nano―穢れなき魂は狂気と眠る―

天崎 剣

01:血の臭い

 雑踏に溢れる悲鳴と叫喚。辺りは文字通り騒然としていた。

 夏の昼下がり、アスファルトからの照り返しが作る蜃気楼。三十五度を超える猛暑は狂気さえ作り出すのか。白く歪んだ街、たくさんの足音、響くサイレン。現実味のないそれらが、一度に湊斗ミナトの耳へと入ってくる。ただでさえ人口密度の高いこの街、ひとたび事件が起きると、更に空気が重くなり息苦しさが増す。酸素濃度が低下する、そんな錯覚。この夏、こんなことは何度目だろうと、湊斗はぼやっと考える。

 昔からの軒並みと新しい店が混在した商店街、彼は老舗金物屋の入り口でふと立ち止まり、通行人の会話に耳をそばだてた。血が出てる、誰か死んでる、救急車。人の命に関わる何らかの事件が起きているのに、彼は不謹慎にもにやっと笑い、その顔を他人に悟られぬよう、野球帽のつばでそっと顔を隠した。たくさんの人間が湊斗の前を過ぎ去り、時にガタガタ震えるもの、泣き叫ぶもの、助けを求めるもの、様々いたが、それでも彼は湧き上がる感情を抑えきれずにいた。

 人の不幸が好きだ。好きで堪らない。自分の手が赤く染まるのを想像し、またにやと笑う。無論、事件とは無関係ではあるが、黒い気持ちは日々高鳴り、抑えが効かなくなっている。

 二〇七〇年に入り、通り魔事件が急増していると今朝のニュースで聞いたばかりだった。湊斗と同じ、十代の少年が起こすらしい。それまで普通に生活していた少年たちが、ある日突然狂ったように人を斬りまくるのだとか。原因不明、共通点もなく、警察は手を焼いている。普通の少年が狂うのなら、俺はとっくに狂っていてもおかしくない。彼はずっと、そう考えていた。

 軒先からまたしばらくの間、過ぎ去る人々の表情を伺う。顔面蒼白の大人たち、悲鳴を上げる子供、子を守ろうと建物へと逃げ込む母親。どこが現場なのか。視線を右に向けると、その奥から威嚇射撃音。続いて一段と大きな奇声。事件が動いたのか。湊斗は野球帽を深く被り直し、騒ぎの中心へと急いだ。焼けるように熱された歩道を、人の波に逆らって走る。さっきスポーツドリンクで補充した水分が、汗とともにどんどんと体内から失われていく。胸、背中、脇の下、膝裏、どこもかしこも汗でぐっしょり濡れ、頭もふらふらしていた。熱射病直前かも知れない。思うが、好奇心を止められず走る走る。

 会話が次第に大きくはっきりと湊斗の耳に入ってきた。やはり、犯人は十代の少年だ。ついさっき警察に取り押さえられたらしい。路肩に停まった車に乗り込み、それを奪って逃走しようとしたのを、警察が車両のタイヤ部分に発砲したのだという。銃声が大きかったのは、タイヤの破裂音と重なったからか。


「犯人、死んでないのかよ」


 つまらなさそうに呟くと、走るのを止めた。人垣が散り、次第に惨状が見えてきていた。

 繁華街、飲食店の連なる路地に血の跡が散在していた。救急車とパトカーが何台も停まり、大勢の人間が囲っている。かわいそうにと、眺める割に手助けしない大人。誰か、誰かと叫んでいるのに、救急隊の数が足りないのだろう、慌てふためくけが人。お母さん助けてと年甲斐もなく涙を流す中年男に、頭を抱える警察官。鑑識が凶器のナイフを押収し、刑事が数人、パトカーの無線で誰かと話す。


「カオスだ」


 こんな状況でも、犯人は射殺されない。日本は腐っている。湊斗の思考は、偏っていた。アメリカなら、間違いなく犯人はその場で射殺だろう。日本じゃどんな凶悪犯罪が起きたって、犯人を生け捕りにして裁判にかける。しかも、最近出来た『未成年保護法』とか言うヤツが、更に犯罪を助長させてるとどこかで聞いた。どんなに悪いことをしたって、しばらくの間は税金で飯が食えるんだ。おかげで、飯が食いたいからワザと罪を犯して警察の世話になるヤツもいるんだとか。そう、自分だって、いつそうやって犯罪に手を染めるかわからない。明日のこともわからない今のご時世、生きることがどんなに難しいか――身に染みて感じている湊斗にとって、事件現場の混乱はいっそう滑稽に見えた。

 歩道を通って、少しずつ現場へと近づいていく。ムッとする熱さの中に、新鮮な血の臭いが混じっていた。

 事件は頻発していたが、発生直後の現場に足を踏み入れるのは初めてだった。遠巻きに見ていたときと違って、妙な緊張感がある。ガラスの破片、切り刻まれた衣類や散乱したバックの中身、その全てに血しぶきがかかっていた。事件前まで、それらが美しい形をしていたかなど想像できないほどに壊され、切られ。

