15:シロかクロか

 夕方のニュースで、血液検査結果の書かれた封書が霞ヶ関から一斉発送されたと報じられると、一ノ瀬の大人たちは皆手に汗を握った。

 政府が本格的に動き出している証拠だ。『要再検査』の文字が書かれたピンク色の紙が封入されている場合、血液検査を受けた指定病院か保健所を再訪問する必要があるという。

 恐らく政府はその対象となるナノマシンについて詳しい情報を持っている。ナノの引き起こす症状を緩和するか未然防止するための薬を投与するのではないかと、これはあくまで勇造らの素人考えだが、どうにかして治療していくことにはなるのだろう。

 政府も警察も、調べているらしい戦闘用ナノについて一切コメントがない。柳澤所長の言うように、九割以上の確率で医療用ナノでないとしたら、確かにとんでもない事態に発展する。未曾有の大混乱が巻き起こるのは目に見えていた。

 湊斗ミナトの所にも届くはずの封書、必ず結果は会社に教えるようにと念を押し、彼を家に帰した。別れ際、帰りたくないと数回呟くのを、沙絵子が無理に諭していた。


「親が元気でいる間しか、子供は甘えられないんだから」


 沙絵子の言葉に、湊斗は今にも泣き出しそうだった。

 彼は彼なりに、誰にも言えないものを隠し持っているのだと、一ノ瀬の大人たちみんながそう思い知らされる。


「政府の結果と、研究所の結果、どちらが先に来るか、だな。どっちにしたって、シロならシロ、クロならクロに違いない。けど、最悪クロだった場合、あの所長が何とかしてくれると思うか。あの男、どうにも信用できないんだが」


 窓枠に寄りかかり、家路に向かう湊斗の後ろ姿を見て、勇造はぽつりと呟いた。


「信用できないのはあの所長だけじゃない。研究所を社長に紹介した変な新聞記者、それに刑事の沢口さんまで。誰一人、信用できそうにないじゃないか」


 仕事から戻り、一服のアイスコーヒーをもらった水田も、勇造の背中を見ながらとんでもないことを口走る。

 沢口のことまで悪く言われるのは正直心外だったが、勇造は反論できなかった。同じ警察組織にいたときはずいぶんとかわいがってくれたあの沢口が、人が変わったように勇造を睨み付け、半ば脅しのように低い声で迫るのだ。

 それでも、きっとどこかで誰かを信じたいと思ってしまう。


――『俺は、誰かを助けたかっただけなんだよな』


 ふと、湊斗に言ったどうでもいい台詞が過ぎり、虚しくなる。自分だけがそう思って生きてるはずない。きっと自分に関わっている全ての人も、そう思って生きているはずなのだと、必死に言い聞かせた。そうしなければ、脆いこの世界が今にも終わってしまいそうでならなかった。



 *



 一晩帰らなかったのを、あの女はどう思うだろうかと、湊斗は重い心で考えながら帰路についていた。

 母親が見知らぬ男らに腰を振っている、それだけでも苦痛だのに、まさか自分と同じ年頃の子供まで相手にしていたとは。軽蔑してもしきれない。

 一ノ瀬の社長に声を掛けられた明くる日に、「俺、仕事したいんだよ」と勇気を振り絞り言ったとき、彼女は満面の笑みを浮かべ「うん。そう、わかった。ミナ、頑張るなら、私、もっと頑張らないと」と言ったあれは、何だったのだろうか。息子が仕事を始めれば、彼女の性生活も少しは収まるのではないかと思っていた自分に嫌気がさす。

 何を期待していたのだ。何を今更。

 真っ当な人生を歩めると勘違いしていたのか。

 まともな職にも就けず、いつかは母とともにあの都営住宅で朽ちるのだと思い込んでいたときの方がまだましだったのかも知れない。日の光の強さを知らぬあの頃は、月の光でも我慢できた。外の世界を知り、欲が出たのだ。その欲が、彼女の性生活をより残酷なやいばに変えて湊斗に突き刺さしていく。

 思い詰めれば思い詰めるほど、湊斗は苦しんだ。昨日のように妙な気分にはならないものの、とても平常だとは思えぬ心理状態だった。

 日が沈み薄暗くなった、団地に続く並木道。いつもの街路樹が見えると更に気が滅入った。サワサワと気持ちよさそうな音を出しているそれが、逆に湊斗の心をかき乱していく。

 世の中は不公平だ。それは前から思っていた。

 だけれど、最近特にそう思う。

 優しく微笑む沙絵子の温もりが、何故自分の母にはなかったのだ。

 義行のように学校に行く機会を何故失ってしまったのだ。

 一ノ瀬の大人たちのようにどっしりと構えるあの精神力も体力も、自分にはない。

 何より、『お前ンち、母ちゃんとお前しかいないじゃん』と、義行があのような台詞を言わねばならなくなったのは、他でもない、自分と母を捨ててどこかへ消えてしまった父親のせいだ。

 加えて訳のわからぬ血液検査だの感染だの。

 もう、どうにでもなってくれと、湊斗は自暴自棄になりかけていた。

 オンボロアパートの五階までの階段が、今日はやけに長く感じた。パチパチと明かりが付いては消え付いては消えする蛍光灯も、湊斗の気を沈めるには十分な役割を果たしていた。集合ポストから取り出した手紙と水道の検針票を片手に、よいこらと一段ずつ、重い足取りで上がっていく。

 あの女はいるのだろうか。

 また、男が中にいるのか。

 まさか少年を連れ込んでいるのか。

 考えたくないと思っていても、考えてしまう。

 自分の母親が、自分と同じ年頃の子供といちゃいちゃじゃれあっているのを。

 いくらで買われたんだ。どんなにひもじくったって、子供の小遣いで買われるようになったらお終いじゃないのか。フィリピンパブの綺麗な奥様はどこへ行ったんだ。金を積んでも抱きたいと言わせていたあの頃のプライドは。

 そしてこの現実を、どう受け止めたらいい。

 目の前にいつものドアが現れた。田村の表札のかかった我が家の入り口。いつものように、恐る恐る耳をそばだてる。母親の、あの声が聞こえないか確認するために。

 ――湊斗は慌て、必死に鍵穴を探った。手が震え、思うように鍵が刺さらない。おかしい。何かがおかしい。


「ど、どうした、落ち着け、落ち着け」


 自分に言い聞かせ、やっと開けた鍵、勢いよく開く扉。

 玄関に散らばる、無数のスニーカー。若者向けの、そう、自分ぐらいの世代の子供が履くヤツだ。何足、数えてる場合じゃない。

 履き潰したサンダルを脱ぎ捨てた。

 どこ、どこだ。居間、寝室、台所――。

 激しく家中の戸を開けまくった。ここにもいない、ここにもいない。

 普段から散らかっていた室内が、彼女の散らかし方でない別の誰かに荒らされたような形跡を持っていて、――汗が滲んだ。

 喉が渇いた。

 目は、瞬きを失った。

 話し声、子供の話し声だ。

 口を塞がれ叫ぶようなこもった女の声。

 何が起きてる、どこで。


「おい、何か来たぞ」


 場が冷めるように、サッと雑音が引いた。

 風呂場に、数人の少年がたむろっている。ズボンを下ろし、ガムテープで口を塞がれた裸の女を何人もで嬲っている。浅黒い肌と長い髪が、力なく空っぽの浴槽に垂れていた。

 湊斗の、それまで出したことのないくらい大きな声が、記憶の全てを吹き飛ばしていく。 

 握りしめていた封筒と検針票が、宙を舞った。封筒に書かれた文字、『血液検査結果のお知らせ』だけが、最後に湊斗の目に入った。

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