10:柳澤生体研究所

 小高い丘の上、東京の街を見下ろす絶景観が人気の閑静な高級住宅街。およそ便利屋の仕事とは不釣り合いな場所に、一ノ瀬と水田は来ていた。

 経済日報の川嶋という男の名刺の裏にあったのは、どうやらこの住宅街にある小さな研究所の住所らしい。地図で確認し、その上でこの場所にある建物の名前をインターネットで検索、出てきた名称に便利屋の大人たちは息を飲んだ。そこが一体何の施設なのか、名称だけで判断するには恐ろしいくらい、自分たちが今求めているものに近すぎたのだ。

 得体の知れない男の罠かもしれなかった。

 ネットを使っても名称と電話番号しか探れないその施設、念のためアポイントメントの電話を入れたが、愛想のない機械的な声で事務の男が「取材はお断りしておりますが」と体よく断ってきた。「『ナノ』と血液検査について調べているのだが」と水田が機転を利かせて言うと、突然事務員は所長とやらに相談を始め、最終的にOKの返事をもらった。

 いよいよ怪しい。

 地図の通り軽ワゴンを走らせようやく辿り着いた場所にあったのは、名前からは想像付かないくらい美しい、白亜の邸宅だった。


「『柳澤生体研究所』、ここか」


 大きなガレージに、高級車が一台。屋敷をぐるっと囲う高い塀と、背の高い木。横書きの表札にあった研究所の名称、電信柱の住所表示。間違いなく名刺裏の場所だ。

 白壁に車を寄せて停め、いつもよりかは幾分ましな着慣れぬスーツ姿で、勇造と水田は地に降り立った。いつもは適当に一つに纏めるだけの髪の毛を、今日はキッチリ固めてきている辺り、勇造の並々ならぬ気合いが感じ取れる。

 塀の横にあるインターホンを押して電話した者ですがと言うと、どうぞという男の低い声がしてゲートのロックが外れた。

 敷地は思ったよりもずっと広い。玄関まで続く石畳のアプローチ、庭中に敷き詰められた芝生に、大きなウッドデッキ、別棟も見える。


「何の施設だよ」


 勇造が思わず呟く。

 水田は神妙な面持ちでその後を無言で付いて歩いた。

 事務員と思われる表情のない男性が玄関を開け放して二人を出迎えた。軽く挨拶を交わしたあと中へ通されると、屋内の様子にまた彼らは萎縮する。

 獣の声だ。鳥、猿、犬や、もっと大型の何かの声も聞こえる。


「動物たちの声に驚かれましたか。じきに慣れますよ」


 事務の男は言うが、慣れたくもない。勇造はブルッと身体を震わせて、辺りを見回した。

 廊下の両側に小型動物の檻、少し先にホルマリン漬けの何かが大量に陳列してある。更に奥には大きな扉が設けられ、その先から地を這うような低い獣の鳴き声がしていた。生体研究所と名乗るからには、動物実験か何かをしているんだろうと二人は推測していたが、それにしてもおぞましい。


「何か、変な臭いが」


 思わず鼻を擦る。獣の臭いと薬品、薬剤の臭いが混在して、不快感を増幅させている。気が変になりそうだ。勇造がふらっと頭を揺らすのを見て、大丈夫かと水田が囁く。大丈夫だと返事しても、実際は臭いを吸い込まないようにするのが精一杯だ。色々悲惨な現場で仕事はしてきたが、この研究室の臭いは余所とは種類が違っているように思えた。

 どうぞこちらへと事務員に案内された応接間、数分待つと、別の男性が煎れ立てのコーヒーを持って現れる。


「すみません、お待たせして。あ、これ。急いで煎れたものですけど」


 男はコーヒーカップをそっと各々の前に配ると、正面のソファーに座って二人に名刺を差し出した。


「所長をしている、柳澤圭司です。噂の『便利屋』一ノ瀬さん、お会いするのを楽しみにしていましたよ」


 生真面目そうな眼鏡の男だ。三〇代半ば、ノリの効いたワイシャツと白衣、黒いスラックス。いかにも研究者ですよという身なりの、清潔感はあるがなんだか古くさい人物だ。長髪の勇造からすると、前髪が軽く七三に分かれているのがものすごく気になった。

 柳澤の差し入れたコーヒーのいい香りが応接間に充満する。


「こちらこそ、貴重なお話が聞けると期待してます」


 勇造もそっと名刺を差し出す。


「便利屋さんみたいな職業の方が、『ナノ』について調べてらっしゃるとは正直意外ですけどね。何か、請け負ってる仕事と関係があるのですか。それとも、興味本位」


 名刺を手元に置きながら、柳澤はその鋭い目を勇造と水田に向けた。


「事件現場の清掃を請け負うことが多いんですよ。普通の清掃業者はちょっと遠慮したい、というような、いわゆる凄惨な現場と言いますか。ご遺体を移動した後の血液や肉片の除去、消毒消臭関係ですかね。ああいうのは金にならんもんですから、清掃業者からウチみたいな零細企業に仕事が流れてくるんです。その頻度が最近増してましてね。特に十代の若者が起こす事件の割合が多い。不思議だと思っていたら政府の緊急血液検査。噂じゃ、本当は『ナノ』感染の有無を調べるモノだというじゃないですか。そこで、我々も興味を持ったわけです。その……『ナノマシン』というものに」


 本当は何の施設かもわからぬのに、勇造は相手の目を見ながらわざとらしく『ナノマシン』と台詞に入れた。柳澤はその不自然さをわかってか、にやりと笑う。


「仕事がらみの興味本位、ということですか」


「まぁ、端的に言えばそんな感じです」


 勇造の出方を見て何を話すか決めているのだろう、柳澤は腕組みして何度も頷いていた。


「正直、私たちにはそういう科学的な知識がなくて、『ナノが原因だったら何となく辻褄が合うような気がする』程度までしか考えが及ばんのです。考えあぐねているところにここを紹介」


「――経済日報ですね」


 言葉が出尽くさぬうちに、柳澤が台詞を被せた。

 新聞社の名前にハッとして勇造は息を飲む。


「知ってたのですか」


「あそこの記者が毎日うるさくてね。ここの研究所は取材お断りなんですよと何度言ったって聞いてくれない。なるほど、それであなたたちを寄越したのか」


 柳澤は窓をそっと見る素振りをし、目を細めた。


「寄越されたとは思ってませんよ」


 じっと我慢していた水田が、勇造の隣から横槍を入れる。


「確かにあの記者は社長に近づき、暗にここを教えてくれたが、ここに来たのは我々の意志ですから。そこは勘違いしないでいただきたい」


「大丈夫、気にはしませんよ。正直、動機などどうでもいい。我々もフットワークの軽い便利屋さんに少しお願いしたいことがあるもんですからね。丁度よかったんですよ」


 意外な一言に勇造と水田は目を見合わせ、柳澤の表情を覗った。何とも考えのわからないいやらしい顔をしているこの男の、言葉のどの程度を信じればいいのか。


「丁度、よかったというと」


「それはですね。……まず、『ナノ』がどのようなモノか、説明するところから始めさせていただいてよろしいでしょうか」


 柳澤はどこまでも思慮深かった。

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