第16話 停職
「しばらく、休暇をとりたまえ、エバンズ君」
東オルガン市警、警部補室。
前に座っている警部補の言葉に、エバンズは耳を疑った。
「え? 」
「君は今まで無欠勤無遅刻。有給も消化していない。ゆっくりと旅行にでも行ったらどうかね、恋人と」
「あ、あの……どういう……」
恋人はいませんけど。
疑問を口にして見下ろすエバンズを有無を言わさない目つきで警部は見上げた。
「あ、は、はい」
エバンズは思わず頷く。
「よろしい」
何故いきなり、こんなことを言われねばならないのか。
エバンズは、こんがらがった。
「あ、あの……いつまで……」
「こちらがいいというまでだ」
ぴしゃり、と警部は言い放った。
「は、はい……」
「今日はもう帰っていいぞ」
こちらには見向きもしない警部に、エバンズは礼をして部屋を去った。
部屋の外で待ち構えていた、相棒のテオが近寄ってきた。
「やっぱり、俺の言ったとおり、『指導』で終わってりゃ良かったよ、ヴィンス」
「何?」
「あのガキ、署長の息子だ」
エバンズはがん、と頭を殴られたような気がした。
なんだって。
じゃあ……。
「気の毒だな、ヴィンス」
体のいい停職、ということか。
がっくり、とエバンズは肩を落とした。
同僚たちの憐れむような視線を受けながら、エバンズはすごすごと職場を去ったーー。
ーーーーーーー
テス教会に入ると、背の高いベアーの姿はすぐ目に付いた。
彼は横三列に並んだ中央の席の一番後ろに座っていた。
エバンズは静かに歩み寄ると、彼の隣に座った。
「エバンズ巡査」
神父の話に聞き入っていたベアーは、驚いた顔で隣のベアーを見る。
「今日はお仕事はもう終わりなのですか? お疲れ様です」
「どうも。テス教会は夕方に集会が行なわれるのですね」
「仕事帰りに、教会に寄りたいという要望が多く、ハーディー神父が始められたそうです」
ベアーは小声で教えてくれた。
「特に、エルザのような女性たちは朝の集会には出席しづらかったようですね。夕方の集会でよく彼女たちを見ました」
「そうですか」
「付き添いさせていただきましたウォルフガングさんですが。特に異常はないとのことでした」
「それは、良かったです。彼は災難でした」
彼に暴力をふるった少年の正体を話してやろうかと思ったが、エバンズはやめた。
教会に響くハーディー神父の声にしばらく聞き入る。
信者は50人ぐらいだろうか。
静かに彼の言葉に耳を傾けている。
「……今日は、すごく祈りたい気分なのです」
教会の空気と隣に座るベアーが与える雰囲気に、エバンズは告白した。
「昼間、お話した亡くなった女性は、私にとって特別な女性でした。……私はおそらく彼女に惹かれていたのだろうと思います。……こんな形で再会するとは思っていなかったものですから」
ベアーの沈黙が心地よかった。
彼の側は落ち着く。
「彼女は、テス教徒なのだろうと思います。……ですので」
ロザリーの死を悼むのは、もしかしてこの自分だけなのではないだろうか。
そう考えて、エバンズは目の奥が熱くなる感覚に目を閉じた。
ゴミ箱の前に捨てられていた彼女。
子供を産み落としたばかりの彼女に、どうしてあんなひどいことができるのか。
「……彼女のために祈りましょう」
ベアーがささやき、目を閉じてテス教の祈りをつぶやいた。
エバンズも、彼の言葉を続けた。
姿を消す前の君を、僕は覚えていたよ。ロザリー。
君の快活な笑顔が僕にはまぶしくて、いつも素敵だと思っていた。
いつのまにかハーディー神父の話は終わっており、信者がぞろぞろと席を立ち帰っていくところだった。
エバンズとベアーの二人は席に座ったまま、水の底に沈んだような時が通りすぎるのをしばらく待った。
「……ハイスクールの時に、テス教徒の女性と付き合ったと以前お話したと思いますが」
「はい」
「あれは、嘘です。付き合うまでには至らなかった」
酒に酔っているわけではないのに。
ベアーに語り始める自分に、エバンズは驚いた。
ロザリーのことでかなり感傷的になってしまっているのか。
「……私の勘違いでなければ、彼女も僕のことをそれなりに思ってくれていたのだと思うのです。だから、僕……私は、自分の思いを彼女に伝えたのですが」
彼女が静かに首を振って断った光景を、エバンズは思い出して言った。
「『あなたはメイヤ教徒だから』と。『それに東オルガンのひとだわ』とも。彼女は僕を拒否しました」
ーーテス教に改宗すればいいの? と聞く自分に、彼女は自分だけじゃなくあなたのご家族も改宗しなければ無理よ、と首を振った。
「今時、と思いました。それに、東オルガンの人間だからといったって、僕の先祖は執事ですよ。……彼女の家は特に敬虔なテス教徒だったのでしょう。ご両親が同じテス教徒でないと認めない方だったのかもしれません。なら、彼女がそう言ったのは仕方がないかもしれない。……それでも。その言葉を聞いたときは、悲しくて」
