第10話 坂の上町
意外な場所で、首無し男の出現である。
千鶴もこの話を聞きたがるだろうとおもった。
もし、学長を襲ったのが公園に出た鎧武者と同じ者なら、そいつが探している首は千鶴の家の寺に埋まっているらしいのだ。そして今度は人を驚かすだけでなく、危害を加えようとした。
千鶴の興味はオカルト好きの好奇心を刺激されているだけだろうが、実害を伴う存在なら、合理的な俺だって積極的な関心を持たざるを得ない。何か得体の知れない危険が迫っているようで胸が騒いだ。
勢い込んでスマホを打ったが、ラインの返事は『でかけるところがあるから後で聞くわ』だった。
女子会にでも行くのか、入れ込んでいたふうだったくせに、気まぐれなやつだ。
立子が飯田学長を官舎まで送るというので俺もヴィッツに同乗した。もう一度野島の家が見たくなったのだ。
俺が助手席で、学長は後ろに乗った。
どういうものか立子はハンドルを握るとしゃんとする。日常会話でさえ不自由している頼りない無器用者なのだが。ガソリンを燃やしてタイヤを回す駆動システムの合理性がひととき憑依するのか、平常は外れている脳シナプスがエンジンの振動で連絡を取り戻すのか、詳細は謎である。車は家の前の田舎道から広いバス通りへとスムーズに出た。
バスの中で千鶴が読んでいた本の題名が読めなかったものだから、見たままを紙に書いて学長に渡した。頭がいいのだろうから読みがなをふってくれると思ったのだ。
「『毘陀羅経』かね、毘と羅は金毘羅さんの字だから「ピ」「ラ」だ、挟まれているのは阿弥陀さんの「ダ」だろうね」
「金毘羅さんのピは毘沙門のビと濁ることもありますよ」
立子の指摘に学長はあごを擦りながら同意した。「そうそう、どっちかだね。ピダラと訓むか、ビダラか」
「どっちでもいいよ、要はお経なんだな」
「きみ、お経というのは仏典の有難いところだけを抜いて読み上げるものだよ。本来経は、四書五経と云うとおり、まとまった意味内容をもつ書物のこともあるね」
「経は『キャウ』と発音するのが正しいのじゃありませんか、蝶々をテフテフとか火事をクワジとか」
「旧かなで書けばそうだがね、発音はチョウチョウ、カジでいいのだよ。テフテフと書いてチョウチョウと発音するのだ。教師も旧かなで書くとケウシになる」
「化学もあるんですか」
「クワガクだね」
俺は頭が痛くなりそうだったので、毛の濃い牛みたいな二人の会話を無視した。
一昨日から暦は三月に入った。もう少し春らしくなってもよさそうなものだが、郊外の田野は枯れ色にまだ雪が残って寒々としている。今年は灯油の値段が高くて困るわ、という母の愚痴もしばらく続きそうである。北国の暮らしは厳しい自然とのたたかいだ。
そのうちに野島の家の前の道にさしかかった。千鶴とのぼった高い塀はコンクリートで、中に数本、大きな木が立っているが、冬枯れて葉が落ちた裸木だから何の木だかわからない、きっと銀杏かなにかだろう。細々した枝の向こうに二階建ての洋館がある。この辺りは比較的新しく整備された住宅地だ。昔からある街並みではない。そこに古い洋館が建っているのは不思議な風景である。開発される以前、森があったころの、資産家の別邸ででもあったのだろうか。屋根に出窓のついた大きな建物は、遠い前世紀の世から浮かび上がっているように見えた。
「この家が見たかったの?」
ハンドルを握ったまま、立子が毛糸の帽子をかぶった頭を向けた。
「野島ってやつの家さ、千鶴の寺の塚に勝手なことをした」
「そうなの」
「やっぱり大学の人間だったのだろ」
「ええ、いたわ。特任の野島教授」
「はて、そんな者がおったかな」
学長が声を出した。
「秋ごろから文学部へ特任できている人なんです」
「誰が連れてきたんだね」
「岸井先生です」
こう立子が言ったとき、急に空気が重くなった。
学長は「岸井君か」といったきり黙ってしまうし、立子も無表情になってしまった。
岸井が何者かは知らないが、同じ学内の同僚ではないのか。それが二人して顔を曇らせているのは、何かの確執でもあるのだろう。大学の研究室なんて変人たちの集まりだろうから人間関係がうまくいかないのかもしれない。
「きみもたいへんだったね、岸井君がきみを騙したのは、私への腹いせにちがいないのだ」
「気にしてません」
立子に推薦入試だなんてうそを吹き込んで、学内の笑い者にした犯人はその岸井という学者らしい。
俺は振り返って、もういちど野島の家を確認した。もしかしたら千鶴が自分がしたことを反省して、持ち出した本を返しに来ているのではないか、とも思ったのだが、千鶴の赤い自転車は門の前に見当たらなかった。
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