24:涙
夜更けの空き家はただでさえ不気味だった。どのくらいの間放置されていたのか、埃っぽい臭いとかびたような臭いが混ざっている。照明もない。隣家から漏れる明かりと少し離れた街灯の明かり、そして警察車両の下向きヘッドライトだけ。
保護された少年の、「何人か大けがをしている」という供述により、数台の救急車も待機している。長期戦になることを想定してSATも出動準備しているようだ。
月明かりが妙に綺麗な夜だ。さっきまでどんよりと雲の陰に隠れていた満月が、やっと顔を出した。おかげではっきりとそれぞれの表情が見えてくる。焦りと緊張でピリピリと神経を張り巡らせる刑事たち、おろおろとしながらも必死に勇造を止めようとする水田、そして、こんなに緊迫しているのに状況を把握しているのかどうかにっと歯を見せる勇造の顔まで。
辺りは野次馬や警察の連絡を取り合う声で騒がしく、とても屋内の様子をうかがえる状態ではなかった。テレビ局のヘリコプターが何台か、中継のために深夜の上空を旋回している。そのプロペラ音が、僅かな音をかき消してしまう。
「綺麗事だって何だって、俺はあいつを救うと決めた。決めたからにはどんなリスクを負ったって、やりぬいてみせるさ」
根拠のない自信を見せつけ、また一歩、勇造は室内に足を入れる。
とうとうあきれたのか、水田は「アホがっ」と一声。それ以上何も言わなくなった。
居ても立ってもいられなくなった沢口は、
「仕方ない。俺も一緒に行く。危なくなったらその時は」
そこまで言って台詞を飲み、勇造の後ろから空き家に侵入した。
薄明るかった屋外から一歩中に入ると、そこはまるで真っ暗闇、地獄のようだった。ひんやりと冷たい風が吹き込み、熱気のない建物を更に冷やす。こんなに寒いのに、手のひら足の裏からはまたびっしょりと汗がしみ出て、如何に緊張しているのかがよくわかる。
「
気配がした。誰かがいる。その場に放置されていた椅子に腰掛け、じっとこちらを覗っている。
誰だ。
闇に目が慣れず、気配だけしか感じ取れない。殺気立った瞳がぎらりと輝いてこっちを見ているのが、遠目から何となくわかる程度だった。
月明かりがガラスの割れた窓から差し込む床に目線を落とすと、たくさんの血の跡が。床から壁から赤い斑点が飛び散っていた。恐る恐る足を出したその場所に何かあるのに勇造は気がつかなかった。
「一ノ瀬、足!」
沢口に叫ばれ、ハッと足元を見ると、そこには白目をむいて倒れる少年の頭。首からどくどくと鮮血が流れ出ていた。
血が引いた。足がもつれ、ドシンと尻餅をつく。
「バカヤロウ、もっと慎重に行け」
さっと身体を支えた沢口も、まさか既に一人殺られているとは思わなかったのか、怒りでブルブルと震えていた。
「なんだ社長、刑事さんも一緒なんだ」
久しぶりに声を聞いた。そう思ってしまうくらい長い間湊斗の声を聞いていなかった気がした。
声変わりして間もない、まだまだ少年の少しばかり低い声。いつもの頼りなさ気なそれとは違って今の湊斗は別人のようだ。刑事をしていた頃、犯人を逮捕するときによく聞いた、あの悪びれた気持ちすらない感情のこもらない声だ。そう思うと感覚がよみがえり、従業員ではなく犯人として湊斗を見てしまう。
「湊斗君、君が、君がやったのか」
沢口は勇造を立ち上がらせながら恐る恐る尋ねた。
「あんまり切れ味のよくない包丁でさ。まぁ、あの女が使ってたんだ、諦めるしかない。本当はもっと切り刻んでやりたかったのに」
月明かりに包丁の刃がきらりと光った。刃先が赤黒い。湊斗自身も、全身くすんだ赤色で汚れている。
「誰か、意識のある者は他にいねぇのか」
「湊斗、お前、自分で何やったかわかってるのか」
矢継ぎ早に大人たちが質問しても、湊斗はマイペースで包丁に付いた血痕を月明かりに照らしている。
こんな暗がりで、自分が殺した少年と一緒にいて、何が楽しい。にやにやと笑う口元がうっすらと見えて寒気が激しくなった。
目が慣れて、ようやく勇造は辺りを確かめる。
がらんとした室内、置き去りにされた食器棚が壊れ、あちらこちらに砕かれたガラス片が散らばる。窓ガラスも、何が原因かわからぬが、所々抜け落ちたり破れたりしている。そしておびただしい血の跡。リビングを抜け、廊下、階段と続くようだが、視界に入る全ての場所が血だらけだった。倒れている少年は二人。勇造の足元にいる一人は頸動脈を切られ、完全に息絶えている。他にもう一人、リビングの入り口近くにうつぶせているが、全く反応がない。あと数人いるはずだ。さっきまで二階で声がしたというが、今は何も聞こえない。
母親のことで逆上したにしては確かにやりすぎだ。これが戦闘用ナノの引き起こす狂気だというのか。
「お母さんは無事保護された。今は病院で手当を受けてる。目的は達したはずだな。さ、包丁置いて」
沢口はゆっくりと勇造の前に進み出た。なるべく動揺させないように、一歩一歩、時間をかけてにじり寄る。
「『お母さん』って、何」
すっくと、湊斗は立ち上がった。
包丁を高く掲げ、一振り。沢口を威圧する。
「あんなの、男の性器を受け容れるだけの器に過ぎないだろ。誰でもいいんだ。金になれば。ぶっ込まれて出されて、それで相手が満足してればいいわけだ。子供から年寄りまで何でも来い、ああいいうのを普通、母親とは言わねぇだろ」
母親の話をした途端、様子が急変した。やはり母親が引き金だったのかと、勇造も沢口も顔を見合わせる。
「あの女、俺がいつまでも知らないと思っていつまでも身売りしてやがった。いつまで気づかない振りをしてればいい。一生? いやだね。そんなの、耐えられねぇ」
湊斗の目は酷く虚ろだった。それでいて、何か恐ろしいものを抱え込んでいるような雰囲気があった。
「社長、俺は物心の付く前から母親のあえぎ声を聞いて育ったんだ。相手の男たちに『お前は女に生まれなくてよかったな』って言われたこともある。もし俺が女なら、母親共々肉棒の餌食になってたって、そういうことさ。一度に何人もの相手をすることもあったあの女の、性に対する考えの希薄さに俺は振り回された。時には妊娠し、病院行かずに産み落とし、それを俺が赤ちゃんポストまで連れて行く。しばらくすれとあの女、また男を連れ込んでアンアン腰を振った。それの繰り返し。何年となく異常な環境で育ったら、少しくらい狂ってもいいよなぁ。許されるだろ。平和に暮らしているガキどもが俺の母親を
告白の内容に、息を飲んだ。
誰にも言うことがなかった湊斗の本当の悩み、苦しみ。
こんな状況にならなければ口にすることが出来なかったのか。何故今まで半月以上一緒に働いてきて相談してこなかったのか。深い闇を一人で抱え込んでとうとう。
考えているうちに、勇造の胸は熱くなっていく。込み上げてくるのは湊斗に対する哀れみだろうか。何も気づけなかった自分に対する怒り、悔しさ。不条理な世の中に対する
涙が頬を伝う。止めどなく流れるそれは、湊斗の目にも入った。
「なに泣いてんの。社長、おかしいんじゃねぇの」
ケラケラと乾いた湊斗の笑い声が、空き家の一階に響き渡った。
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