第9話 立子の部屋
橋の手前で千鶴と別れ、家に帰ると来客があった。ただいまと玄関を上がった俺には目もくれず、母のさつきが緊張した顔で居間と台所を往復している。
世故に長けた要領の良い母のことである。これほど丁重に接遇しているということは、特別な客にちがいない。なるほどコート掛けに高級っぽいカシミアの長いのが下がっていた。
「立子さんの大学の学長なのよ」
台所に入った俺に耳打ちして、居間には近づくなというしぐさをした。
立子は大学で何かあったらしく、先週の半ばから自室に籠っていた。いつまでも嫁に行かない厄介者の妹として、父に邪険にされている立子は、大学の自分の研究室だけが人生の居場所みたいな女だ。それが出勤しないのだから、あちらでよほどのことがあったのにちがいない。家族としても心配していたところだ。学長はそんな立子を見舞いに訪れたのだった。
おやつの焼きおにぎりをチンして、そっと居間を覗くと、頭の半分白くなった、細い目の爺さんである。
「大事な会議を立子さんがサボったのですか。それで教授会議で吊し上げに」
母は信じられないというふうに口に手を当てた。
「ショックを受けられたようで欠勤届を出されましてな。しかし、亀山先生は悪くないのです。推薦入試の面接をするときかされて、会議の間、ほかの場所に行ってらしただけでして」
亀山先生とは立子のことだ、俺はちなみに亀山健太だ。推薦入試というと、先週の月曜のことだ。
「どうしてそんなことに」
母が首を傾げたので、学長は説明の必要を感じたらしい。
「教務主任の者がでたらめを教えまして、推薦入試は年が明ける前に終わっているのですが、それでも亀山先生は信じてしまいました。誰もいない面会室で夕方まで一人でいらしたのです」
「まあ、ひどい、だまされたのですか。教務主任さんて。同じ同僚の先生の方なのでしょ、立子さんはそんな意地悪をされるようなことをしたのですか」
「いやいや、亀山先生が悪いのではないのです。じつは、その男は私と少々もめていることがありましてな、それで私と仲の良い亀山先生が狙われて、とばっちりを食ったのではないかと思うのですよ」
「まあ、なんてことでしょう」
母はもっと仔細を聞きたそうだったが、学長は下を向いて、これ以上は話せない様子を見せた。
二人は宇治の銘茶をはさんで黙ってしまった。
待っていて誰も来なければ、うそをつかれたと気が付いてもよさそうなものだ。しかし、立子はもともと人が良い。言われたことを信じ切って、夕方までずっと一人で面会室に座っていたのだろう。
立子の部屋は、俺の部屋と廊下を挟んだ向かい側だ。
「入っていいか」
きっと落ち込んでいるだろうから、元気づけてやろうと思った。
不運な目に会った女は、明るい部屋で寝転がって漫画を読んでいた。大丈夫そうだった。
「健ちゃん、犯人ってだれだろうね」
開いていた漫画を顔からどけて俺を見た。脈絡のない、いつもの唐突な話しぶりだ。立子の話はぶつ切りで、どこからそのセンテンスが出てきたのかわからない。そうした徹底したコミュ障には、普段なら愛想笑いだけ返して引き上げるところだが、いつもと変わらない立子だと思うと安心した。変わらないことはよいことである。日本が戦後胸を張って掲げてきた平和憲法も、この先まで変わらないでほしいものだ。
俺は散らかっていた漫画本をピョンと飛び越してベッドに乗った。
「学長が狙われているの」
立子の顔は真剣だった。
地元産業界との会合の帰り、飯田学長は官舎の手前の道でタクシーを降りた。
酔い醒ましの呑気なブラブラ歩きである。よい気分で冬の星をながめていると、暗い脇道から飛び出して来た何者かに襲われた。いきなりだ。はじめは熊かと思ったらしい。全身真黒でものすごい力だった。小柄な学長は逃げようとした拍子に側溝に転がり落ちた。それが幸いした。熊のような者は、一瞬標的を見失った。学長を降ろしたまま次の無線待ちをしていたタクシーの運転手が異変に気づき、クラクションを鳴らして走って来た。くせ者はあっという間に広い国道から姿を消していた。
近所の家から人が出てきて学長は側溝から助け出されたが、歯をガチガチ鳴らすだけで礼の一言も口に出せない状態だった。それは冷たい水で凍えてしまっていたというばかりではない。襲ってきた相手の異様さに動転して声もでなかったのだ。熊ではない、たしかに人間だった。しかし、肩から上に何も載っていなかった。つまり首がなかったのだ。
「鎧は着ていなかったのだって」
なるほど、立子が推測する通り、秋葉沢公園のあの首無し鎧武者と同じなのかもしれない。そしてこのときは鎧を着ていなかったのかもしれぬ。しかし、なんで立子の大学の学長を襲ったのだ。それより、首が無くて、どうしてあちこちうろつき回れるのだ。
いずれ警察がタクシーのドライブレコーダーを調べれば、わかることかもしれない。ただの強盗かもしれないし。いずれにしても犯人が捕まれば、そいつにはちゃんと首が生えているだろう。
立子が読んでいた漫画を見ると、浅見光彦シリーズを漫画にしたものだった。赤川次郎も何冊かある。
「マンガ読んで、犯人はわかったの」
「わからない」
立子はニカッと笑った。こいつは悲しいときもうれしいときも同じ表情をする。
「立子は学長と仲がいいのか」
「ロシア文学の先生だよ」
俺は天井を見上げながら、ロシア文学をやるとコミュ障とうまく付き合えるスキルが身につくのだろうかと考えていた。
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