第14話 主人公、振り回される

 歌いたくなるような朝でした。嘘です。歌いました。気分が乗って小声で歌いました。

 髪から普段は香らない良い匂いがしました。ふわっと、花と石鹸が混じったような匂いです。

 お姉様がくれた、香油が遺憾なく発揮されています。


「ふっふーん」


 私は今、次の授業に向かうため、廊下を歩いています。鼻歌を歌いながら、スキップをしてしまいそうでした。あ、一回転ターンをしてしまいました。くるっと。回った拍子に髪が靡いて、鼻先をくすぐりました。

 香りも一緒にくすぐってきて、私はふふ、と笑います。


「ふーふふふーん」

「嬉しそうだね!」

「ふぎゃわああああああ!」


 私は叫びました。

 進行先の廊下の曲がり角から、フウロさんがひょっこりと顔を出してきました。傾いた頭から深緑の髪がまっすぐ流れ、毛先がゆらゆら揺れていました。

 私は、叫んだ拍子に口に当てた両手をゆっくり下ろして、おずおずと訊ねます。


「……いつから見てました?」


 フウロさんがにっこりと笑いました。人の良さそうな笑顔でした。


「うーん。鼻歌歌いながら、一回転して、また鼻歌歌うところは見たよ」


 最初からでした。私は両手で顔を覆います。

 恥ずかしい。他の人が見ていることは分かっていましたが、知り合いの人に見られていたと分かった途端、一気に恥ずかしくなりました。


「ホント面白いね。ココちゃん」

「ちょっと今ほっといてもらえませんか?」

「えー」


 不満そうな声で言いつつ、フウロさんの顔は笑ったままです。かと思えば、すんと鼻を鳴らしました。 


「あれ? ココちゃん、香水付けてるの?」


 フウロさんがずいっと、私の首元に顔を近づけました。


「良い匂いがする」

「近いです」


 私は一歩下がりました。

 フウロさんが一歩近づきます。

 

「石鹸みたいな、花みたいな、良い匂い。俺、好きだなあ」

「そうですか近いです」


 私は二歩下がりました。

 フウロさんが二歩近づきます。


「んー、あ、髪の匂い?」

 

 フウロさんの手が、私の髪に伸びました。

 ですが、髪には触れませんでした。


「髪、触ってもいい?」

 

 そう私に訊ねてきました。フウロさんが続けます。

 


「女の子の髪は、不用意に触っちゃだめって、前に女の子が教えてくれたんだよね」


 確かに、髪を結っている人の髪を不用意に触ったりしたら、怒られることがあります。

 私は髪を結っていないので、そんなことはありませんでした。目撃はしましたが。

 家の近所の魔法学校に通っていた頃、綺麗な髪の女の子がいました。髪型は毎日違っていて、今日はどんな髪型なのだろうと私の密かな楽しみでもありました。穏やかな女の子でした。怒らない印象でした。

 そんな女の子が、男の子 (ちなみにアークではありません)にその髪を触られた途端、豹変しました。

 

「せっかく時間をかけて整えたのに!」


 烈火のごとく怒りました。物を投げ、泣きながら呪文を唱えて男の子を水浸しにしました。

 普段怒らない人が怒るととんでもないことになる。これは、事実でした。とんでもなく、教室を大混乱に陥れました。

 その後、先生がやってきて、仲直りはしましたが、それ以降、男の子が女の子に絡むことはなくなりました。

 次に引き起こしたら、最悪死人が出るでしょう。


 昔のことを思い出しつつ、私はフウロさんと向き合います。

 私から見た彼の印象は、最初に出会った時よりも好転しています。といっても、微々たるものですが。この方は、良いことを言った直後に余計な一言を付け加えるので、好感度は上がったり下がったりの繰り返しです。本当に私と仲良くなりたいと思っているのでしょうか。

 なので、ちょっと変わった、めんどくさい年上の男性。という位置づけにしています。お義兄様ぎゃふん大作戦(命名は私です)を提案してくれた方なので、悪い人では、ないと思います。 


「だめです」


 ですが、髪に触っても構わないほど、私は心を許していません。


「ちぇー」


 唇を尖らせても、だめです。


――


 普段よりも、目覚めがよかった気がする。これもマリアンナがくれた香油の賜物だろう。素敵だマリアンナ。

 

「……あ」


 なんてことだ。忌々しいピンクとあまり関わりたくない深緑の彼が廊下にいる。このまま無視して通り過ぎたいが、僕は教師だ。そんなことはできない。


「やあ、二人とも。今日も元気そうだね」


 ピンクと彼が僕に視線を向けた。

 ピンクの髪が揺れた瞬間、微かに花と石鹸が混じったような匂いがした。

 ……良い、匂いだ。

 

「……」


 僕は忘れてはいない。ピンクがマリアンナから香油をもらったことを。

 うん。良い匂いだ。とても良い匂いだ。マリアンナは本当にセンスがいい。忌々しいピンクが好印象に思うくらい。

 ああ、良い匂いだ。本当に良い匂いだ。この匂いの香油を選んだマリアンナがすこぶる素敵だ。

 深緑の彼が、すんと鼻を鳴らした。


「あ、センセ。香水変えたの?」


 ピンクが首を傾げた。こてんと音が聞こえそうな気がするほど小さく、可愛らしく。

 見た目は。


「体臭、気になるようになったんですか?」


 意訳:加齢臭


 残念かな。見た目や匂いが良くなっても、僕のこいつの印象は変化しなかった。

 今日も今日とて、生意気で仕方ない。


「いいや。昨夜はマリアンナから貰った香油を髪に塗ってね。おそらくその匂いだよ」


 意訳:自分だけだとうぬぼれるなよ


「そうだったんですねえ。私も昨夜お姉様から貰った香油つけたんですよぉ。先生、よく似合ってますよ。良い匂いで、普段の匂いよりぜーんぜん」


 意訳:ずっとそれをつけて加齢臭隠しとけ


「うん。僕も気に入っているんだ。マリアンナは本当に贈り物のセンスが良くてね。他にも良いものを貰ったよ」


 意訳:お前は貰ったことがないだろ


「へぇー。そうなんですねぇ。いいなあ。私もセンス良くなりたいから、同性のお姉様に教えてもらいたい。二人でお出かけしながら」


 意訳:てめぇは男性だからこんなことできないだろ


 僕とピンクの攻防は今日も拮抗している。ピンクが折れない。全く折れない。見た目に反して可愛くない。


「いいなー。俺も黒髪美人ちゃんから香油貰いたい」


 両手を頭の後ろで組んでいた彼が、そんなことを呟いた。


「……」

「……」


 僕とピンクは同時に彼を見やる。無言のまま。逸らさずに。


 百年はええよ。


 言外にそう訴えた。

 彼はやれやれといった具合に肩を竦め、またしても呟いた。


「センセー、俺が狙ってるんだからココちゃんと仲良くするの止めてよ」

「狙わないでください迷惑です」

 

 ピンクが言い切る。

 

「僕は他の生徒と同様の対応をしているつもりだ。もちろん、君にも」


 僕がそう言えば、ピンクと彼が僕を見つめてきた。

 見つめている。見つめているだけ。何も言ってこない。

 僕だって馬鹿じゃない。マリアンナへの愛情。ライへの援助。ピンクへの嫌味。彼への牽制。他の生徒と同様じゃない扱いをしていることに覚えがある。

 けれど、言ってこないのだから、いいじゃないか。

 僕だって、これでも感情のある人間なのだから。

 僕はにっこり笑ってやった。


「なにかな?」

「何でもないです」

「べつにー」


 ピンクが不満げな顔で言い、彼が愉快そうに笑いながら言った。


――


「ライ様」


 教室で、マリアンナが話しかけてきた。


「もしかして、香油をつけたのですか?」

「……分かる?」

「はい!」

「……俺、この香油の匂い、好き」

「よかったです!」


 ライは無表情のまま、笑顔のマリアンナを見つめる。

 この後スケッチブックに、その笑顔を余すことなく描くために。

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