12:嫌な予感

 便利屋に来て初めて、湊斗ミナトは長い休みをもらった。三連休。簡単な仕事しか入ってないから休んでいいわよと沙絵子がにっこり笑っていた。

 久しぶりに自宅に長くいなければならない。それが苦痛で、正直湊斗は喜べなかった。

 やることもない。考えた末、あの日久しぶりに会った義行よしゆきと連絡を取った。喜んで暇つぶしに付き合うよと言ってくれた義行の、昔と変わらない優しさが痛い。だが、当てもなくふらふら歩き回るよりずっと時間の経過が早いはずだと、連休の日中を夏休み中の彼と過ごすことにした。

 母親は相変わらず男の相手をしているらしく、夜中にはいつもの如く声が聞こえてくるし、日中も何人かの足音と最中の声が絶えず聞こえていた。息子が働きに行っても、彼女の生活は変わらない。パブは辞めたのだろうか。最近は買い物以外に外出する気配もない。それまでずっと律儀に作っていた食事も、一体どうしたのか作る様子もなく、出来合いのものばかり食っているようだ。自分の金で食事をまかなえるようになった湊斗は、彼女と同じ屋根の下にいても、顔を合わせることがなくなっていた。

 初月給の一部を財布に詰め、都営団地を後にする。じりじりと強くなってきた日差しの中、大通りまで続く並木道を同じ年代と思われる少年たちが数人、固まりで通り過ぎていく。まだ子供なのに、どこで覚えたのか卑猥な言葉を口にしながら我が家の方向に向かうのを、湊斗は恨めしそうに睨んだ。

 同じ世代で、同じように生まれながら、こっちは日中作業着姿で汗水垂らして働き、あっちじゃ悠長にエロい話大声で喋りながら高そうな洋服着込んで歩いて行く。何がそういう差別を生んだのか。経済の低迷、超少子化、あるいはただ単に自分がフィリピーナの子供だからなのか。

 コンビニで食い物を漁り、義行が住んでいる団地の公園で待ち合わせた。桜の木の下、ベンチに掛けて昔のようにどうでもいい話をする。立場の違う少年同士、何を話したらいいのか互いに探りながら、何とか時間を過ごした。

 木漏れ日が次第に動き、影がベンチから東へと外れていく。代わりに涼しい風が頬をかすめるようになった頃、義行が突然、話題を変えた。


「そういやこの前、お前の母ちゃんをスーパーの辺りで見かけたんだけどさ。相変わらず綺麗だよな。凄い目立ってたよ。――いくつだっけ」


「十九の時の子供だから、今三十五だよ」


「え、マジかっ。若ぇな。あー、確かにそれなら許容範囲だよな。ま、俺はそんな趣味ないけど」


 話題が母に触れたことで、湊斗は顔をしかめた。

 確かに母は美しい。それは間違いないと彼自身思っていたが、義行にそう言われるのは何となく心外だった。


「何でそんな話」


 話題を変えたい。無愛想に言い放ち、湊斗は隣に座る義行からわざとらしく顔を背けた。


「――俺、ホントは湊斗に言わなきゃと思って、こうして会えるのを待ってたんだ。でも多分、言ったら気分を害する。だけど、お前ンち、母ちゃんとお前しかいないじゃん。そうなったら、母ちゃんに忠告できるのはお前一人しかいないわけで」


 うつむき、なにやら曰わくありげに語り出す義行が少し気になった。向き直り「何だよ」と言うと、義行は人目をはばかるように肩をすくめ、左手で口元を隠しながら湊斗の耳に囁いてきた。


「お前の母ちゃん、子供相手に商売してるぞ」


 一瞬、耳を疑った。


「義行、お前何言って」


 笑って見せたが、目は笑えなかった。


「嘘じゃない。ホント。俺、見かけたんだよ。子供……そうだな、俺らくらいの少年引き連れて都営団地ンとこ歩いてんの。そのまま、お前ンちがある棟に入ってった。悪いけど、俺、前からお前の母ちゃんが何してるか知ってンだ。行為自体犯罪だけど、相手が少年となると――かなりやばいぜ。警察にしょっ引かれるのは時間の問題かもな」


 湊斗の中で、何かが壊れた。

 小さく脆い、今までずっと大切にしてきたものの一つに大きくひびが入った。

 頭が真っ白になり、義行の台詞、後半に行くにつれて殆ど耳に入らなくなる。

 鼓動が激しくなっていた。

 手のひらと足の裏が、暑くもないのにぐっちょり濡れて、喉が急激に渇いた。

 知らないうちに奥歯がカタカタと音を立てている。


「おい、湊斗。どうした」


 慌てて義行が身体を揺さぶるも、彼は視点定まらぬままふらりと立ち上がり、


「帰るわ」


 一言だけ呟く。

 血が湧き上がっていた。

 殺傷現場や惨殺現場を見たあの時よりも、激しく興奮してきていた。



 *



「――その、『戦闘用ナノ』のことを警察が調べているということは、単純に流行しているナノがそれである確率が高いと、思っていいわけですね」


 やっと柳澤が口にした、一連の事件の核心かも知れない言葉を逃してなるものかと、勇造は話を繋いだ。


「断定はかなり危険だ。だが、私の予想では九割以上の確率で『戦闘用ナノ』ではないかと。軍事関係のプロですら触ろうとしない、暗黙の了解のようなものなのでね。一介の刑事が調べて回るにはあまりに不自然だったんですよ」


 確かに聞いたことがない。ナノマシンが医療以外に使われているなどと。インターネットで調べたところで引っかからなかった。検閲でいちいち削除されているのか、本当に世に知られていないのか。響きからしてもとても穏やかなものじゃない。

 勇造はゴクリと唾を飲み、乾いた喉を潤すように冷えたコーヒーを流し込んだ。


「医療用のナノじゃなくて、そんな危険なナノが本当に世に広まっていたとしたら、何となく辻褄は合うな。警察は事実を隠蔽し、政府も本来の意図を隠して血液の検査をしている。――倫理的に見て、本当に日本でそんなことが起きているとはとても思えないが。もし、もし仮にそういう恐ろしいものが出回っているとして、だ。ナノの保有者にはどんな症状が現れるか、柳澤所長は知っているわけですね」


 しかし、柳澤は大きく首を横に振っていた。


「わからないね。一口にナノと言っても、いろんな種類がある。断定的な発言は、今の段階ではとてもじゃないが無理だな。ナノの特定、それさえ出来れば、データベース上からナノの引き起こす症状や対処法について調べることも可能だが。政府は噂の真相が広がるのを恐れ、今回の血液検査の分析を民間の医療機関には依頼していないようなんですよ。出回っているのが数種類なのか一つだけなのか、サンプリングできるならもしかして、何らかの対処法をとれるかも知れませんが」


「それは、暗に我々にサンプルを持ってこいと。――そういう解釈でよろしいですか」


 その台詞を待っていましたとばかりに、柳澤は一段と笑みを濃くした。


「話が早い。流石元刑事さん。伊達に頭はよくないですね」


 無理におだてたようなことを言うが、本当は柳澤は全部知っているのではないかと勇造は感じていた。勇造の過去も経歴も、便利屋がどんな職業でどれくらい動きやすいか。知っていてワザと知らない振りをし、丸め込むような形で自分の都合のいい方向に話を持って行く。やっかいな相手だ。だが、彼を利用しなければ、湊斗の中にうごめいているかも知れないナノの正体を突き止められないのも、また事実だった。

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