02:逃げたい現実

「仕事の詳しい内容を説明するから、親御さんを連れてきなさい。未成年を雇うには、契約書に保護者のサインと捺印がいるんだよ」


 そう言って男が渡した名刺には、『便利屋一ノ瀬 代表 一ノ瀬勇造』とある。


「気が向いたら来てよ。気長に待ってるから」


 やってみないかと言ってきたのは本心なのか、それともやはりただの冷やかしだったのだろうか。保護者のサインとやらがなければ雇えないのは、未成年保護法に引っかかるからだとも言っていた。法律で未成年者を雇うときの労働条件が細かく決められているらしい。

 湊斗ミナトにとってこれほどやっかいな問題はなかった。保護者、そんなまともな存在じゃない。同居する親らしき人間をさげすんでいた。



 *



 日が傾き始めた。長い家路をだらだらと歩いた。重い足取り、帰りたくないの表れ。都営住宅までの並木道の下、日陰で少し涼しかったが、蝉の音が異常にやかましい。まだ強い夏の日差しが木々の間から強烈に紫外線を浴びせてくる。

 夏は嫌だ。むさ苦しい。息苦しさが増す。全身から滴る汗も、渇いた喉も、重たい頭も、何も考えたくない脳みそも、全部が全部湊斗を苦しめていく。

 五階建ての古い建物が密集する団地、いつ建てられたのかもわからない旧様式の箱たちは、まるで二十世紀の遺物のようにずっと昔からそこにたたずんでいた。

 湊斗が生まれるよりもっと前から、母はここで暮らしていた。低所得者向けの物件、薄汚い上狭苦しいが、母子家庭には丁度いい。父親はいなかった。死んだのか、それとも捨てられたのか。そんなことはわからない。何も語らぬ母にどう尋ねたらいいのか考えあぐねているうちに思春期を迎え、最近ではろくに会話もなくなった。一緒に住んでいる、いや、ただ同じ部屋で空気を共有しているだけの存在になってしまっていた。余所の家庭で、親子がどんな会話をしているのかなど想像も出来ぬ。ただその腹から出したというだけで母親面をする女に、異常なまでの嫌悪感を抱く。――湊斗には、湊斗なりに譲れない理由があった。

 五〇五号室、『田村真里・湊斗』と表札のでた扉までのしのしと階段を上っていく。薄暗い階段室、明かり取りの窓から夕日が差してくる。灰色とオレンジを足した濁った色が支配する廊下は少しひんやりしていたが、湊斗の重苦しい気持ちをなだめるほどではない。

 母はいるのだろうか。出来るならば母一人だといい。いや、どうせなら寝ててくれるか、それともどこかに外出していた方が都合がいい。母が日中、自分のいぬ間に何をしているのか。見たことはないが知っている。もう、いい加減年なんだ。止めて欲しい。息子がいつまでも何も知らず同じ部屋に暮らしているわけないじゃないか。

 階段の一番上、左手に我が家。室内の様子がわからないか、そっと耳をそばだててみる。あの忌まわしい物音はない。ほっと胸を撫で下ろし、鍵をノブに近づける。


「よぉ、湊斗ちゃん」


 ドアが勢いよく開いた。鉄の扉が湊斗の額に激突した。

 尻餅をついた湊斗の頭上に覆い被さるようにして、サングラスをかけた色黒の男がにやけ顔でこちらを覗き見ていた。


「今お帰りかい。あんまりママを心配させるんじゃねぇぞ」


 ケケケッと不快な高い笑い声。派手なアロハシャツに咥え煙草。いつもの男だ。いつもと同じように、……しに来たんだ。恐怖と憎悪が一緒に湊斗を包んだ。ギリリと奥歯を噛む。それが楽しいらしく、また男はケケケと笑う。


