23:走れ
軽ワゴンに乗り込んだ。違反だと知りながら、勇造はハンドルを握ったまま電話を掛ける。夜景にダイブするように坂道を一気に下った。焦った状態での片手ハンドルは、バランスを崩して何度も車体を揺らした。隣で経済日報の川嶋がウエッと変な声を出しても、勇造はそのまま走り続ける。
夜はどんどん深まっていく。夕方から行方不明の
つなぎ作業服の左胸ポケットには、柳澤から受け取ったアルミケース。湊斗からナノを駆除するためのナノマシンが入った小さなカプセルが一粒。使命感で、勇造は異常な重さを感じた。世界でたった一つ、大げさすぎる柳澤の言葉と、五〇〇万という大金が勇造にのしかかる。だが、迷っている場合じゃない。迷っていたら失ってしまう。もう少しで大切なものになりかけている、かけがえのない存在を。
やっと繋がった電話口、水田の声は荒々しかった。知らぬ間に、事件がどんどん動いている。
現場から一キロ離れた公園でひとりの少年が保護されていた。彼はバラバラ殺人犯行グループの一員で、偶々知り合った湊斗の母を集団で暴行していたのだ。湊斗は彼の仲間と共に近隣の空き家で立てこもっている。現場から消えた包丁で湊斗は既に何人かを襲っていて、傷害罪は免れないことも告げられた。少年の話では湊斗は酷い興奮状態で、手が付けられないらしい。
『犯行グループの少年たちの中にも、どうやらナノ感染者がいたようなんだ。警察が血液検査の結果を入手したところ発覚したらしい。最初は同年代の女子を暴行していた彼らだが、近所に
勇造は言葉を失い、何度かハンドル操作を誤りそうになったが、何とか持ちこたえた。早く行かなくてはと、ただただそれだけが頭を支配していく。
川嶋の携帯電話もひっきりなしに鳴っていた。少年事件関係の記事を担当していた川嶋が一時携帯の電源を切っていたこともあり、新聞社から何が起こっているのか詳細を教えろと何度も詰め寄られていた。しかし、戦闘用ナノという恐ろしいものの存在を知った川嶋は、それをどこまで情報として伝えるべきか悩み、とにかく詳しくは社に戻ってからにしますよと必死に弁明する。
「あんた、意外にいい人なのな」
運転席から会話を聞いていた勇造がそう言うと、川嶋はその地味な顔でにやっと笑った。
「最初からいい人ですよ。心外だな」
水田に送ってもらった現場の位置情報を頼りに進んでいくと、現場に近くなればなるほど車両の密度が増していった。夜九時を回り、住宅街の明かりは消え始めていたが、都営住宅から少年の見つかった公園、そして立てこもり現場の空き家にかけては取材用と思われるマスコミのロゴの入り車両が所狭しと道をふさいでいる。携帯のワンセグでテレビを見ていた川嶋が言うに、殆どの局で現場の中継を始めていているようだ。騒ぎが大きくなっている。こんな状況でどうやって少年たちを保護するつもりなのだろうか。警察の動きが気になった。
空き地のそばまで来たところで水田に再度連絡を入れると、程なくして勇造を迎えに走ってきた。
「早く、こっちから。沢口さんにもあれのことは言ってある」
取材車両から少し離れたところに軽ワゴンを乗り捨て、現場に急ごうとしたがその前に。勇造は空き家に向かう足を一旦止めて、後ろに向き直った。
「悪いが川嶋さん。あんたとはここでお別れだ。関係者以外立入禁止だからな」
あんな話を一緒に聞いておいてそれはないでしょうと、そう言いたげな川嶋の顔が、街灯の明かりの中に見えた。川嶋は一瞬うろたえたが、すぐに深々と礼をする。
「わかってますよ。ご武運祈ってます」
「すまないな。――記事も、楽しみにしてる。俺、実は経済日報は毎日読んでる。あんたの書いた少年事件の記事は切り抜きまでしてあるんだ。参考になったよ。今回のことをどう書くかどうかは、そっちの自由だ。あの所長の言葉、どこまで載せるのかもな」
