第14話 選ばれし庶民
ふた口めのビールで喉を潤す
グラスを傾ける仕草は滑らかで気持ちの良い飲みっぷりであるが、それでいて備わっている気品を充分に感じさせる。
泡の浮いた液体をするすると飲み込んだ姫王子は、感慨深げに言った。
「中町くんになら話しても大丈夫のような気がしてたんだ。勘が当たって本当に良かった」
更に、ありがとうと続ける。
「誰かに打ち明けてみたかったのもあるんだと思う。勝手に相手に選んじゃってごめん」
確かに、女性が女性を好きであるという事実は本人だけの秘密として抱え込まれてしまうことが多いのかもしれない。
思い切って秘密の共有を持ち掛けた相手にセンセーショナルな扱いをされたり、運が悪ければ嫌悪感を露わにされたりすることもあるだろう。
俺は恋愛感情というものを恐らく持ち合わせていない人間だが、心に面積があるなら相当大きな部分を占めてしまう重要な感情であることは理解しているつもりだ。その広大な土地を周囲の全ての人に隠し通すのは骨が折れるに違いない。
「謝られる必要は全然ないです。なんかむしろ、話してくれて嬉しい感じがします」
これは俺の本心だった。
どこか分かり合えそうな予感のする相手に、大切にしている気持ちを打ち明けて貰えるのは喜ばしいし、どんなことでも他者に「選ばれる」というのは特別視すべき出来事だ。誇っていい。
「良かったあ」
姫王子は安心し、リラックスした様子でスープを味わう。
俺もスープスプーンを手に取った。
お互いがお互いを、どこまで踏み込める相手なのか探りながらの会話を緊張感をお供に続けていたので、食事を楽しむには充分にお腹が空いていた。
玉ねぎやベーコンの入ったスープの塩分が、終業後の体に心地よく染みていく。何より、話し易い者同士でテーブルを囲んでいると分かってしまえば、尚更穏やかで美味しい夕食になる。
食事する手を一旦止めて、姫王子はまたひとつ興味深い話を始めた。
「ついでにばらしてしまうとね、私は自分のことを、女性だとは思ってないの。女でもあるし男でもあるとも言えるかな。とにかく心が完全に女性ではないみたいなんだ」
これは俺にも、スープに比べると飲み込みづらい台詞に聞こえた。
「私が三津谷さんを好きなこと、どっちも女性だから驚いてもいいなんて言ったけど、厳密にはちょっと違うんだよね。見た目はどっちも女なんだけど」
姫王子には男性的な面があるというのは、俺も感じつつあった。スーパーのお客さんである男性美容師さんもそのような感想を述べていた。
しかし、髪が長かった頃などは特に、女性としての魅力が際立っていたし、主に女性向けの商品を扱う1階・化粧品総合レジでの仕事も楽しんでいるように見える。
そのどちらもが、まさに姫王子の本質だということか。
ひとしきり考えて、目の前の人物が体現している姿にようやく本人の言葉が重なった。
「考えてみると、上遠野さんそのものって感じかも。敢えて言うなら中性、みたいな感じですか?」
フォークを持ってサラダに伸ばしかけていた手を一旦休憩させて、素直に聞いてみる。
恐らくは多数派であろう、女性の体と女性の心を持つ人。
聞いたことはある、女性の体だが男性の心を持つ人。
それ以外に、女性の体に男女両方の心を持っている人がいて、上遠野さんはそこに該当するということなのだろう。
「中性だと、女性と男性の真ん中って感じだよね。そういう人も勿論いると思うけど、私の場合は表現するなら、両性かな? 女も男もどっちの私も心の中にいる気がするんだよねえ」
正直今まで考えたこともない話だったが、姫王子本人を前にすると非常に説得力があった。
「なるほど。俺、生まれてこの方、疑いもせず、男なのが当たり前に過ごして来ちゃいました」
思ったままを話し過ぎて、何か失礼に当たってはいないか心配になったが、だいたいの人はきっとそうだよね、と姫王子は悠々としている。
決してお酒のせいで暴露話をしているわけではないのが、いつも通りの明朗でハキハキとした姫王子の話し方から分かる。
今までしたこともない内容の会話を、職場でしか会ったことのない姫王子としているのは、不思議な気持ちだった。
でも、人と人とがどこで出会いどんな心の共有をするかに決まりはないのだ。
そうこうしているうちにメインのハンバーグの載った鉄板とライスのお皿が2つずつ運ばれて来てしまい、サラダすらも未だ平らげていない我々は喋り過ぎではないか? と笑い合った。
少し食べるスピードを上げながら、俺も自分のことを話す。
「こんな機会、なかなかないので聞いて貰っちゃおうと思うんですけど、俺は恋愛感情というものがないみたいなんですよ」
姫王子はハンバーグをちょうど口に入れたタイミングだったので、表情だけで「へえー!」と返事をする。
好奇心が湧いたのであろう、大きな目が、お祭りの屋台で売られているリンゴ飴のような艶やかさを見せたが、ハンバーグを飲み込んでから話し出すと、意外にもしみじみとした口調であった。
「私が普段人に話さないようなことを、中町くんには話しても大丈夫だなって思っちゃった理由が、分かったような気がする」
陰影のはっきりした顔立ちである姫王子の緩やかな笑顔は、表情を形作る顔の動きすら美しい。
「中町くんは、少しだけ他の人と違う自分を否定しない人なんだね。そういうの素敵だね。だからきっと、私の変わってる部分を話しても受け止めて聞いてくれそうだって、自然と思っちゃったんだな」
俺自身も気付いたのはつい最近なんですけどね、と付け加えながら、数日前のちょっとした思索を思い出していた。
人間には4つの面があることを、窓の比喩で表す「ジョハリの窓」という概念。その4つの窓のうち、2つ目の窓は「自分は知らないけれど、他人は知っている自分」。
恋愛感情がないことを俺本人は知らずにいたが、その間にも気付いている人が実はいたりして、などと想像していた。
姫王子は、もしかしたらその人だったのかもしれない。
具体的に「恋愛感情がない」ことは知らなくても、どこか他の大多数の人とは違っている面を俺が持っていると、見抜いていたのではないか。
俺と姫王子は、似た者同士なのかもしれなかった。
恋愛感情がないという点で、一般的とされる基準から外れている俺と、身体的には同性に恋をし、尚且つ心には男性と女性両方の自分を持つ、やはり世間一般の様相と比べると、ずれがある姫王子。
「また職場でね、おつかれさまでした」
「今日はご馳走さまでした。おつかれさまです」
結局、年上で準社員さんである姫王子に奢って貰ってしまった俺は、深々と頭を下げてお礼を言って別れた。
自転車に乗って、大学近くの自分のアパートへの道を走る。
今日はバイトのシフトが入っておらず、休みだった靴屋の王子が住むアパートの前を通り過ぎたときに気が付いた。
恋愛感情がない自分を否定しない俺を姫王子は褒めてくれたが、そのように促してくれたのは、そういうことはある、自然なことだと言い切ってくれた、友人である靴屋の王子その人なのだ。
そして、その靴屋の王子と姫王子の思い人は、同じ人物なのである。
3階・エスニック雑貨店の姫こと三津谷さん。
王子とも姫王子とも親しくありたい俺は、今後どんな態度でいれば最善なのか?
今日はもう早く寝てしまおうと、ひとまず匙を投げた。
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