第4話 家
中ノ川の土手道を家へ歩いていると、自転車の千鶴が橋を渡ってやってきた。高校の制服のままだから、やはり下校途中らしい。
「立子おばさん、いるかな」
家には父親の妹の立子というのが同居している。四十女だが嫁の貰い手がないので家を出て行かないのだ。俺の家の基本的な家族構成は一人っ子の俺と両親の三人なんだが、そこに叔母が加わっている。父親の妹だからそれなりに大事に扱われているが、親子水入らずの家にいる居候である。ときどき父に『早く独立して、出て行ったらどうだ』と小言を言われている。
叔母は女にしては巨体である。150cmの俺より頭一つ分背丈があり、横幅は中肉の俺を二人並べたくらいだと思えばいい。地元の大学で化学を教えている教師だが、それより体格を活かした格闘技選手か、個性派の漫才師のほうが似合いそうだ。
「いるんじゃないかな」
今朝出がけに『推薦入試の面接官をやらされるの』と言っていたから、研究室に籠らずに帰ってきているだろう。土手下のわが家を見ると、立子のグレーのヴィッツがあった。
家に入ると、千鶴はすぐ冷蔵庫を開けた。
「あった、あった」
俺のおやつの冷凍焼きおにぎりを出すと「チンしてあげるから、一個食べてもいい?」ときいた。
ダメだと言ってもどうせ食べるだろうから「いいよ」と答えた。
茶の間で俺が、公園の事件のことをしゃべろうとしていると、奥から立子が出てきた。
「あ、千鶴ちゃんが来てる」ニカッと笑った。
いつものことだが、叔母は何事にもこういう独特の反応をする。通常の人間なら『あら、千鶴ちゃん、こんにちは。今日は何かご用なの?』とか、まず世間並みの挨拶をし、次に来訪の理由などを問うてみるところであろう。が、この立子は、いっさいそういうことは失念した体で、現状『千鶴がここにいる』という事実のみを述べ、ただ「あ」の一音で、それが自分にとっては軽い驚きであったという主観を表明するのである。よくよく個性的なコミュニケーションスタイルの持ち主なのだ。
「先生、じつは教えていただきたいことがありまして」
「うーん、何だろ」立子おばは、ニカッと笑ったまま小首をかしげた。
「この人をご存知ですか」
名刺を立子に渡した。あのN大教授とかいう干し魚が置いて行った名刺だ。
「昨日、訪ねて来られた方なんですけど、墓地にある石碑から無断で拓本を取って帰られたのです。父が怒ってしまって、勤め先の大学に抗議してやるというのですけど、母と相談して、いちおうどういう人なのか、立子先生にうかがってからにしようということになったのです」
寄り合いから帰ってきた住職に千鶴が、昼間の来訪を話すと、住職はすぐ『頭塚』を見に行った。すると石碑一面に墨が塗られている。そこに紙を当てて彫られている文字を写し取った跡である。勝手にそんなことをされたら怒るのは当然だ。寺の財物が汚されたのだ、法的には器物損壊罪になる犯罪である。それで家族会議が持たれたあと、こうして千鶴がやってきたというわけであった。
立子おばはチラと俺を見た後、メガネを掛けた。前に俺が『立子ってメガネかけるとミニオンに似てるな』といったのをまだ気にしているらしい。
「特任の人ね、コーディネーターってとってもたいへんなのよ」
それだけ言って、名刺から目を上げた。
いつも立子にはイライラさせられる。特任とかコーディネーターとか言われたって、何のことかさっぱりわからない。ところが、立子はそれを知っているのがさも当然であるかのように話す。こっちの無知をあげつらわれているようで腹が立つ。しかし、本人に悪意はない。相手に嫌な思いをさせようなどとは露ほども思っていないのだ。立子にとって会話は相手が理解しようがすまいが関心のない言葉のやり取りで、彼女はただ自分が話したいだけのことを言うのである。
こうした重度コミュ障の立子おばから、千鶴が引き出した説明によれば、
学科の科目を外から招いた人に、特任教授として持ってもらうことがあるのだそうだ。
たいていは、ほかの大学を退官した年寄か、やっぱり退職したお役所の老人なのだそうだが、たまに若い人が来ることもある。人選はコーディネーターの役を任された教授次第なのだそうだ。
「その野島という人も、特任教授なのでしょうか」
「きいてみてあげる」
千鶴の用事が済んだので、俺は山六マートのおっさんが出くわした気味の悪い出来事や、さっき経験してきた公園でのことを話した。
「やだー、こわい」
千鶴はにぎった両手を口もとへもって行った。
おばはとくに反応しなかった。ずっと笑ったままの表情なのでこわがっているのかどうかわからない。ただ、こめかみのあたりに汗が滲んでいるようでもあった。
「健ちゃん、その怪しい人を公園で見たの?」千鶴がきいた。
「チラッと、見たような気がしただけだけどな」
俺はそのことを警官には話さなかった。半信半疑だったし、そんなことを言うと怖がりにみられるかもしれないので嫌だったのだ。
「しばらく公園へ行けないね」
「大丈夫だろ、山六のおっさんたちが見たのが間違いじゃなけりゃ、すぐに捕まるんじゃないか」
「山六の笠井のおじさんが円形脱毛症になった理由を、私知ってる。スナック『愛』のママにフラれたんだって」
スナック『愛』は通学路の道沿いにある、窓のない小さな飲み屋で、そこのママはいつも薄着の、黄色いパーマの長い髪を振り乱した鬼のような女である。
「笠井って、独身だったのか」
「ううん、だいぶ前に奥さんに逃げられたんだって、それから店に入り浸るようになったらしいわ」
笠井がいつも被っている中日ドラゴンズのCDロゴのキャップが、円形脱毛症のためだということは聞いていたが、その円形脱毛症にもまた理由があったのである。女にフラれたためだという。俺は身を乗り出して、そのフラれた理由を追求した。これから大人になろうという年頃の者が、大人の事情に興味を持つのは当たり前のことであろう。千鶴もまたとっておきの情報をにぎっているらしく、目をキラキラと輝かせていた。
「あの、いいかしら」
立子おばが、自身の静寂を破った。
「千鶴ちゃん家の『頭塚』と、公園に現れた首無しのお侍さんとは、なにか関係があるのじゃないかしら」
俺と千鶴は仰天した。立子おばがかつてなく『人が聞いてわかること』をしゃべったからというだけではない。その指摘が驚きの正鵠を射ていると気づいたからだった。
「そうだそうだ、古い『頭塚』と首無しの鎧武者じゃないか。きっと何か関係があるぞ」
俺は熱くなって叫んだ。千鶴も顔色を変えてうなずいている。俺たちは少し、立子おばを尊敬した。
「私たちで調べてみようよ」
土手の上へ自転車を押しながら千鶴が言った。
「こわがっていたんじゃなかったか」
「だって、おもしろそうじゃない」
こういう話になると、千鶴は好物を見つけた猫のような目つきをする。人前では無邪気な女子高生をやってるくせに、二人きりになると本性を現す。腹黒い女なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます