第8話 主人公、遭遇する

 親愛なるお姉様、メインヒーロー様、パパンとママン、愛犬、愛馬、幼なじみ。ついでについでにお義兄様。

 この状況を脱する知恵をください。


「やあ」


 目の前に、男子生徒がいます。肩まで掛かる、深緑の髪をしています。私の通行経路を邪魔するように、私の前に現れました。

 怪我をして、今日でようやく五日が経ちました。お姉様の笑顔を堪能しようとお茶会へ向かうため競歩で廊下を歩いていてこの仕打ちです。ご褒美がお預け状態です。


「……どちら様ですか?」


 私は訊ねました。制服にネクタイが外されているため、この男子生徒が何年生なのか、私には分かりません。同じクラスになったことはないと思われます。少なくとも、私からしたら初対面です。

 男子生徒はにへらと鳶色の目を細めました。


「まあまあ、そんなこといいじゃん」


 まったくもって良くないのですが。私は思わずジト目になりました。


「君さ、ちょっと前にいきなり柱に頭押し付けてたでしょ?」

「……」


 私はしばらく考えて、はっと思い出しました。私が怪我をした日、お姉様に会えない事実に悲嘆した時、確かに私は柱に頭を押し付けました。授業中のため、他の生徒はいないと思ていましたが、私と同様、この男子生徒も隙間時間だったのでしょう。


「……恥ずかしいところを、見られてしまいましたね」


 私は苦い顔をしました。あの時、人がいないとばっかり思っていたため、感情のままに行動していました。唐突に柱に頭を押し付ける人がいたらとても奇怪です。

 普段、お姉様の可愛らしさや美しさで受ける衝撃に耐える行動だって、自重したうえでの行動です。ええ、本当です。

 

「俺は面白いなーって思ったけど」

「……」


 なんでしょう。どうにも嫌な予感がします。お腹の底のあたりがぞわぞわします。

 男子生徒とは初対面ですが、男子生徒の言動はどこか既視感を覚えます。

 そうです。既視感。以前見た夢と同じような、今世ではなく前世で見知った知識からくるものです。

 男子生徒は言いました。


「ねえ、俺と付き合ってみない?」


 出会って数分しか経っていない私に、そう言いました。

 私は既視感の正体を思い至り、そして思いました。


 出たー!


 まるで台所に時折現れる黒い魔物に遭遇した時の発言ですが、本当にそう思いました。

 何度も言うようですが、この世界は乙女ゲームです。私はその主人公です。「君、面白いね」なんて言葉は、乙女ゲームに出てくる台詞トップ5には入ります。

 つまり、この男子生徒は。


「退屈は、させないよ」


 攻略キャラです。しかもチャラ男枠です。

 前世の知識から、私、チャラ男=金髪なのだと思っていましたが、違うのですね。固定観念でしたね。学び直しました。


「これから、街に行かない?」 

「申し訳ありませんが、ノーサンキューです」

「えー、どうして?」

「予定があるので」


 そうです。私には予定があります。大事な大事な予定です。五日間の禁欲の解放です。

 夢でお姉様とキャッキャウフフな時間を過ごして、それが全部夢だと知った時の絶望感は凄まじかったです。朝から枕を濡らしました。禁断症状が、そろそろ本気で出そうです。


「そういうわけですので」


 私は男子生徒に背を向けました。待っていてください、お姉様。私は今すぐ向かいます。その素敵な笑顔を私に向けてください。多分嬉しさのあまり泣きます。 

 そう、希望に満ちた素敵な未来を思い浮かべていたのに。


「待ってよ」


 男子生徒は、私の手首を掴みました。怪我をしていない方の手首だったので、さほど痛みは感じませんでしたが、力の差で私はその場に止めさせられました。


「どうせ些細な予定でしょー、そんなの放っておいてさー、俺――」


 私は、十分に我慢したと思います。五日もお姉様に会わずに過ごして、見ず知らずの攻略キャラの男子生徒と話して。

 十分に我慢したのに、それでもまだ駄目だというのでしょうか。新手のいじめです。


「ホントにイヤなら、殴ってでも俺から逃げてみなよ」


 途中から聞いていなかった男子生徒の言葉が、いやによく聞こえました。

 ええ、ホントに、本当に嫌ですとも。今この時間でさえ、お姉様と会う時間が削られているのだと思うと、歯ぎしりをしそうですし、腸が煮えくり返りそうです。

 

「……」


 言質は、いただきました。

 私は、覚悟を決めました。


「ねえ、行――」


 男子生徒の言葉が不自然に止まりました。無理もありません。私が、止めたのですから。


「……っ!」


 男子生徒の頬を叩いた手に、痛みが走りました。掌に、手首に。負傷していた方の手ですから、なおのこと。

 目の前が潤みました。痛みと、来るかもしれない悪い未来のせいで。

 人を、叩いてしまいました。言質をいただいたといっても、これは暴力行為です、生徒指導の教師にお世話になる事案です。男子生徒が貴族で、そのことを盾に言われてしまえば、私が退学になる可能性があります。

 リスクを冒しました。分かっています。重々承知です。

 でも、それでも私は、


 攻略キャラよりも、元悪役令嬢を選びました。


 男子生徒の手が、私の手首を放しました。


「ごめんなさい! でも私は、行かなくてはいけません!」


 呆けている男子生徒に、私は全力で頭を下げてから踵を返しました。

 走って走って走って。

 大好きな人と会うために、大好きな人がいる場所を、目指しました。 


――


「怪我、か」


 放課後、僕はお茶会へ向かうため廊下を歩いていた。

 僕はマリアンナとライの約束通り、あいつの事情を他の教師から聞いた。それとなく、教師として気になっているだけで、僕自身が気になっているわけではないことを前提に。

 なんでも、手首を捻挫したそうだ。魔法実技の授業を見学するくらいの怪我だそうだ。

 それだけの、怪我だ。


「それだけなのに」


 あいつは、マリアンナを悲しませた。言えば済むだけの話なのに、何日も、マリアンナを悲しませた。

 その事実が、僕に重くのしかかる。

 あいつは、いない方がいいのに。いたら良くないのに。

 それなのに。

 マリアンナの笑顔には、あいつが必要だなんて。


「認めたくは、ない」


 認めたくない。認めたくはないけれど、それを覆せることができる術を、僕は持っていない。

 僕は――


「……ん?」


 靴音が聞こえる。音の間隔は狭く、走っている音だと分かった。

 僕の、背中の方から、だんだん近づいてきた。


「こら、廊下は」


 振り向きざま、僕は言いかけた。

 ピンクの髪が僕の視界に映り込んだ。そこそこに可愛らしい顔が、前を見ていた。まっすぐに。ぶれずに。

 僕に見向きもせずに走り去って行ったあいつ。向かっているのは、お茶会が開かれているガゼボだろうか。

 ああ、なら


「今日からまた、考えればいい」


 あいつを追い出す術を。マリアンナが悲しまずにできる術を。

 考えて、めでたしめでたしにすればいい。


「……ん?」


 そう考えこんでいたら、僕の横を誰かがすごい速さで走り抜けた。制服を着ていたから、生徒であることは確認できた。

 まるで誰かを追うように、迷わず一直線だった。

 そう、まるで――


「……まさか」


 予感がした。良くない予感だ。

 僕は走り出す。

 校則? 知ったことか。

 そんなことより、大事なものが脅かされるのが、僕には我慢ならないのだから。

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