16:異変
煙草を買ってくると、一言残して事務所を出た。買いためていたはずなのに、いつの間にかなくなった。今月分の小遣いもそろそろ尽きるこの時期、煙草の量が減らないのはある意味苦痛だった。
勇造はふと、夕方こうして歩いていたときに出くわした新聞記者のことを思い出した。何のために自分とあの所長を引き合わせたのか。あの記者がどのくらい事件について知っているのか問い詰めたくなってくる。事件を追っているうちに一介の便利屋に辿り着いたとはとても思えない。やはりあの場所で沢口との会話を聞かれていたのだろうか。沢口が危惧していたように。
夜の帳が降り、静かな住宅街のあちこちに明かりが灯っていた。勇造の頭上で、接触の悪い年代物の蛍光灯が電柱の上で瞬きをしている。
その点滅した明かりの中からのっそりと、黒いリュックを肩に引っかけたひょろ長い人影が現れた。経済日報の川嶋だ。
勇造は警戒し、無意識に構えた。
「何の用だ」
勇造の低い声を嘲笑うようにして、川嶋は少し明るい口調で話しかけてきた。
「研究所、行ってくださったみたいですね。どうです、成果、ありましたか」
暗がりから姿を現した川嶋が、少しずつ近付いてくる。黒い細長い化け物のようで、勇造は思わず息を飲んだ。
「血液検査、結果お聞きになりましたか。そろそろ届いているはずですが。あの少年、どうだったんです。陰性、それとも陽性」
「――お前に、
「お察しの通り、総合病院から付けていたんですよ。あの刑事、慌ててましたね。あれは間違いなく、知ってる証拠ですよ。少年が、感染者であるということを」
川嶋の、恐ろしい台詞に身の毛がよだった。逃げなければ。本能で思う。身体をグンと低くし、ダッシュで事務所に急ぐ。スーツ男に作業着が追いつかれてたまるかと、無我夢中で走り出す。
誰が感染者だ。
湊斗が、そんなはずない。
頭の中ではとうにわかりきっている結果を、だが結果も見ないうちから断定されたことに腹が立った。いや、その言葉が現実となりそうなことに恐怖を抱いていた。湊斗と接触したこともない癖に、簡単に湊斗のことを感染者だと言ってのける川嶋に、例えようのない怒りも感じていた。
事務所に着くなり、
「戸締まりしろ!」
大声たてる勇造に、残っていた沙絵子と水田、そして仕事から戻ってきたばかりの香澄は目を白黒させた。早くしろと怒鳴られ、慌てて窓の鍵を閉める。
入り口、建て付けの悪いアルミ戸がなかなか閉まらず悪戦苦闘しているうちに、暗闇からにょっきりと色白の神経質な右腕が這い出た。奇妙な声を上げて尻餅をつく勇造を見下ろすように、背の高いスーツの男が現れ、音もなく事務所へと足を踏み入れる。
「誰だ」
手元の長い定規を構えて威嚇する水田に、そのスーツ男はにんまりと気色の悪い笑みを見せた。肩の荷物を床に置き、胸元からそっと名刺を差し出す。
「経済日報の川嶋です」
「け、経済日報。お前が」
社長を唆しあの妙な研究所へ行くように仕向けた張本人かと、喉の辺りまで出ていた台詞を水田はゴクンと飲み込んだ。
「いやぁ、お宅の社長さん、大事な話をしようとするとすぐに逃げてしまう。お互い真実を知るために協力しましょうと言いたかっただけなんですけどね」
もっともらしい言葉で誤魔化すが、その中に何かを含んでいるのはそこにいる誰もがわかっていた。
「とりあえず……、お掛けになってください」
沙絵子が奥に案内しようとすると、ようやく立ち上がった勇造が腰をさすりながら止めに入った。
「こんなヤツ、話を聞く価値もない。帰れ。用はないと前に言ったはずだ」
「そう言わずに。私だって調べてきたんですから。警察が隠していた、未成年事件の秘密をね」
勇造の顔色が変わる。
「そっちで。あんまり人に聞かれちゃまずい。戸締まりだけ、しっかりさせてくれ」
*
安っぽい応接セットに向かい合って座る勇造と川嶋。ローテーブルに差し出されたアイスコーヒーを挟み、緊張が続いていた。一方的に勇造が緊張していただけかもしれない。川嶋は涼しい顔で胸元から取り出した手帳をめくり、論点を整理している。
その周りで沙絵子と水田、
「その、警察が隠していた、とは、どういうことなんだ」
恐る恐る尋ねる勇造に、川嶋は頬を緩めた。
「実は、今年の春から連続で起きている少年事件、私が記事を書いてましてね。取材した中には未成年者の人権保護の関係で表沙汰に出来ない事項も含まれているんです。いわゆる個人情報に当たるところですね。少年の出生、家族構成、その他近所の些細なうわさ話から学業の成績まで。これを表にし、事件を起こした少年らに年齢以外での共通点がないかを一つずつ突き詰めていく作業をしていましてね。だんだんと面白いことがわかってきたんです。同時に、これがもしかしたら警察の持っている最高の秘密じゃないかと言うことも、何となくですがはっきりしてきたんですよ」
「出し惜しみするな。手短にしてくれ」
「そう、焦らなくても。夜は長いんですよ」
「そう言う問題じゃなく。結論、結論を知りたい。研究所を紹介した目的は何だ。何で湊斗が感染者だと断言できる」
「それは」
声が大きくなった勇造を牽制するように、川嶋は身体を前に倒し小さな声で囁いた。
「彼の生まれた病院と、事件を起こした少年らが生まれた病院、ですよ。共通点はそこにあったんです」
「病院……生まれた……? どういうことだ」
――電話のベルが鳴った。
香澄が受話器を取り、いつものように受け答えする。
「社長、社長ですか。今、取り込み中で」
川嶋との会話を遮られ、緊張の糸がほぐれた。『社長』と聞き、勇造は立ち上がって電話の内容に困惑する香澄から受話器を奪った。
「はい、社長の一ノ瀬ですが」
電話口の声は曇っていた。
『あの、湊斗の働いてる、便利屋の社長さんですか』
聞き覚えのない子供の声。もしかしたらいつか喋っていた、近くの団地に住む湊斗の友人かも知れない。
「そうだけど、何か」
『湊斗、湊斗ンち、早く来てください。湊斗の母ちゃん、裸で。辺り一面――。ああ、俺が、余計なこと言ったからだ。湊斗、湊斗のヤツ』
息が荒い。尋常じゃない。
「君、今湊斗ンちにいるのかい。一体どうしたんだ。ね、君」
勇造の酷く慌てた様子に、自然と皆、立ち上がっていた。
「どうしたんだ。電話。どんな内容だ」
受話器を持ったまま立ち尽くす勇造に、水田がたまらず話しかけた。
ぶらんと受話器を持った右手を下ろし、ぱくぱくと声もなく呟く。その言葉の端で、
「湊斗が、狂った」
と声にすると、一同は一瞬で顔面を蒼白にした。
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