エバンズは、小さく息を吐いた。
「テス教徒のひとたちにとっては、いまだに王族、貴族は憎むべき存在で。メイヤ教徒は心を許せない存在であるのかと」
迫害をくりかえした王族。見てみぬふりをした、かつての同胞。
「隣のゼルダのように無宗教である国には、当然ながらそんな遺恨は存在しない。人々の心に憎しみを植え付ける種となるのなら、宗教なぞ、いらないのではないかと。なんのために存在しているのかと、僕は思いました」
いっそ、なくしてしまえばいいのではないか。エバンズはあの時そう思った。
生まれた時から、メイヤ教徒だった。でもなぜ、自分がメイヤ教徒でいるのかということも分からないーー
「……私もかつて、そのように思っていました。……なんというか、宗教とは後進的な考え方ではないかと」
発せられたベアーの意外な言葉に、エバンズはびっくりしてベアーを見た。
エバンズが向ける表情に少し微笑みながら、ベアーは言葉を続ける。
「それでも。……愛するものを失ったとき、すがりつくものが、あるのとないのでは大きな違いが。やはり必要なのではないかと思います。……そのために、神という存在があるのではないかと。私は、それがなければとうてい立ち直れなかったと思いますから」
ベアーは愛する人を失った経験があるのか。
気の毒に。
そうですか、と小さく答えてエバンズは黙った。
再び、静けさの波に沈む空間の中、二人は流れに身を浸す。
「……だから、テス教について調べられたんですね」
ベアーが穏やかにエバンズに言った。
エバンズは頷く。
「はい。特にギールについては。このような人物がいたのかと、尊敬しました」
メイヤ教では薄い存在だった、使徒ギール。
「……彼は不遇の人物で、そして強い。愛するアネッテを失ってからの彼は特に。不幸な子供たちのために一生を捧げました。……彼が去勢をしたのは有名な話ですが。あれは美丈夫であった彼が女性たちの誘惑を断ち切るためだったとされていますが、僕はアネッテへの罪を償うためにした行動ではないかと思っています。だってそこまでの罪悪感でもなきゃ、あんなことはできないと……」
「あー、実はその説には、もうひとつありますね」
いきなり話の腰を折られたエバンズは不愉快に思い、ベアーを見やった。
ちょっと。これからいいとこなのに。語らせてくれないかな。
目が合ったベアーは、いたずらっぽくエバンズを見返していた。
「ここだけの話です。わたしが聞いた筋の話ですが。……実はギールのそれは、ある高名なご婦人に手を出してしまったお仕置き、だったそうです」
「ええっ!」
あまりといえばあまりな説に、エバンズは大声を上げてしまった。
「実力者の奥方と秘密のお相手をしていたギールが、ばれて、落とし前をつけられたのがその結果だとか」
「い、いやいや、それはないでしょう! あ、あなた、テス教徒なのにギールに対してよくもそんなことを……!」
「私はこの説を一番信じていますね。絶世の美男子で頭の回転も速かったギールです。むしろ狡猾だったのではないかと私は思っています。健全な男子ならば上手く立ち回ろうとするのが世の常ではないですか……彼は一回の失敗で反省し、心を改め生き方を変えた。そちらの方が終始一貫、清貧、禁欲を貫いたとされるギール像よりも真実味があります」
「そ、そうですか……? い、いやいや、ないです。ないでしょう! ギールにそれはありえない!」
「まあ、この説を信じるか信じないかは、エバンズさんのご自由です」
ベアーの目がエバンズを試すようにきらきらと輝く。
「神話の人物像なんて、おおかたが祭り上げられて本来の姿は歪められてしまっているのが真実でしょう。私はギールを通説どおりの高潔な人物ではなかったと思っています。追放されて、キエスタで快楽の女神ネーデになったアネッテもしかり。……でも、その方が魅力的な人物に私の目には映ります」
そういうベアーの魅力的な笑顔に。
思わずギール像を重ねてしまったなんてことは。
悔しいので絶対に認めるもんか。
エバンズは心の中で唇を噛む。
ベアーがゆっくりと立ちあがった。
「……外に出ましょうか、少し飲みたい気分ではありませんか」
「……ええ、そうですね」
ベアーにつられてそう答えたエバンズは、はたと考えた。
飲み代は、もちろん自分が払うんだよな。
……この男。
にこにこと笑みをたたえたまま、自分を見下ろすベアーをエバンズは少し睨みつけてやった。
自分の気分を浮上させるために仕組んでいることだったとしたら、すごいことだと思うけど。さきほどのギールの話なんて。
でも、僕の理想とする男性像ギールをさっきの話のような男に貶めることは許さないぞ。
軽くにらんでいた目を細め、エバンズは破顔した。
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