない事件を持ち込んだ迷惑な老人に見えているようだった。

 学長は立ち上がってテーブルに手を突いた。

「私は襲われたのですぞ、目的や理由はわからないが。通り魔かもしれないじゃないですか。今後同じような事件が起こったらどうするのです。私は運よく難を逃れたが、側溝に落ちていなかったらどうなっていたかわからない」

「暴漢がいたという証拠が何もないじゃありませんか、あなたは犯人の顔も見ておられないのでしょう」

「顔なんか、なかった……」

 黙ってしまった学長に肩をすくめてみせて、刑事は何を思ったか、声のない笑いを立てながら、立子に話しかけた。

「先生は化学がご専門だそうですが、学長が研究室で知らないうちに何かの薬品を吸い込んだということはありませんかね、ある種の、幻覚を引き起こすような薬品とか」

 失礼な話である。学長は善意の市民の義務だと信じて事件を訴え出たのに、警察は学長その人が事件をでっち上げた犯人だと決めつけてしまっている。この仕打ちは人の誠意を踏みにじるようなものだ。学長はいっときその眼の細い穏やかな顔に怒りを露わにしたが、すぐこの事件の不可解さに思いを至らせて耐えた。どうして人間の目には見えた者が、ドライブレコーダーには映っていないのか。ここで、感情に任せて一人の小官吏を罵倒するより、不可解な事案を合理的に考え直す方に傾いたのは、さすがに理性を尊ぶ学者だった。


 外へ出てからもブツブツと憤懣の絶えない様子の学長に立子が提案した。

「近くに梅の咲いているお寺があるのですけど、行ってみませんか」

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