13:壊れていく
身体の様子がおかしいのは、
あの日、勇造と初めて会った事件現場を見に行ったときもこんな気分だった。いや、あの時よりも幾分か多めに興奮している。
――『子供相手に商売してるぞ』
義行の声が脳内で増幅されていく。その度に興奮度が増し、このままでは『突然狂いだして』しまうのではないかという恐怖に襲われる。
早く誰かに止めてもらわないと、何をしでかすかわからない。信頼の置ける大人、誰でもいい。――便利屋一ノ瀬の、包容力のある沙絵子か
日が沈み、既に外は真っ暗だ。日中の熱さがほんのり残った生温い風が、湊斗の身体にへばり付いた。住宅街、家々から漏れる電気の明かり、街灯の下を
風で木の葉がかすれる音が、妙にうるさい。変に聴覚が研ぎ澄まされ、鳥肌と震えが止まらない。暑くもないのに口の中が異常に乾いている。そして、激しい頭痛。その痛さが時折気持ちよくて嫌気がさす。気分はハイなのに、身体の内部から何かが悪いものが湧き上がってくるような。
こんな感覚、今までになかった。
足取りは覚束ない。いつもなら二十分もすれば歩ける道のりなのに、社屋まで一時間以上かかる。
変だ。早く、助けを呼ばないと。
湊斗の焦りは更に身体の異変を加速させ、手足から出る汗の量が異常に増えていった。
*
明かりの付いた事務所、請求書や依頼書の整理をする沙絵子の隣で、勇造と水田は昼間の研究所でのことを話していた。社長用の執務机に回転椅子二つ並べ、とんでもない事態になったと男二人、唸っていた。
「要約すると、その『戦闘用ナノ』とかいうヤツに感染したと思われる少年たちが日本中に溢れてるかも知れないってことなんでしょ。それって、もう私たちだけじゃどうしようもないじゃない。警察警察。こういうのは、国家権力で何とかしてもらうしかないと思うわ」
人ごとのように沙絵子は言う。そんなことは二人ともわかっている。
「問題は、湊斗もそれに感染しているかも知れないってことだ。それから、あの所長が言うように、これ以上情報が欲しかったら感染者の血液を提供しなきゃならんこと。簡単に言ってのけるが、かなり難しいぞ」
昼間はばっちり決めていた髪型が、夜になってほつれた。勇造の一張羅のスーツもすっかりくたびれている。ああでもないこうでもないと、頭をかきむしっているうちにどんどんいつものだらしない勇造に戻っていった。生えかけた髭を手のひらでジョリジョリ言わせながら、さてどうすると水田の顔色を見る。
すると水田も水田で、沙絵子が次々に汲む麦茶を片っ端から飲み干し、白髪交じりの頭をかき回しながら、「そうさねぇ」などと、やる気のない返事ばかりが続いた。
「そんなんだから沢口さんに『何で警察辞めたんだ』なんて言われるのよ。いい加減、未練断ち切って一般人になりなさいよ」
いつもは言わないのに、とうとうブチ切れたのか、沙絵子まで投げやりに言う始末。
大人三人、ため息をついてさてどうしようかと宙を見つめていた。
事務所のある町外れの住宅街はいつも静かで、夕方過ぎると虫の鳴く声がよく響く。開け放した窓から聞こえてくる、コオロギや鈴虫の声。それらをかき乱すような雑音が混じっているのに、最初に気づいたのは沙絵子だった。
「ねえ、なんか変なの聞こえない。誰か外、いるんじゃないの」
「住宅地なんだからいいじゃないか、人ぐらいいくらでも」
「そうじゃなくて。ホラ、ちょっと見てきてよ」
無理矢理勇造の腕を掴み、立ち上がらせた。沙絵子に押され、仕方なく半開きの入り口から顔を出す。アルミの引き戸に少し違和感がある。
「人だ」
勇造の一言に、水田の巨体が動いた。勇み足で入り口に駆け寄り、勇造と一緒に外を覗き込む。
室内から漏れる蛍光灯の明かりに、サッシに寄りかかる人影がぼんやりと映し出された。
荒い息、激しく動く両肩。
「湊斗、湊斗か」
呼びかけに大きく頷き、人影はそのまま地面に崩れた。
「様子が変だ。――熱、熱もある。水田さん、手伝って。中に運ぼう」
*
休憩室の畳に運び込まれた湊斗の熱を測ると、三十八度を少し超えている。
「風邪だと思う?」
洗面器に水を張り、濡らしたタオルを絞りながら端で様子を見ていた男二人に沙絵子は聞いた。
「確かに、そう見えなくもない」
言った後で勇造は難しい顔をする。
「熱があるなら家で寝てればいいだろ。何でここにわざわざ。それこそ不自然じゃないか」
水田の言うとおり、通勤に数十分かけてくる湊斗がわざわざこの時間訪れる理由が見つからない。どうやってきたのか、酷く疲れた様子だ。
とにかく少し休ませてやろうと、仮眠用の布団を押し入れから引っ張り出し、寝かせてやる。
まだ少し、湊斗の身体に痙攣のような震えが残っていた。
「お母さん、知ってるのかしら。電話、したほうがいいわよね」
枕元で沙絵子が言うと、
「連絡、しないで」
湊斗がか細い声を上げた。
「あの女には、あの女の所には行きたくない。助けて。気が、気が変になりそうだ」
潤んだ湊斗の目を見るなり、沙絵子はいたたまれなくなり、掛けようと手にした携帯電話を放り投げた。湊斗の寝込んだ布団ごと彼を抱きしめ、
「大丈夫、大丈夫よ。今夜はここにいよう。私、ずっとそばにいてあげるから」
柔らかい肌をこれでもかと湊斗にこすりつける。
安心したように数回抱き返し、いつの間にか湊斗は眠りに落ちていた。
*
寝たみたいだよと、休憩室から沙絵子が出てきたのはそれから三十分ほど経ってからだった。少し身体を拭いて、今は布団の上でゆっくり寝ていると彼女は言った。
先に事務所に戻っていた勇造は水田の前で、沙絵子はその隣で肩を落としながら深くため息をつく。
「うわごとのように、『あの女』って何度も。お母さんと上手くいってなかったみたいね。あの時はそう見えなかったけどな」
「思春期だもん、仕方ないだろ」
「勇造は簡単に言うけど、……なんて言うの。湊斗君、かなりの訳あり、だよね」
事務机の定位置に戻り、パソコンと書類を前にして沙絵子はまた、ため息を一つ。
「ねぇ、勇造。もしかしてあなた、あの子が何か問題抱えてるって最初からわかってたんじゃないの。違う? わかってて無理矢理引き込んだんでしょ、何か足元を見るようなこと言って」
「だとしたら、どうなんだよ」
回転椅子をギイと大きく鳴らし、勇造は沙絵子に向き直った。
その横で水田は、あきれたように頭を抱える。
「ま、社長はお前なんだから、文句は言いたくないが」
困ったヤツだと言わんばかりに水田は立ち上がり、
「トラブル自分で持ってくるのはやめてくれよ。責任もって解決できるようじゃないと、後々苦労するぜ」
そのまま「帰る」と手を振った。
アルミの引き戸が閉てられ、水田がいなくなった室内は急にシンと静まった。
窓の隙間、すぐそばで鳴き続けるコオロギの、哀愁漂う声だけがいつまでも響いていた。
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