「なぁに、用事は済んだよ。またな、湊斗ちゃん」


 サンダルを引っかけ、転んだ湊斗の肩をぽんぽんと軽く数回叩くと、男は揚々と階段を下りていった。


「何が『湊斗ちゃん』だ」


 男のいなくなった階段を睨み付け、湊斗はゆっくりと立ち上がった。開け放したドアの向こうから、パタパタと足音が聞こえてくる。やがて玄関に着衣を乱した女性が現れると、湊斗はますます不快感をあらわにした。


「おかえり、ミナ」


 子供の頃から変わらない、彼女特有の呼び方。ただいま、とは言えない。言いたくない。

 尻をはたいて埃を落とし、無言で室内へと足を向ける。他に、男の靴はない。よかった、あの男だけだ。もし他にも男がいたら――いや、考えるのはよした方がいい。


「待ってね、今、ご飯の準備するよ?」


 ワンピースのボタンを留めながらカタコトに喋る日本語。自分より少し浅黒い肌。真っ直ぐというより少しウェーブがかった黒髪。

 湊斗の母親はフィリピーナだ。

 ナノテクノロジーやiPS細胞による再生医療を代表とする高度先進医療の発達により、日本人の平均寿命は延び続けていた。しかし、高齢化社会、高齢社会を経て超高齢化した日本社会を支える労働人口は、二〇世紀末から続く少子化のため危機的状況にあった。新しい技術の開発は進んだが、減り続ける労働力をまかないきれるはずもなく、政府は苦肉の策としてアジア諸国の外国人労働者を多く受け容れたのである。製造・販売分野から広くは介護福祉などの医療現場まで、簡単な日本語教育を受け、日本で仕事をするための資格を取得した外国人たちが、日本に押し寄せていた。

 湊斗の母も元々はどこかの工場で働いていたらしい。景気悪化で首を切られフィリピンパブで働くようになったのだとか。直接聞いたわけじゃない。客だと名乗る男たちが勝手に教えてくる。聞きたくないことまで全部、湊斗の耳に入ってくる。

 工場で働いていた時分、田村という男と知り合った母は、やがて子を宿し結婚し、湊斗が生まれた。結婚と同時に手に入れた日本名、それを彼女はずいぶん気に入っているらしい。しかし父親だという男は湊斗が物心つく頃にはいなくなっていた。母は日本名を名乗り、日本人になりきって女手一つで何とか息子を育てようとしていたのだそうだ。絶対的に足りない知識、日本人と違う明らかにエキゾチックな顔立ちで苦労したのだろう。結局は他のフィリピーナ同様、パブで働く道を選んだ。

 パブで覚えた違法な身売り。いつの間にか収入の殆どがそれによってまかなわれるようになる。母親のあえぎ声を聞きながら眠るのは日常茶飯事。生きるために身を売る。彼女にとって、それは愛する息子を育てる最善の方法だったかも知れない。しかし、思春期を迎えていた少年には、辛く悲しい事実だった。

 ドアを閉めて靴を脱ぎ、無言で母の隣を通り過ぎる。エプロンをする母の胸にブラジャーはない。都営住宅の小さな居間に無造作に敷かれた布団の上、くたびれた彼女の下着が寂しそうに寝そべっている。


――『契約書に保護者のサインと捺印がいるんだよ』


 一ノ瀬の言葉を思い出し、湊斗はまたギリリと歯を鳴らした。

 保護者、こんな親でも法律的には保護者に違いない。未成年であるという理由だけで、こんなに悩まなければならないなんて。自分がまだ子供であること自体、憎たらしかった。早く大人になりたい。大人になって自分の好きなように人生を過ごしたい。

 貧乏なフィリピン女の元に生まれたことを恨む。

 自分と母親を捨ててどこかへ行ってしまった父親を恨む。

 自室にこもり、飯の支度が出来るまで湊斗は一人布団に伏した。

 こんな生活は嫌だ。働きたい。働いて、自分の金を得て、ここから逃げ出したい。そのためには何とかしてあの女を便利屋の事務所に連れて行かなければならないのだ。

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