最後に、こんな状況で何故と思わせるぐらい気持ちのいい笑顔を見せて、勇造は水田と共に走り去った。
初めて声をかけたときのあのびくびくとした反応を思い出し、川嶋は声を上げて笑った。
*
築三〇年、いや四〇年と思われるその屋敷は、以前平凡なサラリーマン世帯が住んでいたらしい。不況の煽りで住宅ローンの返済が滞り、手放してしまったものだと近隣住民が遠巻きに口にする。現場に侵入されないように、警官らが数メートルおきに監視する中、勇造は水田に案内され沢口らの待つ家の裏口へと急ぐ。高さ一メートル強の塀で囲われた空き家の敷地は、長年放置されていたせいで草が生い茂り、あちこちから投げ込まれたゴミが散らばって変な臭いが充満していた。
警察は正面と裏口を塞ぎ、少年らの様子を外からうかがっているが、時折奇声を発する何者かがいると確認したくらいで細かい状況までは掴めてないらしい。
「犯人も被害者も未成年だから、手が出せないんだ。お前が持ってきたその駆除用ナノだって、どうやって投与したらいいのか」
話しているうちに沢口の姿が見え、二人はいっそう足を速める。
「来たな。駆除用ナノは」
沢口は二人を見つけるなり右手のひらを突き出した。暗がりの中、沢口の顔中に深く刻まれたシワはいっそう深くなり、緊迫感で怖い顔になっているのがわかった。焦りを帯びた声に勇造は、
「ありますよ、俺の胸ポケットに」
言うが一向に差し出す気配はない。
「警察に寄越せ。お前はもう一般人なんだ。ここから先は俺たちに任せ、成り行きを見守るんだ」
「できませんよ、そんなこと」
かつての上司に口答えした。
逆上し拳を振り上げる沢口を、彼の部下が必死に止める。
「これは俺があの所長から買い取った貴重な一粒ですよ。大金ふっかけられたんだ。俺が湊斗に飲ませないで、誰が飲ますんです」
裏口は開いていた。入ってすぐの台所、その奥にリビングダイニング。人の気配はしない。
「湊斗たちはどこにいるか、見当付いてるんですか」
「教えたくねぇな」
沢口は拒否した。頭に来たのかそっぽを向き、そのまま黙りこくった。
「二階の洋間らしいぞ。上の方から声がした」
水田が代わりに教えてくる。ありがとうと礼を言い、裏口の戸に手をかける勇造を、水田は慌てて引き留めた。
「何する気だ。まさかいきなりツッこむのか」
こくりと、暗がりでもわかるようにワザと大きく頷く勇造。
そこにいた誰もがポカンと口を開け、一様に「何考えてんだ」と腕を伸ばしてつなぎ服を引っ張る。
「民間人に何かあったら、警察がどの程度非難されるか、お前ぇ、わかってるはずだろう。警察に任せろ。早くナノ渡して逃げろ」
思わず大きな声を出す沢口。慌てた部下らに「声が大きすぎますよ、沢口さん」と言われてやっとまずいと思ったのか、右手でわっと口を塞ぐ。
「救いたいんですよ、俺は」
勇造は周りで止めに入る水田や刑事たちの手を無理矢理振り切った。裏口から一歩、室内に土足のまま踏み入れる。
「あいつを。ナノに感染された子供たちを」
「綺麗事だ」
今度は水田が正面切って勇造を睨み付けた。
「お前が言ってるのは、全部綺麗事だ。世の中、どう足掻いてもどうにもならないことだってある。ある程度諦めなきゃいけないことも、誰かに任せないとどうにも出来ないことも存在する。お前が便利屋をやりたいと言ったとき、たくさんの人を救いたくてと真っ直ぐな目で言った。それが気に入った。だけど、それはそれだ。これは俺たちが出来ることじゃない。便利屋の範疇を超えてる。沢口さんの言うとおり、警察に駆除用ナノ渡してさっさとずらかるんだ」
「いやだね」
歯を食いしばって抵抗する勇造。
その背後で、誰かの静かな足音が近付いてきていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます