14:何も言えない

 目が覚めると、湊斗ミナトの身体はやたらとギシギシしていた。関節が思うように曲がらず、背中と腰が酷く凝っている。

 何が原因なのか、湊斗はすぐにわかった。昨日の、あの変にハイな気分と興奮、それから同時に襲ってきた頭痛と気持ち悪さ。きっと、その反動だ。

 いつもは朝七時以降勇造が鍵を開けてやっと動き出す事務所、今日はそれよりずっと前から人の気配がする。一ノ瀬夫妻は湊斗を心配し、事務所で朝を迎えていたのだ。

 沙絵子は起きてすぐ裏の自宅に戻り、朝ごはんをこしらえてタッパに詰め戻ってきた。休憩室の隅、立てかけていたちゃぶ台を中央に持ってきて、まるでままごとするみたいにそれらを並べていく。

 事務所のソファで眠っていた勇造も、寝心地は最悪だったと言いながら長髪をかきむしり、給湯室で髭を剃っている。 

 昨日あんな状態で駆け込んだのに、一ノ瀬の大人たちは普段と変わらず動いていた。


「一晩、泊めてくれて、ありがと。あのまま家に戻ってたら、俺、どうなってたか」


 朝食前、湊斗は深々と両手を畳に付けて頭を下げた。

 夫妻は目を見張り、気にしなくていいと愛想笑いする。


「それより、もし何があったか言えるのなら言って頂戴。力になれるといいんだけど」


 沙絵子はそういって優しく笑うが、相談はできそうにない。まさか自分の母が、前から知っていたとは言え売春行為をしていて、挙げ句子供に手を出したと聞かされ逆上したなどと、どうやってこの無垢な女性の前で言えようか。世の中には知らない方がいいこともある。湊斗はぐっと握り拳を作って、大丈夫ですと気丈に言って見せた。


「湊斗、お前風邪引いてんのか」


 と、今度は勇造から突拍子もない質問が向けられ、


「別に」


 意味もわからず答えると、夫妻は難しい顔をして頭を捻った。


「昨日のお前、端から見たらインフルエンザか何か、熱に冒されたような症状が出てたぞ。今朝は熱もない、身体が少し痛むだけと言ってたが、どうなんだ。以前にも似たようなことはなかったのか。急に動悸が激しくなったり、頭痛が続いたり」


「――初めてだよ。ああいうの。俺、医者とか行ったこともないし」


 第一、医者に行くような金などあの家にはない。言いそうになって湊斗は口を噤んだ。


「湊斗、お前今日も暇だろ。一箇所、連れて行きたいところがあるんだが」


 いつになく真剣な勇造の誘いに「いいよ」と軽く返事をすると、隣で沙絵子が「勇造、あなたまさか」と変な声を出す。


「その、まさかだよ。向かう先は『柳澤生体研究所』、ナノマシンの研究をしてる小さな会社だ」



 *



 昨日の夜は気づかなかったが、勇造のスーツ姿はとても見れたものじゃなかった。似合わない。その一言に尽きると湊斗は思った。

 口に出せば機嫌を損ねると思って言葉を飲み込んだが、それにしても、いつも作業着姿の彼が何故スーツなのか。気合いを入れるにしても入れる方向が間違っていると思ってしまう。

 それに格好は一丁前でも、移動手段はいつもの白い軽ワゴンしかない。土臭い車内、スーツの勇造と、会社に置いてあった洗い立ての作業着に着替えた湊斗、不釣り合いな二人が同席する。


「何とか研究所って、こんな住宅街にあんの?」


 揺れる車内、いつもの調子で質問する湊斗。


「ああ。俺も最初は驚いたが。目くらまし、なのかも知れないな」


「何それ。物騒だ」


「物騒だよ。あんなところでナノマシンの研究なんかしてりゃな」


 緩い上り坂の上に白い大きな邸宅が見えると、勇造は「ここだ」とスピードを緩めた。



 *



「昨日の今日でいらっしゃるとは、流石一ノ瀬さん。いい仕事しますね」


 柳澤は銀縁眼鏡の奥で細い目を更に細めて不敵に笑った。

 白衣姿の家主の不気味さに肩をすくませ、そしてまた小動物の鳴き声と気配に背筋を凍らせる。昨日の勇造らと同じ反応だ。


「ね、ここ、何の研究してるんだっけ」


 湊斗が堪らず聞いてくるが、答えようがない。『恐らくナノマシンの研究をしている』くらいしかわからないのだ。

 昨日とは別の、診察室のような場所に通される。普通の病院のそれと変わりない造りに何となくだがホッとした。


「彼に何か説明しましたか」


 柳澤はそっと入り口の二人に目をやる。事務机に向かった彼の手元には注射針。看護師らしいナース服の女性が一人、付き添いで立っている。


「いや、何も。――湊斗、そこ、座れ」


 患者用の椅子に座るよう合図されると、湊斗は戸惑って目をパチクリさせた。


「何、注射? ねぇ、何すんだよ、社長」


「いいから座れ」


 力仕事で鍛えた腕で、無理矢理椅子の上に縛り付けられた。自分で座れるよと勇造の腕をふりほどき、


「何するか教えてくれないと、訴えるよ」


 などと、その訴える先も知らぬくせに大口を叩く。

 勇造は努めて冷静に、出来るだけ本来の目的を知られぬよう、言葉を選んだ。


「今、世間で話題になってる血液検査。お前も受けただろ。あの検査、もしかしたらナノ感染の検査かも知れないって、お前の友達が言ってたことは覚えてるな。今後ウチで働くとして、そのナノに感染してるかどうかいち早く知るために、知り合いに改めて検査をお願いしてるんだ。ここ、柳澤生体研究所の所長さんにな。検査は病院の時と一緒。ただ血を抜くだけだ。簡単だろ。シロならそのまま働いてもらうが、もしクロだったらきちんと治療を受けた上で働いてもらわにゃならん。近頃色々法律がうるさいからな。未成年雇うリスク回避のためだ。――わかったら、腕、出せ」


 渋々腕をまくる湊斗。

 軽く消毒した後で柳澤の握る注射の針が、少しずつ湊斗の左腕に刺さった。赤黒い液体が徐々に半透明の管に貯まっていく。

 勇造は複雑な心境でその様子を眺めていた。



 *



 検査結果は数日中に出しますよと、柳澤は言った。


「次、伺うときには分析結果と一緒に、もっとツッこんだ話を聞かせていただきますよ」


 柳澤の耳元でそう言うのが、勇造の精一杯だった。


「ねぇ社長。その、ナノ感染って、実際してたらどのくらい命に別状あるわけ」


 軽ワゴンの助手席で注射の痕を軽く押さえながら尋ねる湊斗に、勇造は答える術を持たなかった。


「最近、社長、変だよ。なにかあったの」


 その質問にすら答えることが出来ない。

 無言で進むワゴン。東京の街が、全てを見守るように足元に広がっていた。

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