 ぞくぞくとする。手が震えた。自分もそうしてみたいと思っているのか。それとも、単なる恐怖か。

 それにしても、日本の警察というヤツはだらしない。時代が進んだってやっていることは変わらないんだろう。続けざまに起きる通り魔事件を抑止することも出来ないとは。尤も、原因がわからなければ対策はとれない。そんなのわかっている。そう、もしかしたら、こうやって事件を静観している自分さえ、訳のわからぬ衝動に駆られ人を斬るかも知れないのだ。

 店の軒先に隠れるようにして、現場全体を見渡した。ふと、一人、他の人間とは違う動きをしているのが目に入る。


「なんだ、あいつ。警察……じゃない。作業員……?」


 ショウウインドウを割られた洋服店の中に入り、何度も店員にお辞儀し、かと思えばガラス戸の破損具合をチェックしてみたり、なにやらメモをとってみたり。何をしているのか湊斗にはよく見えなかったが、その背に『便利屋一ノ瀬』と見慣れぬロゴマークを見つける。そんなに背の高くない、長い髪を後ろで一つに結った……男だ。人の良さそうな顔をして、店員と仲良く喋っている。

 便利屋というヤツらがいるのは、湊斗も知っていた。家の郵便受けに毎週のようにチラシを入れてくるからだ。一ノ瀬、そんな名前の便利屋があったかどうかは覚えていないが、名前の通り何でもやると書いてあった気がする。なるほど、こんな悲惨な現場だって、彼らにとっちゃいい仕事ってわけだ。人の嫌がる仕事を進んでやる。それによって利益を得る。興味はないが、気になった。湊斗は無意識に男を目で追った。

 数件挨拶回りをしたかと思うと、便利屋の男はいそいそとパトカーに近寄り、刑事となにやら話し始める。会話の内容が気になって、自然に身体が動いた。人の波に隠れるようにして、ゆっくりと近づいていく。口の動きが少しずつ見えてくる。声が聞こえるまで、あと少し。そう思ったとき、


「君、何してんの。ウチの社長になんか用?」


 甲高い女性の声、ぐいと左腕を捕まれた。

 綺麗で元気そうな若い女。似合わぬ作業着、作業帽、胸に『便利屋一ノ瀬』のロゴマーク。

 湊斗は慌て、手を引きはがそうとした。自分より少し背が高いだけの女の思ってもみない握力に四苦八苦しているうちに、目で追っていた長髪の男がこちらに気づいた。


「君、ずっと社長を見てたわね。何、便利屋に興味があんの? それとも、社長に気があるの?」


「ふざけんな!」


 女は面白そうに湊斗をからかってくる。一体何なんだ、ちょっと目で追っただけで。カッと頭に血が上り、左手に絡みついた女ごと腕を振り回した。力はあるが、軽い彼女の身体がふわと浮いた。

 危ない、やり過ぎたと湊斗は思わず目を瞑る。生け垣の切りそろえて間もない枝が彼女の背後にかすかに見えていた。


「――っと、間一髪。大丈夫か、香澄かすみ


 恐る恐る目を開けた。あいつだ。さっきまで目で追っていた作業着の長髪男。平気平気とにこやかに答える女の雇い主。

 女の頭を子供のように撫ぜた後、男は表情を変えて湊斗に向き直った。


「おい、少年」


 湊斗はびくっと肩を揺らし、二人に背を向ける。こんな奴らにいつまでも付き合ってられない。ほんの少し興味を示しただけで呼び止められるなんて、迷惑もいいところだ。逃げよう、それがいい。


「少年、便利屋になってみないか」


 数歩進んだところで、男の思ってもみない台詞が聞こえた。


「はぁ?」


 長髪男の作戦だったのだろう。湊斗はまんまと足を止めてしまう。踵を返し、便利屋たちを睨み付けた。


「お前ら、頭悪いんじゃないの? なんでそうなんの?」


「まぁ、騙されたと思ってやってみたらいいじゃないか。少年、見たところそれなりに体力もありそうだし、何より暇そうだ。そんなにいい仕事じゃないが、金にはなるぞ。どうだ、やってみる気はないか」


 金、と聞いて、少し考える。

 確かに金はない。今欲しい一番欲しいのは金だ。足元を見るような小汚い奴らだと、わかっていつつ思わず聞いた。


「……学歴、なくても雇ってもらえるもんなの」


「この業界、頭よりここだからな」


 ぽんぽんと力こぶを叩いてみせる長髪男。気にくわない、何もかも。だけれど、金に困っていた湊斗には選択肢もなく、心外ながら、


「は、働いてやってもいいよ」


 と言わざるを得なかった。

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